0120 カイル・ギアハート
──回想 カイル・ギアハートの半生──
「おい! 酒がねぇぞ!」
父親の怒声と、酒瓶を投げつけられ額から血を流す母の姿。
それがカイル・ギアハートの片隅に残る、最も古い記憶であった。
危ないから隠れていなさいと母の手で衣装タンスの中に押し込められたことと、僅かに開いた隙間から母が殴られる様子を息を殺してじっと眺めているしかなかったことを今でもよく覚えている。
当時のカイルにとって父は恐怖の象徴だった。
酒が切れれば途端に機嫌が悪くなり、力任せに暴れるのだから怖くないはずがない。
なぜあんな化物が結婚できたのか不思議でならなかったが、信じられないことに結婚を申し込んだのは母のほうだったそうだ。
母いわく、あれでもかつては名のある冒険者であったらしい。
だがカイルが腹の中にいる頃にダンジョンで呪いを受け、思うように身体を動かせなくなり、それっきりああなってしまったのだという。
だからだろうか。
母はどんなに暴力を振るわれても文句の一つも言わず、呪いで思うように働けない父を懸命に支えようとしていた。
誰のおかげで生きていられると思っている。
父がよく口にしていた言葉だ。
かつて二人の間に何があったのかは分からない。それでも母の様子からだいたいのことは想像できた。
おそらく父は母を庇って呪いを受けた。今になって思えば、そのことは母を縛る呪いだったのかもしれない。
だが、カイルの知らないところでその呪いを解いた者がいたのだろう。
別れは唐突に訪れた。
「お母さん、買いものに行ってくるね」
「うん。いってらっしゃい」
「……アリアのこと、お願いね」
「……お母さん?」
ある日、母は買い物に行くと出ていったきり、二度と帰ってこなかった。
カイルが十歳になったばかりの頃のことである。
出かける直前、最後に母が強く抱きしめてくれたのは、彼女なりの別れの挨拶だったのだろう。
「おい! アイツはどこ行った!?」
「き、昨日の朝、買い物に行くって……」
「ちくしょう! あの女、さては逃げやがったな! 探してこい! 見つけるまで帰ってくるな!」
母が逃げたと知った父は、今までにないほど荒れ狂った。
酒瓶を投げつけられ家を追い出されたカイルは、泣きながら母を求めて町中を探し回ったが、夜になっても母は見つからなかった。
「いやっ! やめてお父さん! いやぁぁっ!」
「うるせぇ! アイツがいなくなったのはお前のせいだ! お前がそんな身体で生まれたばっかりに! この金食い虫め!」
途方に暮れて仕方なく家に戻ると、妹の悲鳴が聞こえた。
何事かと思い家に飛び込んで────絶句した。
父はまだ六つにもならない娘を床に組み伏せ犯そうとしていたのだ。
恐怖よりも怒りが勝ったのはこの時が初めてだった。
気づけば床に転がっていた酒瓶の破片を握りしめ、父の背中を滅多刺しにしていた。
父が酒に酔っていたことと、タイミングよく父の身体が呪いで硬直したこと。すべてがカイルの味方をした。
妹のすすり泣く声でカイルが正気に戻ると、父はすっかり冷たくなっていた。
「……なんだ。簡単じゃないか」
今までずっとこんな雑魚に怯えていたのだと思うと、これまでの日々が馬鹿らしく思えた。
「兄さん。お父さんがっ。お父さんがぁ……っ」
「……怖かったな。大丈夫。もう大丈夫だよ」
父を殺したばかりだというのに、このとき、カイルの頭はやけにすっきりと冴えていた。
(────もうこの町にはいられない)
その夜、カイルは闇に乗じて家に火を点け、隣国へ向かう行商人のガルダ車に妹と二人で身を隠した。
今にも衛兵に見つかって殺されるのではないか。それを思うと一睡もできなかった。
だが結局翌朝まで誰にも見つかることはなく、二人を乗せたガルダ車は予定通り町を出発した。
カイルが己の幸運を神に感謝したのは後にも先にもこれっきりである。
道中で行商人に見つかってしまったが、情に訴えかけてどうにか隣国まで乗せてもらう約束を取り付けた。
もし自分たちの容姿が父親に似ていたら、この結果は無かっただろう。
自分たちを捨てた母親を恨み切れなかったのも、鏡を見る度に母親から愛された記憶を思い出せたからかもしれない。
「────お前、この先どうするつもりなんだ」
護衛の剣士からそんなふうに尋ねられたのは、隣国を目指す道すがらのことであった。
「聖神教の教会を訪ねる。うまくいけば孤児院に入れるかも」
「そのあとは?」
「冒険者になる。稼がなきゃいけないし」
無邪気な子供のふりをして答えると、剣士は難しい顔で「やめとけ」と首を横に振った。
「冒険者で稼げるのは才能のあるやつだけだ。大抵の奴は稼げるようになる前に諦めて別の道に進むか、魔物に食われて死ぬからな」
「じゃあ俺に才能があるか見てくれよ」
カイルがそう返すと剣士は虚を突かれたように目を見開き、それからすぐに「やれやれ」と苦笑した。
生まれも育ちも自分とはまるで違う少年。
だがそこにいたのは紛れもなくかつての自分自身だった。
「一回だけだぞ?」
その一回が運命の分かれ道だった。
小休憩のため立ち寄った小川のほとり。そこで才能を見せつけたカイルは、移動の間、護衛の剣士から戦いの基礎を教わることになる。
二週間あまりの旅の果て。隣国の町の孤児院に妹と共に転がり込んだカイルは、そこを拠点に第二の人生を歩み出した。
────────
────
──
鉄等級冒険者として町の雑用を請け負い日銭を稼ぐ傍ら、カイルは剣士から教わったことを基礎を思い出し、ひたすらに剣の腕を磨いた。
そうして一年もしない内に小型の魔物程度では相手にもならなくなり、実力を認められ銅等級に昇格。
依頼を通じて知り合った老魔法使いから魔法の基礎を習い始めると、カイルはこちらでも才能を発揮し、冒険者としてみるみる頭角を現していった。
早く一人前になって妹の病気を治してやりたい。その思いが彼を強くした。
冒険者としてのカイルは常に孤独を好んだ。
仲間が多くなるほど報酬を分配せねばならず、妹の薬代が減ってしまうと考えたからだ。
そのせいで時折、同業者から不興を買うこともあったが、すべて実力で黙らせた。
卓越した剣技に加え魔法の才能も開花させたカイルは、次々と困難なクエストを達成し、十四歳の春、ついに金等級にまで上り詰める。
これは単独で活動する冒険者の昇級記録としては歴代最速かつ最年少の記録であり、未だに破られることなく輝き続ける彼の偉業の一つだ。
「おめでとう兄さん。もう金等級だなんてすごいわ」
「ああ。これでもっといい薬が買える。お前の病気だってきっと治るさ」
「……うん。ありがとう、兄さん」
兄のカイルが冒険者として華々しい躍進を見せる一方で、妹の容体は歳を重ねるごとに悪くなっていた。
妹は魔硬化病を患っていたのだ。
兄として、できることはなんでもやった。
伝手を辿り魔法都市から高名な医師を呼び寄せもしたし、貴族ですらおいそれと手を出せない高価な薬も惜しみなく与え、妹の病に効きそうなものがあると噂を聞けばどんな秘境にも挑んだ。
しかしそうした努力の甲斐も虚しく、カイルが十五歳の春────ついにその時は訪れる。
享年十三歳。
魔硬化病の患者としては異例なほどの長生きだったと医者は言った。
妹が死んでからしばらくの間、自分がどのように過ごしたのか、カイルは殆ど覚えていない。
気づけば一ヶ月以上も経っており、妹の亡骸はとっくに墓の下に埋まっていた。
────異例の長生き?
それが何だと言うのだ。
たった一人の命すら救えない“やぶ”のくせに、何を偉そうに。
妹の墓を見下ろすカイルの胸裏にやり場のない怒りが沸々と沸き上がる。
『何が、最年少の金等級だ……。何が天才だ!!!! 妹一人護ってやることもできないで!!!!』
妹を病から救ってみせる。
ただそれだけのために剣の腕を磨き、魔法の知識を詰め込んできた。
だが、そんなものはまったくの無意味だった。無意味になってしまった。
妹は死に、後には空っぽの自分が残っただけ。
ただただ不甲斐ない自分が許せなかった。
『…………どうして俺はまだ生きている? アリアは、生まれた時からずっと苦しんできたのに』
妹のいない世界で生きている意味なんてない。
ならばいっそ、このまま────。
『そう早まるものではない』
妹の墓前で膝立ちになり、カイルが自らの喉をナイフで貫こうとしたその時。
背後から彼を呼び止める声があった。
少年が振り返ると、それは木の影だった。
うねり、絶えず形を変える影は、やがて髑髏の形に変わり、再び口を開く。
『妹を蘇らせたいかね』
常世と幽世の間を揺蕩う不死魔王の影が囁く。
魔王の言葉は生きる意味さえも見失っていたカイルの耳に、甘い毒のように染み込んだ。
『……会えるのか。アリアに、妹にもう一度!』
『会えるとも。君が望み、吾輩の手を取りさえすれば』
迷いなど、あるはずもなかった。
カイルは魔王の手を取り、生きとし生けるものすべての裏切り者となった。
◇
──不死魔王城 玉座の間正面廊下(side大翔)──
雷光のような一閃を紙一重で躱す。
そのまま背後にすり抜けざま闘気を込めた刃を鞘から抜き放つが、俺の剣は巧みな剣さばきでいとも簡単に受け流された。
剣と剣が擦れて火花が散る。返す手で放たれた斬り上げを虚空瞬在で回避。
わずかにタイミングが遅れ、斬り落とされた前髪がはらりと宙を舞った。
カイルの頭上に飛んだ俺は重力落下の勢いを乗せて剣を振り下ろす。
だがカイルは足を半歩引くことでこれを躱し、着地の瞬間を狙って疾風のような刺突を繰り出してくる。
鋭い切っ先が俺の眼球を穿つ直前、虚空瞬在でカイルの背後へ飛んで刺突を回避。
するとカイルはその場で軸足を入れ替え回転斬りを放った。
後ろに倒れこむようにして回転斬りを躱し、身体に闘気を纏わせ足払いをかける。
俺の闘気を嫌がってか、カイルはジャンプでそれを躱し、空中から五月雨のような突きを繰り出してきた。
再びカイルの頭上へ虚空瞬在で飛んで刺突の雨を逃れた俺は、身体を大きく捻り、落下の勢いを乗せた回転切りを放つ。
俺の回転切りを剣で受け、カイルの身体が後ろへ大きく吹き飛ぶ。
その勢いで転げ落ちそうになった首をわちゃわちゃとお手玉して、元の位置に戻してホッと一息。
「やるなぁ、お前」
────やっぱりこの人、とんでもなく強い。
ハルトの魂に触れた今の俺には、彼の三万年分の戦闘経験も加算されている。
俺自身の肉体が未熟なせいですべてを引き出し切れているとは言えないが、それでも三万年という数字は、せいぜい百年程度しか生きられない人族では逆立ちしたって追いつけない数字のはずだ。
にも関わらず、この人は天性の才能と生前鍛え上げた剣の腕だけで俺と渡り合っている。
正真正銘の天才。そんな言葉が脳裏を過る。
「やめてカイル! どうしてこんな!」
「アリアはそこにいて! この人は俺が倒す!」
「おっ、いいねぇ。男の子はそうでなくっちゃなぁ!」
カイルが犬歯を剥いて好戦的に笑う。
一瞬で彼我の距離を詰められ、嵐のような刺突が俺を襲う。
幽歩を交えたバックステップ。右、左、左、右と紙一重で躱していく。
「へぇ、これも避けるか」
「……ッ!?」
嫌な予感が過り、とっさに首を大きく横に逸らすと、不可視の刃が俺の頬を掠めた。
まさか魔法!? 剣士のくせに器用な!
しかもアンデッドだからか、どれだけ待っても息切れする様子がない。
くそっ! ハルトと同じ顔でヘラヘラと!
「はっはは! 躱す躱す! 凡人以下のくせによくやるよ!」
「うる、さい、なっ!」
待っていても隙はできない。だったら!
タイミングを計り、カイルの背後へ転移して横なぎの一閃を放つ。
「おっとぉ!」
カイルはこちらを見向きもせず、その場で僅かに膝を曲げる。
俺の放った一撃は繋がっていない首を素通りして空振りした。
そんなのあり!?
「死人にゃ死人の戦い方があんだよ!」
「うわっ!?」
宙に浮いた首を片手で掴み、カイルが自分の首を投げつけてくる。
反射的に飛んできた首を剣で弾くと、すでにカイルは大技の構えを取っていた。
やば────!?
「獅子八閃!!!!」
あまりの剣速に、カイルの剣が八つに分裂したように見えた。
殆ど反射でカイルの背後へ飛んで剣の間合いから逃れるが────直後、身体から力が抜け、俺はその場に倒れ込んでしまう。
「ぐっ!?」
「ヒロトさま!?」
アリアが血相を変えて駆け寄ってくる。
まるで全身をズタズタにされたように痛む。なのに出血は一滴もない。どうなってるんだ。
投げ捨てられた首がふわりと浮き上がり元の位置にぴたりと収まると、カイルが驚き顔で口を開く。
「へぇ、初めて使ったがこうなるのか。普通の剣だったら即死だったぜお前」
「あなた、まさかその剣!?」
「姫様には流石にバレますか。呪殺剣バルバロス、本物ですよ?」
刃の腹をカイルの指がついとなぞる。
すると剣そのものが放つ邪気が僅かに高まったのを感じた。
「呪殺剣……?」
「エルデンバーグの国宝ですわ。……あまりにも込められた呪いが強すぎて破壊することもできず、宝物庫に封印するしかなかった。というのが正しいですが」
「かつて豪鬼魔王ドラジスが使ったとされる伝説の魔剣さ。斬り裂いた相手の魂を崩壊させ完全消滅させる。この剣で斬られた相手は死ぬことさえ許されない」
……まずい。視界がぼやけてきた。
利き腕がまったく動かない。くそっ、ここまでなのか……っ。
「ヒロトさま。少し寒いですが許してくださいまし」
「何……を────」
◇
──不死魔王城 玉座の間正面回廊(sideアリア)──
大翔の身体がずぶずぶと影の中に沈み込んでいく。
あっという間に大翔の姿は見えなくなり、アリアは軽く目を伏せると冥界の女王に祈りを捧げた。
助かるかどうかは運次第だが、冥界の女王と精霊たちはこの祈りを聞き届け、手を尽くしてくれるはず。
やがて祈りを終えたアリアが静かに顔を上げる。
「……一つ、聞いてもよろしくて?」
首なしの亡霊を見据え、冥の大精霊が問いかける。
その瞳に宿るのは深い悲しみと、こうなる前に止められなかった己自身への怒りだ。
「王城にアンデッドを引き込んだのは……王都の結界に細工をしたのはあなたですわね?」
「……ま、流石に気づきますか」
剥き出しの感情を叩きつけられ、生気の宿らない濁った瞳が僅かに揺れる。
だが感情の尾が見えたのは一瞬のこと。カイルはすぐさま不真面目な笑みを浮かべるとアリアの問いに飄々と答えた。
「どうして!?」
エルデンバーグ王城で起きた惨劇のあらましは、大翔から伝え聞いている。
アリアに気を使い、大翔は城の人々がどのような最後を遂げたのか詳しくは話さなかった。
それでも風邪で寝込んだときの彼の様子から、父や母が無残な最後を遂げたのだろうとは容易に想像できた。
そして今しがた、大翔にカイルとの思い出を開示するのと引き換えに、アリアは彼が隠していた惨劇の真実を垣間見た。
一瞬にして無残な肉片となった父の姿を思い出し、アリアは唇を噛みしめる。
あんなもの、到底人の死にかたではない。
「……どうして。お父様たちになんの恨みがあって!」
「恨みなんてありません。国王様は俺の実力を高く評価してくださった。給料も良かったですしね」
首なし騎士がへらりと笑い、冗談めかしてはぐらかす。
生気の宿らない瞳の奥に渦巻くのは、生前残した強い後悔。
そんな闇よりも深い黒に見つめ返され、アリアは思わず息を飲んだ。
「俺は妹が死んだあのときから、生きとし生けるものすべての裏切り者だった。それだけのことです」
「では、やはり最初から」
「王都の結界を書き換えるために忍び込んだってのに、まさか妹と同じ名前の姫様に仕えることになるとは思ってもいませんでしたがね」
濁った瞳が僅かに揺れる。
妹と同じ名前、妹と同じ病気。カイルがアリアに亡き妹の面影を見るようになるまで、そう時間はかからなかった。
もしもこの少女を救うことができたのなら。
その時は魔王の手を払いのけ、彼女の騎士として真の忠誠を誓おう。
一時期はそんな夢を真剣に考えたこともあった。だが────。
「……あんな結末を二度も見るなんて、俺には耐えられなかった」
運命は二人に微笑まなかった。
アリア姫の病を治す方法は見つからず、カイルは妹を蘇らせるため人類すべてを裏切る道を選んだ。
それが結果で、それがすべてなのだ。
「あなたを斬れば妹は蘇る。これまでのすべてが報われるんだ」
呪殺剣の切っ先がアリアに向く。
今やこの世界の理の一部となったアリアが死ぬことはない。
だが星の数ほどの魂を砕き、その刃に呪いを溜め込んできたこの剣ならば、上位存在となったアリアの超高密度魔力体さえも傷つけうるだろう。
もしこの身体が破壊されるようなことがあれば、次に現世に顕現できるのがどれだけ先のことになるか、彼女自身にも想像がつかなかった。
「だったら、どうしてそんなに辛そうな顔をしてますのよ!」
魔神の右腕を顕現させ、アリアが身構える。
それを見てカイルも姿勢を低くし、剣を構えた。
「はは……。野暮なこと聞きますね」
これもすべては神が自分に与えた罰なのか。
────否。
頭を振り、カイルは脳裏に浮かんだ気弱な考えを払いのける。
すべては己が望み選んだ結果。
因果応報。かつてどこかで聞いた異世界の教えが脳裏を過る。
「どうして普通に生まれ変わってくれなかったんだ!!!!」
「こっちの台詞ですわよ!!!! このすっとこどっこい!!!!」
魔剣と鉄拳が激突し、火花を散らす。
叶わなかった願いと、届かなかった想い。
互いの未練を断ち切るための戦いが今────始まる。




