0091.b 俺の知らない君 前編
懐かしい町並みの中を歩いている。
ここは……故郷の住宅街か。
俺は今、美乃梨の視点を通じて過去を見ていた。
日も落ちかけた夕方。目の前には赤いランドセルを背負った渚の姿が見える。
その背中があんまりにも懐かしくて、思わず泣きそうになってしまった。
「ん? あれ、みのりん泣いてる!? どったの!? お腹痛い!?」
「……え? あれ、なんでだろ。分かんない。ゴミでも入ったかな」
「あそこの公園で洗ってく?」
渚が指差す先には小さな公園があった。
二人で公園に立ち寄り、水飲み場で美乃梨が顔を洗う。ハンカチで濡れた顔を拭くと、渚が仔猫とじゃれていた。
「かわいい! どこの子かな」
「首輪ついてないし多分ノラじゃない?」
しばらく二人でじゃれてやると、仔猫はすっかり懐いてしまい、二人の後についてきた。
「ついて来ちゃったよ?」
「そうかそうか。おまえウチの子になりたいか~」
「みゃお!」
渚が話しかけると、仔猫は「そうだ」とばかりに鳴いた。
その仕草があんまりにも可愛くて、二人は顔を見交わし思わず笑みがこぼれる。
渚が仔猫を抱き上げて、二人で他愛のないことを喋りながら再び帰路につく。
……ダメだ。そっちに行ったら。
運命の交差点が近づく。
もうすぐ死ぬことになるというのに、渚はのんきに前髪に息を吹きかけ遊んでいた。
「ねぇ、みのりん」
「なに?」
「もし、さ。明日おれが死んじゃったら、どうする?」
「もしかしてヒロ君、あんまり調子よくない?」
「いやいや、例えばの話」
「……嫌だよ。そんな話。なーちゃんがいなくなっちゃうなんて、考えたくもない」
「そっか。ごめん、変なこと聞いた。今の忘れて」
どこか誤魔化すように苦笑して、渚は猫とじゃれ始めた。
こんなことを聞くなんて、やっぱり渚は俺の死期が近いことを薄々感づいていたのかもしれない。
そして二人は運命の交差点にたどり着く。
ふと美乃梨が交差点の向こう側を見やると、仔猫を連れた母猫が横切った。
「────」
「え、何? 何か言った?」
向こう側の歩道に気を取られていた美乃梨が聞き返すと、渚は「なんでもない」と苦笑しつつ首を横に振る。
と、次の瞬間────。
「みゃう!」
「あっ!」
渚の腕から仔猫が飛び降り、道路の方へ駆け出していく。
右側からは青信号で直進してくる乗用車が一台。
運転手と目が合ったのか、仔猫は車の方を向いたままじっと動かない。
ここで渚が動いた。
渚が仔猫を拾い上げて対岸の歩道へ放り投げる。小学生にはそれが精いっぱいだった。
激しいブレーキの音と衝突音。
一瞬の出来事に、美乃梨はただ呆然と立ち尽くすことしかできないでいた。
すぐに車からお爺さんが降りてきて、携帯で救急車を呼ぶ。
道路に広がる血だまり。近づいてくるサイレンの音。
わけも分からないまま立ち尽くす自分だけを残して、世界があっという間に過ぎ去っていく。
渚と一緒に救急車に乗り込み、救急隊員の指示で必死に渚へ呼びかける。
「なーちゃん! しっかり! なーちゃん!」
「────ああ、やっぱりこうなった」
救急車の中、薄く目を開けた渚は、どこか納得したような顔をしていた。
死の間際で意識が朦朧としているのか、救急隊員が呼びかけても反応が鈍い。
渚は美乃梨だけを見つめて最後の言葉を絞り出す。
「みのりん。大翔のこと……おねがい…………」
ピー、と。心電計の電子音が鳴り続ける。
むせ返るような血の臭いと、命の終わりを告げる無情な音だけが、いやに記憶に焼き付いていた。
△
まるで映画の場面転換のように景色が切り替わる。
蝉時雨の降り注ぐ神社の境内。
夏休みの自由研究のために早起きして虫を取りに来たときの記憶だろう。
美乃梨の少し前を、小学五年生の俺が虫取り網片手にずんずん歩いていく。
自分の背中を眺めるのって、なんだか変な感じだ。
この年、俺は生まれて初めて岐阜にある母方の実家に遊びに来ていた。
俺の母さんと美乃梨のお母さんは、小中高と同じ学校の同じクラスで過ごした幼馴染でもある。
高校卒業後はそれぞれ別の進路に進んだそうだが、結婚して今の町に移り住んでから偶然再会したらしい。
だから当たり前と言えばそうなのだが、美乃梨のお母さんの実家も母さんの実家のすぐ近所にあり、そのため渚だけ美乃梨の両親に連れられて岐阜の田舎に遊びに行くのが去年までの恒例行事だった。
────それが小四の冬にあの事故が起こり、俺だけが渚の心臓で生き残ってしまった。
幸い、術後の経過は良好そのもので、あまりの回復の速さに医者の先生が驚いていたのをよく覚えている。
そうして学年が一つ上がった頃には──心だけを置き去りにして──身体の方はすっかり健康になっていた。
それでこの年の夏、気分転換と術後のリハビリも兼ねて岐阜へ遊びに行くことが決まったのだ。
と、そんな事情はさておき。
俺たちの向かっている神社は、本殿の裏手が山に面した雑木林になっている。
そのためコナラの木に蜜を塗っておけば、翌朝にはいろんな虫たちが集まってくるのだ。
前日の内に爺ちゃんにも手伝ってもらい仕込みは上々。
足取りが妙に軽いのは、もしかしたらカブトムシが取れるかもと期待してのことだ。
「はいヒロ君。お茶」
「ありがとう」
まるで影のように俺の後についてきた美乃梨が、麦茶の入った水筒を差し出す。
本当は一人で来るつもりだったのだけど、玄関先で美乃梨と偶然鉢合わせて「私も行く」と押し切られたんだっけ。
……ホントは俺が危険な目に遭わないか心配で見張ってた?
「キャン!」
そして幸か不幸か、そんな美乃梨の不安は的中することになる。
境内に響いた悲鳴を聞きつけ本殿の裏を覗いてみれば、そこにいたのは迷子のポメラニアン。
今まさに数羽のカラスたちにいじめられている真っ最中で、ふわふわの毛並みは無残に毟られ、あちこち血も出ていた。
「っ! やめろーっ!!!! あっちいけ!」
「あっ!? 待ってヒロ君! 危ないよ!」
美乃梨が止める間もなく、小五の俺が虫取り網を振り回して駆け出して行く。
見るに堪えないへなちょこチャンバラを何回か空振りすると、カラスたちは鬱陶しそうに俺を睨み「ガァ!」と一鳴きしてそのまま空へと逃げていった。
「大丈夫ヒロ君!? 怪我してない!?」
「いてて……。ちょっと引っかかれた。それよりこの子の方がもっと大変だよ! すぐ病院に行かないと!」
そのままポメちゃんを抱えて家に戻ると婆ちゃんが俺の傷を洗ってくれて、ポメちゃんはすぐに爺ちゃんの車で町の動物病院まで運ばれていった。
後になって飼い主さんからお礼の高級フルーツゼリーが沢山届いて美乃梨と二人で食べたっけ。
────と、それはもう少し先の話だったか。
ともあれ無事にポメちゃんを意地悪カラスから救ったはいいものの、婆ちゃんが不安がって、俺まで病院に連れて行かれる流れになった。
「大丈夫だよね……? ちゃんと帰ってくるよね?」
婆ちゃんの車に乗り込む直前、美乃梨が俺の服の裾を掴む。
この時の美乃梨の顔はよく覚えている。今にも泣きそうな顔をしてたっけ。
「平気だよ。ちょっと引っかかれただけだってば」
美乃梨の視点から見てみると、危機感がまるで感じられない。
このときの俺は知らなかったが、野生動物の爪や牙には危険な細菌が付着している。
だから小さな傷でも命取りになることがあるのだと病院の先生に教えられて、怖くて泣いてしまったっけ。
この後、念のためと痛い注射を打たれて二重の意味で泣いたのは言うまでもない。
自業自得だ。
「……っ! バカっ! もう知らない!」
あのときは美乃梨がどうして怒ったのか分からなかったけど、今なら分かる。
知らず内に俺は美乃梨のトラウマを刺激してしまっていたんだ。
────そうか。だから空手を。
俺が無茶ばっかりするから自分が強くなって守らなきゃと思わせてしまったのか。
本当に悪いことをした。
とはいえ、このときは俺も心の傷がまったく癒えてなかったし、生き残った自分が渚にならなきゃと必死だったわけで。
特に爺ちゃんと婆ちゃんは渚が遊びに来るのを毎年楽しみにしていたから、この夏は余計に肩に力が入っていた。
この一件の後も、低学年の男の子を庇って蜂に全身刺されてボコボコになったりしたし、本気でどうかしてたと思う。
そう思うならもっと自分を大事にしてって?
……はい。気をつけます。
▽
今度は昼下がりの公園だ。
この光景には俺も覚えがある。忘れもしない、父さんがいなくなってすぐの頃、小学六年生のことだ。
登校中に突然美乃梨が一緒に学校をサボろうと言い出して、俺をここに連れてきてくれた。
学校でいじめられるようになった俺に気を遣ってくれたのだろう。
昼下がりの公園に二人きり。
ブランコに腰かけ、ただブラブラと過ごしたあの日の記憶。
「なんだか私たち不良みたいだね」
美乃梨がそう言うと、小学生の俺が少し照れたように下を向く。
────ああ、思い出した。
このときはなんだか美乃梨がいつもより大人っぽく見えて、思わずドキッとしたんだ。
「……どうしてサボろうなんて」
「だってヒロ君、つらそうだったから」
俺が聞くと、美乃梨はなんてことないような口ぶりで苦笑して、ブランコをぐんぐん漕ぎ始める。
「別にいいじゃん。行きたくないところに無理して行かなくても」
「でも、先生怒るよ」
「あんなダメ大人の言うことなんて知らないもん」
「ダメ大人て」
「あんなひどい人、ダメ大人で十分だもん!」
美乃梨のあんまりな言い草に、隣のブランコに座っていた小六の俺が思わずといった様子で噴き出す。
美乃梨がこんなに人を悪く言うこと自体が初めてだったし、あんまり子どもっぽく言うものだからつい笑ってしまったのだ。
────そっか。俺の知らないところで先生に相談してくれていたんだな。
けど「だったら本人を連れてきて」とにべもなく断られてしまった。それで自分がなんとかしなきゃと思ってこんなことを。
ほんと、どれだけ感謝しても足りない。
つられて美乃梨も笑い出して、二人でひとしきり笑い合う。
父さんがいなくなって一ヵ月。俺はこの日、美乃梨のおかげでようやく笑うことができた。
△
夕暮れ時の商店街。
園児服姿の朱莉の手を引いて、俺が少し前を歩いている。
肩にかけたエコバッグから生えたネギが生活感を醸し出していた。
これっていつの記憶だ?
────ああ、中一の頃の。俺が家事をやり始めたばっかりの頃か。
「ハァ……ッ。ハァ……ッ! おお……神よ。今お迎えにあがります……!」
そんな俺たち兄妹の後ろを、人ごみに紛れて怪しい人物がフラフラとついてくる。
上下共に黒っぽい服装で、キャップを目深に被っている。
使い捨てのマスクを着けているため顔はよく見えないが、声の感じからして多分男の人だろう。
こんな人知り合いにいたかな。記憶を探ってみるが、やはり思い出せない。
……え? ストーカー!? 誰の……俺!? な、なんで!?
どうやら俺は自分でも気づかないうちにヤバい人に目をつけられていたらしい。
でも今まで生きてきて変な人に何かされた記憶なんて一度も……。
そんな俺の疑問はすぐさま解消された。
ストーカー男の背後を尾行していた美乃梨がおもむろにポケットからスマホを取り出すと、どこかに電話をかける。
電話の相手────辰巳さんはワンコールと待たず、すぐに出た。
辰巳さんは美乃梨が小学校から通っている空手道場の先生で、かつては陸自の特殊部隊にいたこともあるとかなんとか。つよそう。
「いました。上下黒っぽい服装でキャップを被ってます。先生、お願いします」
「了」
短いやり取りを交わして通話が切れると、建物の陰に潜んでいた辰巳さんが見事な体捌きで人波を避けつつ怪しい男に向かってゆき────。
「はいちょっと失礼」
「がっ!?」
すれ違いざまに不審者の顎へ素早く拳を叩き込んで意識を刈り取るや、さも仲のよさげな友人のふりをして気絶した男を人目のつかない路地裏へ担ぎ込んでいく。
背後でそんなアクション映画みたいなことが起きているとは露も知らず、俺と朱莉は手を繋いでのんきに夕焼け小焼けを歌っている。
────うん? さっきの男は新興宗教の教祖で、俺の写真を勝手にご神体扱いして夜な夜な脱法ハーブを焚いて集会してた?
……何それ怖い。
まだ小さな団体だったし、とっくに解体されたから安心してって?
そっか、それなら安心……とはならないよ!?
だいたいなんで美乃梨まで不審者確保に参加してるのさ!?
……え? 普段から辰巳さんが中心になって地域ぐるみで俺のこと危ない奴から守ってた?
い、いつの間に。ていうか俺ってそんなに狙われてたの?
ああ、そう……。不審者が春の季語でなくなるくらい定期的に。
ほっとくとヤバい奴の方から寄ってくるから公安の人が感謝してた?
で、ついたあだ名が不審者ホイホイ。
できれば一生知りたくなかったよこんなこと。
▽
今度は山の中だ。
中一のときの林間学校。レクリエーションの山林スタンプラリーで美乃梨が迷子になりかけたときの記憶だろう。
「あれぇ? みんなどこ行っちゃったんだろ……。おーい! みんなー!」
まったく。迷ったらその場から動くなって、さんざん林間学校のしおりにも書いてあったのに。
そうやって一人でどんどん進んでいっちゃうから戻れなくなるんだぞ。
……って、過去の記憶に説教しても意味ないか。
「どうしよう。もしかしてみんな迷子になっちゃったのかな」
迷子はそっちだよ!
なんて俺の心の叫びが届くはずもなく、美乃梨はあっちへうろうろ、こっちへちょろちょろ。
見ているこっちまで方向音痴になりそうな動きでどんどん山の奥へと入っていく。
どうして木の枝に止まってる鳥を目印にするかな。それじゃ迷うに決まってる。
しばらくして、ぐぅと誰かさんの腹の虫が鳴いた。
「うぅ……お腹空いたよぉ。カレー食べたい……」
のんきだなぁ……。
割とガチの命の危機なんだからもう少し緊張感を持ってほしい。
ともあれ空腹で歩き回る気力も失せたのか、美乃梨はようやく足を止めて木の根元に座り込んだ。
と、そんなときだった。
「あ、いた!」
「ヒロ君!」
木の裏からひょっこりと、かつての俺が姿を現す。
このとき美乃梨を見つけられたのは本当に偶然だった。
スタンプラリーのコースを外れて山の奥へ入って行く赤ジャージをたまたま見かけて、追いかけてみたら木の根元にうずくまっている美乃梨がいたのだ。
「こんなところで何してるのさ。コース、だいぶ外れてるよ?」
「あれ? こっちじゃないの?」
「ぜんぜん違うよ! ロープだって張られてないでしょ!? ……まったく」
ぐぅ。と、再び誰かさんのお腹の虫が鳴く。
このときの美乃梨の真っ赤な顔は今でも覚えている。
「ほら。おにぎりあるから食べな」
「あ、ありがと……」
俺が自分のおやつ用に取っておいた鮭おにぎりを渡すと、美乃梨は少し遠慮がちにチマチマと食べ始めた。
……このおにぎり、こんなに美味しかったっけ。
お腹が空いていた分、美味しく感じてくれたのかもしれない。
「ほら、食べたら行くよ。はぐれないようにね」
「あ、うん……」
そのまま手を繋いで、俺が先頭を歩いてコースに戻る。
久しぶりに繋いだ手は記憶にあるより随分と大きくて、見知った背中はいつもよりもずっと頼もしく見えた。
美乃梨のドキドキが俺にまで伝わってくる。
あっ待ってこれ思ったより恥ずかしい!
△
「藤谷さん! 好きです! つきあってくださいっ!」
ある日の放課後。
三階の空き教室で美乃梨は男子からの告白を受けていた。
相手は隣のクラスの……なんて名前だったか。
確かサッカー部のエースで、劔ほどではないが女子人気の高いモテ男だと風のうわさで聞いたような。
ていうか待って何これ俺知らないんだけどうわああああ!?
「ごめんなさい」
美乃梨が即答してくれたことにホッとしている俺がいる。
よ、よかった。危うく脳がこんがりローストされるところだった。
「……って、断っておいてアレだけど、私のどこを好きになってくれたの?」
頬を掻きつつ美乃梨が尋ねると、サッカー部の──ああ、そうそう月島くん。
月島くんは美乃梨を好きになったきっかけを語り出す。
いわく、練習中に目が合って、小さく手を振り返してくれたのが嬉しかったそうだ。
ダメでしょそんな思わせぶりなことしたら!
……なに? それくらいで好きになるわけないって?
なるよ!!!! なってるじゃん!
だいたい美乃梨は自分が可愛いって自覚が────え? ブーメラン?
「そこから藤谷さんのこと気になり始めて、気づけば見かけるたびに目で追ってた」
そうして日々を過ごす内に、美乃梨が園芸委員として毎朝早くに学校へ来て花壇の世話を欠かさないことや、よく笑うことに気づいたのだという。
よく見てるじゃないか。
「それにこの前、迷子の女の子を交番まで連れて行ってくれただろ? あれ、俺の妹だったんだ」
「え、そうだったの!?」
「警察の人に特徴聞いたらすぐに藤谷さんだって分かったよ。……あと、俺が本気で君のこと好きなんだってことも」
月島君が泣きそうな顔でこちらを見る。
そ、そんな顔するなよ。
「確かに今まで接点は殆ど無かったけど、本気なんだ! だから……!」
「……ごめんね」
美乃梨が首を横に振ると、月島君は俯きがちに奥歯を噛み締める。
「それは、誰かとつきあってるから?」
「そういう訳じゃ、ないけど……」
しどろもどろになりつつ思い出すのは一年生のときのこと。
空手部の夏合宿。
そこで美乃梨は真希ちゃん──クラス委員長の横山さんが月島君のことが好きなのだと打ち明けられていた。
横山さんと美乃梨はクラスも部活も一緒の親友である。
友達の好きな人から告白されるなんて、普通に友情崩壊案件だ。気まずいなんてもんじゃない。
「もしかして、好きな人がいる?」
美乃梨が小さく頷く。
なんでだろう。嬉しいはずなのに、この敗北感はなんだ。
俺なんかより月島君の方がよっぽど勇者じゃないか。くそっ。
「……でも、つきあってる訳じゃないんだよね?」
一歩、月島君が距離を詰めてくる。
顔が近い。あと一歩踏み込めば鼻先が触れてしまう距離だ。
ええい離れろ離れろ! 爽やかな吐息を美乃梨にかけるな! ぶっとばすぞ!
「俺、諦めな──」
月島君が言い終えるよりも前に。
突然美乃梨が窓に向かって走り出し、勢いよく窓を開け放って────飛んだ。
そのまま辰巳さん仕込みのお手本のような五点着地を決めた美乃梨は、スカートについた砂埃を払うと脱兎のごとく逃げ出した。
後日、妖怪五点着地の噂が学校中に広まったのは言うまでもない。
いわく、黄昏時の校舎から女子の制服を着た老婆が飛び降り、五点着地を決めて時速八〇㎞で走り去ったとかなんとか。
あれ美乃梨だったのか。
……高度に政治的な判断?
月島君と二人で密会してたなんて噂が立たないように、もっとインパクトのある噂で掻き消した?
やりすぎだよ!!!!




