愛想尽かしは止して
えー、しかしですね、お客様の中には「いやお前、それは違うだろう。お前の云うその…売春や窃盗が仮に事実だったとしたら、許すのは世間の方であって一葉じゃないだろう」と、そう思われる方もあるいは居られるやも知れません。えー、そうですねえ…そりゃまあそうです。その通りです。常識的に考えれば確かにそうなるかも知れません。事実他ならぬ一葉自身が未完に終わった最後の小説「わかれ道」の中で主人公のお京にこう云わせています。「あら吉っちゃん、私はお前のことを本当の弟のように思うているのだから、そんな愛想尽かしは止したがよかろう」と。そしてお京に傘屋の小僧・吉三を、うしろから抱きかかえさせているのです。因みにこの吉三はお京が金持ちの妾になるのを知ってこれを咎め、愛想尽かしに来ていたのでした。えー、ですから、これはつまりその…妾になるという悪行(?)を一葉は、お京をして世間に詫びている分けですね。お力が一葉の写し絵だったようにこのお京も一葉の最終的な写し絵でしょう。一葉はつまり「埋もれ木」のお蝶も「にごりゑ」のお力も、自分自身と、世の中のすべてをこの「別れ道」のお京の抱擁のうちに許し、これを魂の光へと昇華させているのです。であるならばいかがでしょうか?お客様。彼我の善悪を常に問い、これを責めたり許したりしている我々は、いかにも小児人なのではないでしょうか?人の、我々の心、なかんずく表面意識などいかにも浅薄なものです。その奥にはすべての世の中の規範を越えた潜在意識が、魂の領域がございます。この領域に達することは、これは常人では仲々叶いません。しかし数々の艱難辛苦と絶望の末に、奇しくもここに、魂の光の領域(許し、愛し、慈しむ世界)に達し得た一葉であるならば、我々はその抱擁の内に身を任せるべきではないでしょうか…。




