お力の人生の終末は…?
なぜと云うにさきほど朝之助から肩をポンと叩かれて覚醒した後の、お力に於ける本心と自我の葛藤の末を見れば明らかでしょう。お力は銘酒屋稼業を忌み嫌いながらも菊の井の華としての自分に自負心があり、上辺では嫌と云いながらも身も世もない呈で自分を求める源七に強く惹かれても居、何より、父・祖父からの因業に〝執着〟があるからです。恐らくその辺の有り様は…一葉が知事となった渋谷三郎からの求婚を断ったことに、あるいは似てはいますまいか…。
さて!(張り扇一擲!)この講釈の始まりの頃に…えー、具体的にはep30の下から3行目からep31の上から3行目辺りにおいて、わたくしは「一葉はお力の中に偽らざる自らを曝け出し、どうかするともう居直ってさえいるようです。自らの実存の様を読者にバーンとぶつけて、さあどうだ、笑うなら笑え、蔑むなら蔑め…とでも云っているかのようです。自らの苦しみを隠すことなく、また自分に誤魔化すことも最早せず、お力の人生を成り行きの彼方に昇華さえさせているように見えます」と講釈致しております。ではその成り行きの彼方に昇華させたお力の人生の終末は、最後は、果していかがなものだったのでしょうか?ここでまた一葉原作「にごりゑ」から原文を引きましょう。
「魂祭過ぎて幾日、まだ盆提燈のかげ薄淋しき頃、新開の町を出し棺二つあり、一つは駕にて一つはさし擔ぎにて、駕は菊の井の隱居處よりしのびやかに出ぬ、大路に見る人のひそめくを聞けば、彼の子もとんだ運の悪い詰らぬ奴に見込まれて可愛さうな事をしたと云へば、イヤあれは得心づくだと言ひまする、あの日の夕暮、お寺の山で二人立ち話をして居たと云ふ確かな證人もござります、女も逆上て居た男の事なれば義理にせまつて遣つたので御坐ろと云ふもあり…




