驚愕と戸惑い、そして……(後)
婆神官の後ろで待機していた、白衣姿の2人の女性が、ポカンとした顔になる。
ふくよかな若い女性の方が、信じられないと言う風に明るいオリーブ・グリーンの髪を振り乱して、素っ頓狂な声を上げた。
「ホント?」
「これが、かの話に聞く『記憶喪失』というものかしら……!?」
そう続いたのは、白髪の混ざった薄いオリーブ・グリーンの髪に淡い水色の目をした中年の女性だ。年相応に、落ち着いた顔立ちをしている。
世代の違う2人の女性は、口々に疑問の声を上げた。
――神殿隊士の白い武官服だったから、神殿隊士なんだろうとは思うけど。こんな辺境じゃ中央のニュースが来るのも遅くなるから、我らが竜王国の王都で大きな政変らしき物があったと言うような事くらいしか知らないけど、そんな不気味すぎる『ミイラゾンビお化け』になる程の、本格的な戦闘があったのか――
「辺境……?」
女は辺りを見回し、次いでベッドの右側にある窓に、目をやった。夕方の陽光が、そこで仄かに漂っているのだ。
武骨なまでに簡潔な、着雪と寒気を防ぐ事のみに特化した窓だ。中世風の両開き窓の周りに漂う陽光は、温かみのある金色とオレンジ色に満ちているが、見える限りの外枠には、積雪の名残が凍り付いているのが分かる。
夕方になって気温が急低下したのであろう。窓の外には、見かけを裏切るような、ブルッと震えが来るような冷気が漂っているに違いない。
窓の外の光景に気付くと――女は深く驚嘆する余り、何も言えぬまま、目を丸くした。
――深い雪に包まれた壮大な連嶺が、驚くほど近くに見える。
赤みを帯びた金色の光の中、いつまでも見ていたくなるような、息を呑む程に見事な夕映えの絶景が広がっているのだ。
「雪山……」
婆神官は、女の視線の先を見やった。
「あたしらは、アレを『雪白』って呼んでる。此処は、竜王国の最北部の飛び地だよ。今まさに雪解けが始まったとこさ」
「雪白の……『連嶺』……?」
「そんな大したもんでも無いけどね。あんたは名前を思い出せない訳だ。此処に来る前の事は、どうだい?」
「神殿隊士……を、やっていたのだろうとは思いますが……」
女は視線を彷徨わせながらも、必死に思案した。断片的な記憶しか掘り出せないのだ。
「夜間の戦闘……闇の中で戦闘をしていた。ずっと遠くの場所で。でも、自分の名前は思い出せない」
婆神官は、女を注意深く観察していた。アクアマリン色の目の表情は変わらなかったが、物理感覚も魔法感覚も使っているのは明らかだ。やがて婆神官はハッキリと診断を下したのか、一つうなづくと、更に別の質問を投げて来た。
「あんたの持ってた魔法の杖だけど。武官用のモンじゃ無いんだよね。そっちは?」
「知人から頂いた……そう、女友達……敬愛する先輩から譲ってもらったと言うような記憶があります。実際の戦闘で使った覚えは無いですが」
世代の違う若い白衣女と中年の白衣女は、興味津々で耳を傾け、相槌を打っていた。
後ほど、この建物《大砦》に居るであろう他の人々に、新情報の話として広めるであろう事は、女にも流石に、うっすらと予想できた。とは言え、ほぼ記憶喪失となった身には、機密どころか、話せる内容も大して無いのだが。
2人の白衣女は、顔を見合わせて早口で喋り合っている。
「王都で、偉い人たちが何か揃って荒れてて、幾つかの管区で紛糾があったって、前の夏に来た軍需物資の運搬業者が言ってたわ。麓の大きな管区では、本格的な戦闘も増えてるって」
「こんな田舎じゃ、情報が来るのも遅いからねぇ。新しい竜王が即位したと言うニュースが此処まで届いたのも、何と3年後のタイミングだったのよう。転移魔法陣が回ってる、この現代によ!」
名無しの女は、婆神官と2人の白衣女を、しげしげと眺めた。改めて眺めると、不思議な組み合わせだ。
「あの……お名前は……?」
「あたし、『火のパピ』よ。山一つ越えたとこの、村長の娘」
「私は『水のパメラ』。もうこんなオバサンだけど、宜しくね」
「あたしゃ、『水のエスメラルダ卿』じゃ。でも、こんな年になって『卿』も何も無いからね、婆で結構だよ」
――やはり大型竜体の竜人だった。エスメラルダ卿。つまり、エメラルド卿。
女は何故か、訳も無く急に笑いたくなり、喉の奥で笑い声を立てた。
「何じゃ、失礼な嬢ちゃんだね。これでも、あたしゃ若い頃は絶世の美女だったんだよ」
「済みません……若かりし頃の髪の色が、まさに……そんな色合いだったんですね」
婆神官――エスメラルダ卿はユーモアを込めて、アクアマリン色の片目をつぶって見せた。若かりし頃の髪の色を伝える一対のお下げが、まさに名前そのものの宝石のような緑色に輝き、揺れている。
「まあ良いさ。笑えるという事は、回復も早いという事だからね」
そして婆神官は少しばかり、困惑した表情になった。
「ついさっき、竜王都発信の緊急メッセージで、新しい行方不明者の《宿命図》の情報がドッと入って来たんだけど――それも、バーサーク体が大量発生したとかで、バーサーク化して錯乱して行方不明になったヤツのだけど。シルフィードの《宿命図》にはバーサーク化の痕跡は無い。それだけじゃ無い、過去の行方不明者の、どのデータとも一致しない」
名無しの女は、目を見開いた。
――それは、とんでもない事態では無いか。
肝心の《宿命図》そのものが、全ての行方不明者のデータと一致しない――
女の理解の表情を見て、婆神官は重々しくうなづいて見せた。婆神官の説明が続く。
「実は、シルフィードの《宿命図》には名前が無いんだよ。バーサーク化の痕跡が無いのは幸いだが、《宿命図》エーテル枯渇が深刻過ぎたんだね。表層レイヤーのエーテルが完全に枯渇していて変身状態がフリーズしたままだったし、見るところ、名前や記憶に関わる部分まで破綻するレベルだったんだろう」
婆神官は、ヤレヤレと言ったように首を振った。その眼差しには、まだ困惑の表情が浮かんでいる。婆神官の長年の経験の中でも、恐らくは初めての事態――普通は有り得ない事態なのだという事が窺える。
「身元証明も変身魔法も不可能な『名無し』ってとこだ。記憶の巣が残っていて、名前やら何やら思い出せれば、不完全な魔法署名であっても使えたんだよ。類縁なんかを通じて本来の国籍データを突き止める事は出来たし、その国籍データを取り寄せて来て、魔法署名の原状復帰のための治療も出来たんだがねぇ」
女は急に不安になって、眉根を寄せた。
自分は、一体、何処の誰なのか。徹底的な天涯孤独――『名無し』だ。《宿命図》そのものに名前が無いままでは、魔法署名も変身魔法も出来ない。困惑の余り、何をどうしたら良いのか――何を言えば良いのかも、思いつかない。
一方――婆神官は、魔法の杖の先端部にある青い水晶玉で額をコツコツとやって思案していたが、やがて結論が出たのか、サッパリした顔になった。
「正式にシルフィードの《宿命図》を記録して、竜王国の新しい国籍データを作成するよ。出生地『雪白』でね。普通は親の分からない卵から孵化したばかりの幼体に適用するんだが、『名無し』なら、成体も幼体も変わらんからね」
婆神官は、窓枠に置かれた小さな花瓶と、そこに挿してある花を眺めた。
「リリフィーヌって名前にしとこうかね。あの花の名前だよ」
「……?」
女は――やっとの事で窓枠の花に気付いた。
スミレ程度の大きさの、小さな白ユリのような花――植物図鑑で見たような記憶がある。雪解けの時期のみに花を咲かせる、スプリング・エフェメラルの一種だ。
――小さくて白い……何だか、自己像のイメージと違うような気もするけれど。
女は暫く考えているうちに、失神するように目を閉じ、再び寝入った。
「今日は此処までだね。次に起きた時は、もうちょっと話が出来ると思うよ。さて、ちょっと《大砦》の役人どもの尻尾を叩きに行くかい」
婆神官と2人の白衣女は、うなづきあった。




