驚愕と戸惑い、そして……(前)
――ボンヤリとした、柔らかな夕暮れのような明るさを感じる。
女は、ゆっくりと目を覚ました。女が最初に感じたのは、全身の疼くような痛みだ。
――そうだ。私は、大怪我をしていた。あの時は死に物狂いだったせいで、余り痛みを感じなかったけど。
慎重に視線を動かす。古色蒼然としているが、清潔感を感じる天井だ。部屋の中は、薬草の匂いで一杯だ――医療局とか、医療院と言った場所に違いない。窓があるのだろう、ベッドの右側に仄かな明るさが漂っている。オレンジ色に偏った色合いからすると、どうやら夕方らしい。
「おや、目が覚めたかい。あんた、3日間ずっと寝てたよ」
女は思わず、声のする方向に視線を動かした。
ベッドの左側に、婆神官が居た。女が目覚める頃合いを見計らって、傍に居たのだ。
婆神官は、時代錯誤なまでに古風な、たっぷりとした神官服をまとっている。装飾も今の物とは違って古典の鱗紋様となっているが、その青い色は、明らかに《水》の神官である事を示していた。
髪は当然ながら、ほぼ総白髪だ。若かりし頃の名残が残る側頭部の左右の一房が、それぞれリボンで結わえられ、お下げとして身体の前面に流れている。その左右の一房の髪は、宝石のような光沢を放つ濃い緑色である。
アクアマリン色の目を愉快そうにきらめかせ、これまた古風なデザインの大振りな椅子に、100歳を超えた魔女さながらに鎮座している。そして、これまた古代様式の、種々の宝石細工のある魔法の杖を携えていた。杖の先端部にある円形枠に嵌め込まれた水晶玉は、手の平より一回り大きいサイズの見事な品で、透明な青に染まっている。
――この婆神官は、《水霊相》の生まれなのだ。ジワジワと感じられる、ただ者ならぬ風格と、威厳。うっすらとした確信しか無いが、大型竜体の竜人に違いない。
婆神官に攻撃の意思が無い事を見て取った女は、それでも用心深く、目の届く限り、見知らぬ場所をザッと観察した。
天井は、木製の剥き出しになった梁と、頑丈な漆喰がほとんどだ。部屋の設備は、どれもこれも旧式の物で、ベッドでさえ、切り出したままの魔法加工の無い、古代さながらの天然木材である。いずれも、退魔樹林から取れた木材と知れる、青竹色や老竹色だ。特徴的な節目も、しっかり見て取れる。
昔ながらの職人が居るのであろう、古典的な定番の彫刻を施し、ニスを丁寧に塗って仕上げた、素朴な伝統工芸品だ。
部屋の仕切りも、歴史教科書に出て来るような古典的な織や模様の薄布を、透かし彫り細工を施した木枠に張った代物だ。透かし彫りや薄い布地を透かして、向こう側にあるドアの位置がうっすらと窺える。現代社会に必須の、機密保護も何もあった物では無い。
――当時の言葉では、『御簾』とか『簾屏風』とか言ったか。
古代・中世の時代に迷い込んだような気すらして来る。そうで無ければ、古代&中世ワールドを本格的に再現した人形劇の、歴史考証もバッチリの実物大の舞台セットか。
婆神官の背後では、治療師と思しき白衣の女性が2人、キビキビと動き回っていた。
1人は若い女で、1人は中年女だ。その白衣のデザインも旧式だが、もっと馴染みのある近代の頃の物だ。当時、爆発的に流行したと言われているレース細工の幅広のフリルが二段も付いていて、現代が求める機能性には少し欠けるが、エレガンスな感じだ。
2人の女性は、婆神官の助手に違いない。部屋の仕切りの間を行き来しながら、小声でささやきかわし、あれこれと整理作業をやっている。薄布の仕切りを透かして女の状態に気付いたのであろう、2人は仕切りの後ろから顔を出して、様子を窺って来た。
2人とも、白衣に合わせて、伝統紋様を織り込んだ白いヘアバンドで各々の髪を留めている。若い方は残りの髪を後ろにフワフワと流しており、中年の方は古風なシニヨンの髪型にしている。古代・中世の頃の治療師さながらの格好だ。
――私、包帯しか身に着けてない状態なの?
女は、不意に、自分が包帯グルグル巻きの状態だという事に気付き、目をパチクリさせた。
包帯が寝巻代わりなのか、包帯以外の布地を、全く身に着けていない。掛け布団さえも回復の邪魔になると判断されたのか、掛け布団すら掛かっていないのだ。その代わり、暖房のための《火魔法》が適切に稼働しており、空調は完璧だ。
「まさにココはドコ? ワタシはダレ? って顔してるわねぇ」
ややふくよかな体格をした若い白衣女が先に仕切りから出て来て、婆神官の背中から、丸い顔をヒョコッと出した。次いで、婆神官の横を回り込み、ベッド脇にしゃがみ込んで、愛嬌のある可愛らしい笑みを浮かべた。
――若い。私と同じ年ごろみたい。
全身を包帯でグルグル巻きにされた女は仄かな親近感を感じ、やっとの事で口元に薄い笑みを浮かべた。
若い白衣女は、明るいオリーブ・グリーンの髪と明るい赤銅色の目をしていて、見るからに陽気そうな性格だ。若い白衣女は、部屋の仕切りの向こう側で既に準備していたのであろう、ストローの付いた水差しを持っていて、顔の近くに寄せて来たのであった。
女は全身の痛みをこらえつつ、ストローを通じて、水分を少しずつ補給した。
――美味しい。これは、天然の湧き水だろうか?
大出血の影響なのか、自分でもビックリするレベルの水分欠乏状態だったらしい。驚く程の水量が入った。やがて、喉の状態が、次第にマシになって来た――少しなら、喋れるかも知れない。
婆神官は、女の状態を注意深く観察していた。女がホッと息をついて落ち着くと、婆神官はテキパキと説明を始めた。
「さて、あんたの状況を説明するよ。あんたは3日前、雪が降る朝、この《大砦》の転移基地に現れた。全身ズダボロでね。治療魔法を全身に施したけど、傷はまだ完全には塞がってない。こんな田舎じゃ、高度治療やら上級占術やら使える魔法使いが皆無でね、竜王都と比べりゃ、野蛮で乱暴で原始的な治療法しか無いんだよ」
女が1回うなづいたのを確認し、婆神官は更に説明を続けた。
「今は、あんたが来てから3日目の夕方だ。ほとんどの鱗を引っこ抜いてあるから、替えの鱗が生え揃うまで、数ヶ月――そうだね、安全を見て1年ほどは、竜体への変身は厳禁だよ。体内エーテル欠乏が深刻だから、変身どころじゃ無いだろうがね。安静にしてな。寝床と食事の心配は無いよ、今のとこはね」
女は改めて、うなづいた。全身ズダボロだったと言う自覚はあるのだ。
《大砦》――随分と古風な名前だ。余程の田舎に転移して来たらしい。しかも、雪がまだ降っていると言う。相当に北方の田舎のようだ。数ヶ月から1年とは随分と長い療養期間だが、医療技術も設備も不充分な田舎とあっては、致し方ない。
魔法感覚を使わなくても、耳を澄ませてみると、この部屋の出入口と思しき古風な木製のドアの外から、相当数の野次馬らしき人々の話し声や足音が感じ取れる。一番手前の人々が、ドアの隙間にピッタリと聞き耳を張り付けているらしいという気配も。
どうして、どうやって転移して来たのかは自分でも分からないが――此処の人々をビックリさせてしまったのだという事は、容易に理解できた。
次に婆神官は、ベッドの傍のテーブルに備え付けられた、細い魔法の杖を示した。ちょっと首を回すと視界に入って来る。テーブルには台座代わりの細い首の花瓶があり、魔法の杖が切り花よろしく、セットされているのだ。
魔法の杖の先端部で、まさに幾何学的な形をした白い花さながらの可愛らしい白い風車が、軽快に回転していた。魔法の風車の中心からは淡いペリドット色にきらめくエーテル流束が伸びていて、女の片腕に、栄養補給のための点滴さながらに連結されている。
「あんたの魔法の杖だろうけど、当分、基幹エーテル補給に使わせてもらうよ。今は、これと治療魔法とで、骨格を優先的に修復してるところだ。あたしゃ上級占術やら高度治療やらは使えないから、健康運の強化というレベルで回復を早める事は出来ないけど、骨格の修復だけは得意中の得意でね。次に目が覚めた時には、日常動作レベルは問題ない筈だ。変身魔法にも対応できる。ただ、武官としての強度は戻らないから、そこは覚悟おしよ」
もう、武官に復帰する事は出来ないのだ――全身の疼くような痛みを考えると、日常動作や変身魔法が出来るだけでも、幸運だと思える。女は、理解したと言う印に、再びうなづいた。
婆神官は、すこぶる感じ入ったと言った風の笑みを浮かべると、すぐにテキパキと確認の質問を投げて来た。
「あんた、《風霊相》の生まれだね。名前は何だい、シルフィード?」
女は口を開いたが、すぐに名前が出て来ない。思い出そうとして――やがて、とんでもない事実に気付き、絶句した。
「思い出せない……」




