凶星の夜と暁星の朝(前)
――異変は、突然だった。
それまでザワザワとした背後の耳障りな騒音に留まるレベルの物だった、不気味なざわめきが、いきなりハッキリとした轟音となって響き始めたのである。
「何だ、これは?」
エメラルドだけでは無く、その場に居た誰もがギョッとして、訳の分からぬ現象に――ゴウゴウとうなるような、嵐のような不気味な音に――感覚を尖らせた。すぐに轟音は、実体を伴った風となって吹き荒れ始めた。
吹きすさぶ風は瞬く間に速度を上げ、隊士たちの体勢をぐらつかせる程の豪風となって行く。密封された空間の中で、風は乱流も同然にメチャクチャに方向を変えた。
「《争乱星》だ! 《争乱星》が、エーテルを呼び集めている!」
「今日の――『バーサーク危険日』の、《争乱星》だ……!」
異様にエーテル成分の多い風なのだ。流石に、その手の知識に詳しい下級魔法神官たちが、風圧によろめきながらも、素早くその正体に気付いた。
エメラルドは、下級魔法神官たちが口にした内容に息を呑み、不吉な予感と共に頭上を振り仰いだ。
透明な魔法の障壁に塞がれたドーム型の開口部を通して――夜空に見えるのは、夢のようなラベンダー色をした一つ星。
――暁星!
(タイムリミットだ!)
エメラルドは大きく喘いだ。
身体中の鱗の違和感がひどく、今やギシギシと言う不吉なこすれ合いを伴っている。負傷による痛みはさほど無いが、身体が膨れ上がるような、狂乱的な熱量と内圧を感じる。
今まで戦闘に集中していたから気付かなかったのだが、これ程の深手を受けて、なお感覚が鈍いのは、バーサーク化の途中にあるからだ!
「――いかん!」
そう叫びながらも、副隊長もまた、次の行動が決められず呆然としていた。
暁星の輝きは強まり、辺りは薄紫色の光に染まり――揺らめき始めた。
異様な轟音を立てて吹きすさぶエーテルの風の中。
全員が腰を低く落として足を踏ん張り、姿勢を安定させながらも……『次に何が起こるのか』と、魅せられたかのように、薄紫色の光に見入るのみだ。
床一面に描かれた幾つもの転移魔法陣が、まるで命ある物であるかのように震え、轟音と共に、前日の残余分の白いエーテル流束を噴出している。その噴出量は、指数関数的に増大して行った。
《争乱星》が巻き上げるエーテルの風の風圧と轟音は、雷電シーズンの時の荒天を思わせる激しさで、建物全体を軋ませた。
急速に高密度になったエーテルは、透かし天井から差し込んでくる暁星の微光を、気ままに屈折させている。
まさに薄紫色の陽炎だ――今や、オーロラのように舞い狂っているようにも見える。辺りの光景が幻想的に揺らめいて合成像を結び、蜃気楼魔法さながらの、存在しない筈の幻影を繰り出し始めた。
隊長は、その有り得ない程の幾何学的な幻影に、思わず目を凝らした。ちょうど、エメラルドの背後に合成されているのだ。像のブレが大きく、多重像そのものなのだが――
――天秤?
最大サイズの転移魔法陣の中央部に立ち尽くす格好になったエメラルド自身も、また、変化していた。心理的抵抗があって、変化は異様にゆっくりだが、確かに竜体への変身が始まっている。
まず、バーサーク竜ならではの、有棘性の鱗の生えた尻尾が現れた。次に足先に、異様に長く鋭い爪が生えた。不気味な異形の鱗は、足全体を覆い、足首を覆い、次第に下半身を上昇しつつ広がって行く。血にまみれ、破損し尽くした武官服は、竜体変身の進行と共に、次第に濃いエーテルのモヤの中に消えて行った。
さながら、神話に出て来る人頭蛇身のような姿だ。エメラルドは立ちくらみを起こしたかのようにグラリと傾ぎ、基底床に両膝を突いた。エーテル風の轟音の隙間の中で、ガシャ、という異形の鱗の音がした。
「バカ野郎! 誰か、拘束具を付けろ!」
隊長が叫んだが、副隊長の動きも隊士の動きも、鈍かった。エーテルの暴風は、それ程の風速に達していたのだ。ガランとした空間で無ければ、竜巻に巻き込まれた状態さながらに、ありとあらゆる置物が飛び交っていただろう。
クラウン・トカゲでさえ、風圧に翻弄されて滑らかな基底床の上を滑り出す有り様だ。しゃがみ込んで重心を低くし、四つん這いになって丸くなった格好のまま、ズリズリと押され、或いは転がされて行く。基底床が余りにも硬く滑らかなため、自慢の脚力が役立たないのだ。大広間中に、クラウン・トカゲのパニック状態の鳴き声が響いた。
薄紫色のオーロラが揺らめく中、濃厚なエーテル流束が、荒れ狂う渦巻きを形作っている。エメラルドの背後では、人体より一回り大きいサイズの不思議な天秤の幻影が、崩壊と再構成を繰り返し、白い炎のように激しく揺らめいていた。この世の物ならぬ光景だ。
大容量のエーテルを呼び集め続ける《争乱星》。まるで、全ての物を呑み尽くすブラックホールだ。大広間を満たしていたエーテルが渦を巻き、エメラルドの身に吸い込まれて行く。
大広間の空気を満たしていたエーテルが尽き、転移魔法陣のエーテル残量もが尽きると、エメラルドの中で活性化し続けている《争乱星》は、頭上に狙いを付けたようだ――ドーム型の開口部を覆っていた魔法の障壁が、バリバリと音を立てて剥がれ落ちた。みるみるうちに粉みじんになり、元のエーテルと化し、エメラルドの身の周りで渦を巻く。
「嘘だろう」
下級魔法神官たちは、もはや魔法発動して阻止できる段階では無い事を理解し、青ざめた。
魔法を発動すればするほど、《争乱星》が喜々として、魔法を構成しているエーテルをバーサーク化のエネルギーとするべく、粉々にして吸い込んでしまう。
恐るべき大凶星――《争乱星》の覚醒。
エメラルドは、激情と絶望が相半ばする中、必死で我が身をまさぐった。死に物狂いで、此処まで到達した物を――何か、手段は無いのか。無かったのか。
手にも違和感を感じる。見れば、大きさはともかく、もはや人の手では無い。鋭く長い竜の爪と――異形の、棘の生えた鱗。
(――!?)
存在感も曖昧になりつつあるベルトに手をやった瞬間、ペンのような大きさの、棒状の物に手が触れた。
人の手と同じようには指先が扱えず、爪の先で挟んで、それを引っ張り出す。あと一瞬タイミングが遅ければ、武官服と共にエーテルのモヤに溶けていただろう。
(――セレンディの魔法の杖だ!)
戦闘の際に邪魔にならないように、ペン程の大きさに縮小して、ベルトの間に挟んでいたのだ。
とは言え――
――もうほとんど竜体と化した身で、どうやって魔法の杖を振るえば良いのかも、見当がつかない。
そういえば、私は、どうして此処に来ていたのだろうか――どのような魔法を発動する事に、なっていたのだろうか? 焦りの余りなのか――意識までバーサーク竜の物となりつつあるのか、もはや思い出せない。
エメラルドは両膝を突いた姿勢のまま、祈るような気持ちで再び空を仰いだ。異形の鱗に包まれた両腕が、だらりと垂れた。魔法の杖の先端部は、基底床の上に描かれた転移魔法陣を指している。
透かし天井の間に見える一つ星は、今まさに始まった払暁のまばゆい陽光の中で、ラベンダー色の仄かな輝きを失おうとしている――
――暁星……!
エメラルドは、両手でシッカリと挟み込んだ、その小さく頼りない物に、我が身の中で荒れ狂うエーテル量のすべてを叩き込んだ。
*****
大広間を満たしていた薄紫色の微光が、暴風の轟音が、不意に消えた。
一面の闇――無風と静寂。
反射的に、下級魔法神官や隊士たちの魔法の杖が夜間照明さながらに光源となり、周囲の様子を照らし出した。
静寂は、一瞬だった。
これまでとは違う圧倒的な地響きが、建物全体を揺らした。
次いで、再びのエーテルの閃光と爆音が、瞬間的に大広間に満ちた。大広間は、白昼のような明るさになった。
限界濃度に達した大容量エーテル流束が衝突し、揉み合い、爆発的な連鎖反応を起こして行く。その様は、まるで大広間に樹状放電が満ちたかのようだ。空気を切り裂き続ける止め処も無い轟音は、竜人の生物学的な可聴域の範囲を超え、腹の底に染みるような重低音となって鳴り渡った。
「隊長! 建物の封印が破れた!」
下級魔法神官たちが上官の次の指示を待たず、我先にと、大広間の周縁部を取り巻くアーケード回廊へ――半地下の溝の中と飛び込んだ。隊士たちも、クラウン・トカゲたちも、パニックだ。
――多数の大きな雷撃が一閃したかのような、言いようの無い、重い衝撃音が轟く。
内壁に、地上から屋上まで裂ける如き、幾条もの巨大なヒビが入った!
隊長と副隊長も、建物の崩壊を直感的に察知し、下級魔法神官たちの逃走先を――アーケード回廊の下の半地下の空間を目指して、回れ右した。残っていた隊士たちも、無風状態を幸い、後に続く。
エメラルドが、何かしたとしか思えない。
バーサーク捕獲部隊の面々の全員が、そう確信していた。
ドーム型構造の吹き抜けを通して見える夜空は、もはや夜空では無かった。払暁の空でも無い。
《争乱星》による予期せぬ現象か、それともエメラルドが、魔法を使って天候を変えたのか――雷電シーズンを思わせる不気味な黒雲が、雷光と激しく揉み合いつつ、どよめいている。
一瞬の静寂の後、唖然となる程の雷光をまとったダウンバーストが、ドーム型屋根を目指して襲い掛かって来た。
「まさか、《雷攻撃》魔法か!」
「爆風が来る!」




