逃げよう
クレイたちはそのまま応急処置された土塀を切り崩し、明霞へ入り込んだ。 出た先は、どうやら住宅街の裏手らしい。土塀に沿って家々の背が並び、その間を細い路地が縫うように走っている。
クレイは一度、崩した箇所を直そうとした。だが、どうせ町を出る時にも同じ場所を使うのだからとドミニクに説得され、結局、亀裂はそのまま残してきている。
誰かに見つかれば、それまでだ。その前に魔法使いを見つけ、接触する。そういうことらしい。
もっとも、今のクレイには、侵入の痕跡よりも気になることがあった。
――鬼火だ。
町へ入る直前、屋根の上にいた少女。あれは間違いなく鬼火だった。しかも、人の姿をしていた。そんな鬼火を、クレイは見たことも、聞いたこともない。
最初は、自分と同じようなものなのかとも考えた。だが、違う。
クレイは半分が人間だ。だから人の姿をしている。人として生まれ、人として育ってきた。けれど、あの少女からは、人の気配をまるで感じなかった。姿こそ人そのものだったが、それだけだ。あれは純粋な鬼火だった。
クレイは歩きながら、明霞の町並みを見渡した。
通りには店が軒を連ね、店先では客と主人が何やら言葉を交わしている。荷を背負った男がすぐ横を通り過ぎ、その向こうでは二人の子供が笑い声を上げながら駆けていった。
どこにでもありそうな町の光景だった。だからこそ、おかしい。
――どうして、この町は無事なんだ?
人の姿を取るほどの鬼火が、この町にいる。それなのに、人々は何事もないように暮らしている。あの少女は、いったい何者なのか。
そして――。
クレイは、人の行き交う通りの先へ目を向けた。
自分たちが探しに来た魔法使いと、何か関係があるのだろうか。
「クレイ、ここは二手に分かれましょう」
ドミニクの声に、クレイの意識が強制的に引き上げられた。
「二人で別々に魔法使いを探す、その方が早いし、守衛に捕まるリスクを下げられるはず」
クレイは言葉に詰まった。
確かに、魔法使いを探すならそれが最善手だろう。しかし、あの鬼火がドミニクの言う魔法使いである可能性が高い以上、仲間に誘うのに抵抗が芽生えた。たとえ今までその鬼火が人に害をなすことは何もしていないにせよ、安易な決断を下すべきではないと、彼の鬼火としての経験が告げるからだ。
しかし、クレイはそれを飲み込んだ。今のクレイに、ドミニクのその提案を却下するのに十分な反証がないと彼自身が思ったためだ。
「......そうだな。ドミニクは正門付近を頼む。近くに役所や衛士詰所があるはずだ。そこにいる可能性が高い」
「りょーかい。ってあれ? そしたらクレイはどこを回るんすか?」
『魔法使い』なら対鬼火の戦力として衛士、あるいは守衛とともに行動しているか、保護されているはず。であれば、衛士詰所や櫓を片っ端から探せば、いる可能性は高い。であれば、顔だけでバレる指名手配されたクレイがここにいる意味がないように思えた。
「おれはここと南東あたり……主に住宅街と小商店を回る。少し調べたいことがある」
その言葉にドミニクは怪訝そうに眉を寄せる。
クレイとは、クレイが特別牢から脱獄してからずっと一緒に逃亡してきた。その間、クレイが特に何かを気にするそぶりは見せなかった。なので、クレイが急に何かを調べたいと言い出したことが謎に思えた。
「......調べたいことって?」
「今はまだ仮説の段階だ。ある程度確信がついたら話す」
「..........」
クレイのその決意が固まった様子を見て、ドミニクはこれ以上は聞かないことにした。するとクレイが再び口を開く。
「それから魔法使いについてだが、見つけたら仲間に誘うよりも前におれのところに連れてきてくれないか」
クレイとしては、例の魔法使いがあの鬼火の少女である場合について、判断する時間が欲しかっただけだった。しかし、ドミニクは違う意味で受け取ったようだった。
「……ほんっと、心配性っすね。わかりましたよ」
違うのだが、と言おうとして、クレイは口を閉ざした。どうせ今の自分には十分な説明ができないのだ、であれば勘違いしてもらう方が都合が良かった。
*****
少女は息を吐いた。
まさか、勇者がこんな辺境にまでやってくるとは思わなかったのだ。
彼が勇者であることはすぐにわかった。
鬼火には眩しすぎる聖剣の気配が、半身に炎を宿した彼から発するのを感じたからだ。
少女は逃げた。
あの光に焼き殺されることを直感したからだ。
少女は、気付けば北西の櫓まで逃げていた。風が吹き、少女の髪を靡かせる。
少女は自分の手を見つめて握った。一昨日、土塀を破壊する威力の炎を出したあの手だ。
少女は自身の力がすでに彼女の手に負えないものになりかけているのを理解していた。もう、この町に長く留まることはできないだろう。あの勇者に捕まるわけにもいかない。
逃げよう。
しかし、逃げる先はなかった。
自身の力を抑えることができない限り、どこにも属することはできない。......否。そもそも鬼火であるのに人の中に居場所を求める時点で滑稽である。
そもそも大半の鬼火は感情を理解しない。
寂しさも、孤独も、喜びも、暖かさも。
だのに、自分はあの事故のせいでそれらを理解できてしまっている。
一瞬恨みたくなった。あの事故を。しかし、その思考は一瞬で打ち消された。
感情を理解しなければ、自分は無だった。無に殺戮し、無に飲み込み、無に喰われる。
そうであれば、もう感情を恨む気さえも起きなかった。
残ったものはただ一つ。
自身が感情を理解できる鬼火であることへの諦念だった。




