伝説の幕開け
魔法使いがいると言われる辺境の町、明霞へクレイたちが向かうには、国境の街から東へ延びる街道をしばらく進み、途中で脇道へ逸れる必要があった。
王都へ続く大街道を外れてしまえば、行き交う荷馬車の数も目に見えて減っていく。やがて道は山あいへ入り、いくつかの小さな集落を抜けた先で、明霞のある盆地へと続いていた。
徒歩なら、およそ三日の道のりである。
明霞は辺境にあるとはいえ、その往来は決して少なくない。
周囲に点在する村々にとって、ここは作物を売り、生活に必要な品を買い求める、この一帯の中心となる町だからだ。
日が昇れば、農作物を積んだ荷車や買い出しに訪れた村人が門を行き交い、時には行商人や旅人の姿も混じる。それゆえに、クレイらが町に紛れるのは容易いはずだった。
「ドミニク。あれは町の衛士じゃない。領主の守衛だ」
先に気づいたのは、燈国出身のクレイだった。
門前には、荷車の列を挟むようにして数人の男たちが立っている。身につけているのは明霞の衛士が着る簡素な羽織ではない。揃いの装束、その襟元には、この一帯を治める領主家の紋が入っていた。
「……分かるんすか?」
ドミニクの目が一気に警戒の色を帯びる。
「燈国じゃ、領主の兵は家の紋をつける。町の衛士とは装いも違う」
「なるほど」
ドミニクは舌打ちをしたい気分だった。
燈国では地方領主の権限が強い。ましてやセントナリアは他国である。こちらの情報が燈国へ伝わったところで、中央を通して辺境の領主まで話が届き、実際に人が動くまでには時間がかかる――はずだった。
だからこそ、その隙に魔法使いと接触し、そのまま行方をくらますつもりでいたのだ。
だというのに、すでに領主直属の守衛が動いている。
クレイは人波からわずかに距離を取った。
守衛たちは、町へ入ろうとする者を一人ずつ呼び止めていた。荷を改めているわけではない。身分証を念入りに確認しているわけでもない。
見ているのは、顔だった。
「……まずいな」
クレイは反射的に目元へ手をやった。
左右で色の異なる瞳。
半妖であることが露見する以前から持っていた特徴であり、一度知られてしまえば、これほど見つけやすい目印もない。
「俺たちを探してるみたいっすね」
「多分な」
「どうします? 勇者様」
「少なくとも、正面から入るのは無理だ」
門を通る荷車の列は長い。人に紛れることはできる。 だが、瞳の色までは紛れさせられなかった。
クレイはローブを深く被り直す。そしてドミニクと共に列から外れて、街への他の入り口を探すこととなった。
正門の他には脇門が二つ、農夫が朝に畑へ出たり、収穫物を運び込んだりする生活用のもので、やはりそこにも守衛が見張りをしていた。
「水門もダメっすね。人が入れる大きさになっていない」
土塀の下を抜けて町へ続く水路を覗き込み、ドミニクが息を吐いた。人ひとり通すにはあまりに狭く、そのうえ奥には鉄格子まで嵌められている。
「もう、クレイには縮んでもらうしか……」
クレイは答えなかった。その視線は、少し離れた土塀の一角へ向けられていた。
「なあ、そこのあれはなんだ」
ドミニクは一瞬だけクレイを見たが、何も言わず、その視線の先を追った。
そこだけ、土塀の様子が違っていた。大きく崩れた跡を、木材や石、それに新しい土で無理やり塞いでいる。ところどころには黒く焼けた跡まで残っていた。
「鬼火の襲撃でもあったんすかね、こんな場所で。珍しい」
向こう側に見えるのは、家か倉庫らしき建物の裏手だった。土塀との間にはいくらか空間があるものの、人影はない。
ドミニクは今度は周囲を見回した。
正門からは遠い。物見櫓との間にも建物があり、土塀際まで寄ってしまえば向こうからは見えそうになかった。
「崩したら入れそうっすね。ちょうど二人」
ドミニクのその発言にクレイは信じられないものを見るような目でドミニクを見た。
「......不法侵入じゃないか? 気が進まないんだが」
「はははっ、勇者様の肩書きがまた一つ増えるっすね」
「不名誉だ」
『脱獄犯』、『王国の敵』、『聖剣を奪った半妖』。すでにこれ以上ないくらいに不名誉な名を重ねているクレイには、頭痛がする話だった。
「いいじゃないっすか。ただ魔法使いを探して話し合いに行くだけでしょう? それに検閲しているのだって町の衛士じゃないんすよ。治安のためじゃなくてあなたを捕まえるためっす。だったら別にいい気がしません?」
「.........今回だけだ」
長い沈黙の末、クレイは折れた。それを聞くなり、ドミニクはにかっと笑った。
「そうこなくっちゃ」
懐からナイフを取り出し、応急処置された土塀の前にしゃがみ込む。刃先を土と石の隙間へ差し込み、固められた土を少しずつ削り始めた。
ざり、ざり、と乾いた音がする。やがて石の一つがぐらりと動いた。
「これ、持っててください」
「……壊すのはお前なんだな」
「勇者様にやらせたら、本当に罪状が増えるじゃないっすか」
「もう遅い気もするが」
ドミニクは聞かなかったことにしたらしい。石を抜き取り、クレイへ渡す。クレイは受け取った石を、音を立てないよう草の上へ置いた。
また一つ。
その次も。
手際がいい。
土を削り、石を緩め、周囲を崩さないよう必要なところだけを抜き取っていく。何度か繰り返すうち、応急処置されていた一角には、人ひとりが身を屈めれば通れそうな隙間ができ始めていた。
「……お前、こういうことに慣れてないか?」
「気のせいっすよ」
「そうか」
「そうっす」
怪しい。
そう思いながら、次の石を受け取ろうと手を伸ばした時、手が止まった。
「……?」
何か。
視線を感じた。
クレイはゆっくりと顔を上げた。
土塀の向こう。少し離れたところに建つ家屋の屋根。
そこに、誰かがいた。
少女だった。
肩口まで伸びた漆黒の髪。風に揺れる黒い羽織。屋根の上に立ち、じっとこちらを見下ろしている。
見つかったか? と考えるより先に体がこわばった。
目が合い、クレイは息を呑んだ。
少女の目は驚愕に見開かれた。
「ーーレイ、クレイっ」
肩が跳ねた。ほんの一瞬、ドミニクの方へ顔を向ける。
「何してるんすか。石」
「あ……」
クレイは差し出された石を受け取り、すぐに屋根へ視線を戻した。
「…………!」
いない。
先ほどまで少女が立っていた屋根には、風に吹かれた木の葉が一枚転がっているだけだった。
「どうしたんすか?」
「いや、今……」
言いかけて、口を閉じる。ドミニクも屋根を見た。
「誰かいました?」
「…………」
「見つかったとか?」
「いや……何でもない」
「何でもない顔じゃないっすけど」
答えられなかった。何かを見たわけではなかった。
それでも、分かってしまった。
知識ではない。推測でもない。もっと深いところ。
クレイ自身にも触れることのできない何かが、あの少女を見た瞬間、確かに反応した。
人として生きてきた十数年ではなく。
その下に眠る、もう半分があれを知っている。
クレイは少女の消えた屋根を見つめたまま、無意識にローブの胸元を握りしめた。
そしてようやく、その感覚に言葉を与えた。
――あれは、鬼火だ。




