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鬼火の術を操る人間

 気持ちの良い昼下がりのことであった。町の衛士はあくびを噛み殺していた。

 燈国西部に位置する辺境の盆地に位置する小さな町、明霞(めいか)では、昨日から、この一帯を治める地方領主直属の守衛が出入りしていること以外、特に変わりはなかった。


 何が起こっているのは間違いない。一部では衛士長が何かしでかしたのではないかという説まで出た。


 皆に背中を押される形で衛士長となり、今なお大事が起こるたび胃を痛めている男である。そんな彼が領主配下の守衛を呼び寄せるほどの問題を起こしたとなれば、衛士長として随分たくましくなったものだ。とうとうあの男も、領主に睨まれるような真似ができるほど肝が据わったかと、古くから彼を知る者などは、少し嬉しそうですらあった。


 だが、その衛士長は今日も普通に町を歩いている。彼を知る者ーー特に彼の友人たちは肩透かしを食らった気分であった。


 衛士長が何もしていないのなら、と今度は魔法使いに疑いが向けられた。ここ何年もずっとおとなしかった彼女が、久しぶりに何かをやらかしたので、今度こそ領主の元へ連れて行かれるのではないかと。

 しかし、衛士たちの話を聞くに、彼女も何もしていないとのことであったので、住民はますます首を傾げた。


 彼らはまだ知らなかったのだ。

 半妖の勇者が、セントナリアの牢を脱獄して、この町を目指してやってきていることを。


 当然、物見櫓であくびを噛み殺していた衛士も知らない。

 彼の目下の悩みといえば、昼食を食べすぎたせいで、どうにも瞼が重いことくらいだった。


 もう一度こみ上げてきたあくびを噛み殺しながら、何とはなしに南東へ目をやる。

 町を囲う土塀の向こうには、いつもと変わらぬ農地が広がっていた。


 その真ん中で、突如として納屋が燃え上がるまでは。


「……は?」


 衛士の眠気が吹き飛んだ。火の気など、どこにもなかった。それにもかかわらず、噴き上がった炎は瞬く間に屋根を呑み込み、黒煙が空へ立ち昇る。

 物見櫓の衛士が立ち上がった。直後、銅鑼が三度鳴り響いた。


 ジャァン――。


 ジャァン――。


 ジャァン――。


 それだけで十分だった。


 畑にいた者が顔を上げる。通りを歩いていた者が足を止める。店先の主人が、黙って軒先の商品を引っ込め始める。

 鬼火が出た。


 明霞に暮らす者ならば、三度の銅鑼が何を意味するのか、知らぬ者はいなかった。


「魔法使いは!?」


 櫓の下から声が飛んだ。

 土塀の内側からでは、黒煙こそ見えても、その向こうで何が起きているのかまでは分からない。


 櫓の衛士は南東の農地へ目を凝らした。

 燃え盛る納屋。その周囲を逃げる人影がいくつも見える。

 だが――。


「まだだ!! 見えない!!」


「付近に人は!?」


「いる! まだ何人か残ってる!!」


「分かった! おい、五人来い!!」


 下にいた衛士たちが一斉に動いた。

 門が開き、五人の衛士が町へ逃げ込んでくる農夫たちとすれ違いながら、黒煙の上がる南東の農地へ駆け出していった。


「走れ! 振り返るな!」


 衛士たちは逃げ遅れた者を急かしながら、殿を務めるようにその後ろへ回る。


 一体がこちらへ向きを変えた。


「来るぞ!」


 槍が一斉に構えられる。その槍の先端には、濡れた布が巻き付けられていた。


 鬼火は悪食である。


 火も、木も、鉄も、人も、食らおうと思えば大地でさえ、あれらは焼いて飲み込む。ただ一つ、僧侶や勇者が扱う聖なる力以外で奴らを怯ませるものがあった。それが水だった。

 そして案の定、突き出された濡れ布を嫌って、鬼火が一瞬怯んだ。


 効いている。

 だが、怯んだのはほんの一瞬だった。


 炎が大きく膨れ上がる。


「下がれ!」


 間に合わない。

 鬼火が衛士へ覆いかぶさろうとした、その時だった。

 横合いから、一条の炎が飛び込んだ。衛士と鬼火の間を断ち切るように、地を舐めて走る。その色は鬼火の炎と、寸分違わなかった。


 迫る火炎に、鬼火が反応する。逃げたのではない。炎でできた身の一部が、ぐにゃりと内側へ引っ込んだ。火炎の軌道だけを避けるように大きく抉れ、揺らめく輪郭が一瞬、いびつな三日月を描く。その窪みを、火炎がすり抜けた。


「あ」


 誰かが声を漏らした。外れた炎は止まらない。鬼火の背後には、町を囲う土塀があった。


「おい――」


 直撃した。

 腹に響くような轟音とともに土塀が弾け、土煙が盛大に噴き上がった。

 一拍の静寂。


「ドアホ――ッ!!」


 物見櫓から、衛士の悲鳴が響き渡った。

 見れば、町を囲う土塀には、人が二人並んで通れそうなほどの亀裂が走っている。火炎をまともに受けた一帯は黒く焼け焦げ、今にも崩れ落ちそうだった。


 その惨状を見て、鎖骨まで伸びた漆黒の髪の少女が、突き出していた手をぴくりと震わせた。どうやら、本人にとっても想定外だったらしい。

 少女は亀裂の入った土塀を見つめ、それから自分の手へ視線を落とした。わずかに指を握り込む。


「あいつに負けるなー! もっとやれー!!」


 どこからか、呑気な声援が飛んだ。


「おい! 修繕するのはお前たちなんだぞ!!」


 櫓の衛士が怒鳴り返す。


 その時、鬼火が動いた。

 大きく揺らいだ炎が、一息に少女へ迫る。


「危ない!」


 誰かが叫ぶより早く、鬼火の炎が少女を呑み込んだ。黒い羽織も、漆黒の髪も、その姿すべてが炎の中へ消える。


 一瞬だった。


 炎が、膨れ上がった。

 鬼火のものよりも、さらに大きく、内側から噴き出した炎が鬼火を押し返し、そのまま包み込む。甲高い、悲鳴とも風切り音ともつかない音が響いた。炎と炎が絡み合い、膨れ、やがて一つになって消えた。


 あとには、少女だけが立っていた。

 足元に鬼火の姿はない。黒い羽織の裾が、残った熱にゆらりと揺れる。


 そして、その額には、二本の角のような炎が、静かに揺らめいていた。

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