大豆とは何か
「ああぁ〜……やっど、ここまで来れたぁ……。もう死ぬかと思いましたよ」
ここは燈国西部、クプリス山脈の麓に位置する関所の街。
西のセントナリア王国へと続く街道の玄関口だけあって、通りには荷馬車が連なり、旅装の商人や護衛らしき者たちが絶えず行き交っている。
その雑踏に紛れ、勇者クレイとその同行者ドミニクは拍子抜けするほどあっさりと国境を越えていた。
本来ならば、クレイは聖剣に選ばれた勇者として迎えられていたはずだった。
今やその正体を隠し、偽りの身分で街へ入り込んでいるのだから、皮肉な話である。
「途中、追跡隊に襲われた時、クレイは役に立たなかったし。まあ、鬼火相手には助かりましたが」
クレイは痛いところを突かれ、うっと言葉を詰まらせた。
「それは悪かったとは思っている。けど、おれはついこの間まで勇者でもなんでもない、ただ......そこら辺の人だった。戦い方は知らない」
「でも鬼火相手にはやるじゃないっすか」
「あれは、剣が戦い方を教えてくれるからだ。けど、それは人間相手には教えてくれない。それにおれも......人間相手に、あまり剣を向けたくはない」
そう口にした拍子に、クレイの手が腰元へ伸びた。
指先が、そこにあるはずのない何かを確かめるように触れる。
けれど、その手が掴むものは何もなかった。
「......ってなると、ますますこれから勧誘に行く魔法使いが重要になりますね。人を眠らせるとか痺れさせるとか、便利な魔法を持っていたりして」
魔法使い。
聖剣の勇者が現れるのと時を同じくして、ただ一人、この世に現れるという存在。
人の身でありながら鬼火の術を操り、勇者とともに鬼火を討ち、その役目を助ける者――そう伝えられている。
前の勇者が現れたのは、百五十年以上も昔のことだ。
その傍らにいた魔法使いも、勇者が役目を終えると同時に歴史から姿を消した。
今となっては伝承ばかりが残り、その実像を知る者などほとんどいない。
そんな存在がいるという。
ここから東へ、三日ほど街道を進んだ先に。
「......そうだな」
魔法使いには会いたい。
だが、自分は今やセントナリア王国軍に追われる身だ。たとえ相手にどれほどの力があろうと、伝承に勇者と旅をしたと記されていようと、自分の逃亡生活に巻き込むことを当然とは思えなかった。
それでも、このまま何も知らずに終わるわけにはいかない。
なぜ、聖剣は自分を選んだのか。
半妖である自分に、本当に勇者としての役目が果たせるのか。
答えを求めるなら、伝承に残るもう一人の存在には、一度会っておきたかった。
「ん? まだ気にしているんすか?」
いつの間にか、ドミニクが横から顔を覗き込んでいた。
「大丈夫っすよ、そんな身構えなくても。魔法使いが仲間になってくれなきゃ、その時はその時でまた公爵様に相談すればいいだけです。だから気軽に行きましょうや。じゃなきゃ、逆に逃げられちゃうんじゃないっすか?」
それはあまりに軽い口調だった。
けれど、その軽さが今のクレイにはありがたかった。冗談の混じったそれは、確かにクレイの気を幾分か楽にした。
「......そうだな。ありがとう、ドミニク」
「もっと褒めてくれていいんすよ」
途端にドミニクが得意げに胸を張った。
クレイはそれを横目に見て、少し考える。
「これ以上はやめておく」
「なんで!?」
「調子に乗りすぎて騒がれても困るからな」
ドミニクが勢いよくクレイを見上げた。
冗談のつもりだったのだろう。
だが、クレイの口元がわずかに緩んでいるのを見つけると、今度はじっとその顔を眺め始めた。
「......勇者様って意外と毒舌っすよね」
ポロッとドミニクの口から出たその素直な発言に、クレイはドミニクの顔を見る。その顔は呆れているような、意外なものを発見したような、そんな表情だった。
「まあ、オレ的には面白いんで、アリっすけど」
その言葉に、クレイは一瞬だけ黙った。
人との距離の取り方には、昔から自信がない。
半妖であることを知られぬよう、人と深く関わることを避けてきた。友人と呼べる者もほとんどいない。
だから今の言葉も、少し踏み込みすぎたかと思ったのだが――どうやら、この少年相手にその心配はいらないらしい。
そう思った途端、少しだけ悪戯心が湧いた。
「......なら問題ないな。ついでにサービスだ。これからはいつもの二割増しにしてやろう」
「いやいやいや、オレの大豆のハートにはきついっすよ。……あれ、大豆で合ってました?」
クレイの口角がさらに上がったのを見て、ドミニクが不安そうに眉を寄せる。
「大豆のハートは初めて聞いた。『大豆の丸みに心打たれて生きろ』というのは昔聞いたことがあるが」
「あれ」
ドミニクは目を瞬かせた。
ドミニクは燈国の人間ではない。
それなのに、こうして燈国特有の言い回しを半端に知っていることがある。
クレイはドミニクの素性について詳しく聞いたことがない。
向こうから話さないことを、わざわざ聞く気にもならなかったのだ。せいぜい、自分を牢から逃がし、商隊に扮した一行に紛れさせてこの燈国に自分とドミニクのみ送り、魔法使いに会うよう勧めた公爵と関わりのある人間としかわからない。
身につけているものを見ても、少なくとも貧しい家の出ではないのだろう。
茶褐色の羊毛で仕立てられた腰丈の上着は一見質素ながら縫製がよく、生成りの乗馬ズボンも旅慣れた丈夫な品だ。黒革の長靴に至っては、ここまでの山越えにもよく耐えている。
兵士にしては身なりがよく、貴族にしては妙に気さくだった。
クレイがそんなことを考えている横で、ドミニクは別のことに悩んでいた。
「あれ、大豆ってなんでしたっけ?」
「大豆?」
クレイはしばし考えた。
大豆とは何か。
まさか国境を越えた初日に、そんなものの説明で頭を悩ませることになるとは思ってもいなかった。
*****
燈国中央部、王都。
王宮の東に軒を連ねる中央官庁、その一角にある内政院へ、セントナリア王国からの書状が回されたのは半刻ほど前のことだった。
「――そんな馬鹿な話があってたまるか」
低く押し殺された声とともに、書状が卓上へ放られた。
厚手の紙が乾いた音を立てて滑る。
その音だけで、傍らに控えていた官吏たちの背筋が伸びた。
「聖剣に選ばれた勇者が半妖だった。それを捕らえ、聖剣を取り上げた。そこまではいい」
男は卓上の書状へ手を伸ばした。
「それが王城から脱獄。追撃を振り切り、山脈を越えた挙げ句――」
指先が、一節の上で止まる。
「我が国へ逃げ込んだ?」
返事はなかった。
求めてもいなかった。
「セントナリアの連中は何をしているんだ」
男は怒鳴ってはいなかった。
むしろ声は低いままだった。
それだけに、室内にいる者たちは誰一人として口を挟めなかった。
「第一、あそこは選りすぐりの僧侶どもが張った結界の内だったはずだ」
男は椅子の背へ身を預けることもなく、書状を睨んだ。
鬼火を退けるための結界。
王城、それも聖剣を収める場所ともなれば、そこに施されたものは並の術ではない。
半妖であるというなら、なぜそこへ入れた。
なぜ聖剣に触れられた。
なぜ――聖剣は、そいつを選んだ。
「…………いや」
不意に、男の指が止まった。
怒気に歪んでいた目が、すっと細められる。
「だからこそか」
「……は?」
側近が思わず聞き返した。
男は答えなかった。ただ、先ほどまで怒気に歪んでいた口元が、ゆっくりと吊り上がる。
「……なるほどな」
誰に聞かせるでもなく呟く。男の指はゆっくりとリズムを刻み始めた。その目は先ほどとは打って変わって静かに遠くを見つめているようだった。
結界を破ったという報告はない。聖剣を力づくで奪ったという話でもない。
どちらも、初めから彼を拒んでいない。
ならば本当に彼が正当な勇者だとすれば、聖剣は半妖を選んだことになる。
鬼火とは膿を焼き払うもの。そんな奴が聖剣を握ったとなればーー。
やがて男は目元を押さえた。
「まったく……面倒なものを押しつけてくれる」
セントナリアの手に負えないことも納得だった。
そのまま書状の続きを追う。
やがて――指が止まった。
「……待て」
「どうされました」
返事はない。
男は同じ箇所を、もう一度読んだ。
そして、もう一度。
先ほどまでとは違う緊張が、室内を満たしていく。
「……魔法使い?」
男の指が止まった。
「我々ですら把握していなかったぞ......なぜ、セントナリアが知っている」
書状には、確かに魔法使いの居所が記されていた。
燈国西部、国境に近い辺境の街。
昨日今日、姿を現したわけではない。
書状を読む限り、魔法使いは以前からその地にいたらしい。
それなのに、中央へ上がってきた報告は一つもなかった。
「……西部で情報が止められていた?」
燈国の中央すら知らなかったことを、国境の向こうにいるセントナリアは知っていた。
しかも、ただ知っていただけではない。
その居所まで書状に記し、わざわざこちらへ知らせてきたのだ。
「情報が漏れたのでしょうか」
「だろうな。間者がいたのか、商人が売ったのか、あるいはーー」
そこまで言って、男は黙り込んだ。ただ眼光ばかりが鋭くなっていく。
「では、調査を?」
「後だ」
男は即座に切った。
「今はこちらが最優先だ」
席を立ち、壁に掛けられた燈国全土の地図へ歩み寄る。
中央から西へ。
指先が国境へ伸びる街道を辿り、書状に記された土地で止まった。
「半妖の勇者……」
男は忌々しげに呟いた。
「奴も魔法使いの居所を掴んでいる可能性がかなり高い」
指が地図を叩く。側近が口を開いた。
「つまり......セントナリアは両者を接触させるなと?」
「そういうことになる」
セントナリアは半妖を捕らえ、半妖はそこから逃げた。今やどこの王にも、どこの国にも属していない。そんな得体の知れない者に、魔法使いを合流させるわけにはいかなかった。
勇者と魔法使い。その鬼火に対抗し得る二つの力が誰の統制も受けずに動き始めれば、何をするにせよ止められる者がいなくなる。
男は地図へ視線を戻した。
「まして、勇者は半妖だ」
しばしの沈黙。
やがて男は外套へ手を伸ばした。
「魔法使いを保護しろ」
「中央へ?」
「ああ。最優先だ。半妖より先に接触しろ」
「勇者の方は」
そこで男は一度考えた。
「……確保できるなら確保しろ」
「捕縛、ですか」
「馬鹿を言うな」
鋭い視線が飛ぶ。
「セントナリアが一度失敗している相手だぞ。下手に刺激して、我が国で聖剣を振り回されてみろ」
男は書状を持ち上げた。
「接触し、目的を探れ。可能ならこちらへ連れてこい。抵抗するなら深追いするな」
「その後は?」
「それを決めるために確保するんだ」
答えは早かった。
「セントナリアが返還を求めるなら、それも使える。だが、奴が我が国にとって利用価値のある存在なら、それもまた話は別だ」
側近は黙った。
勇者を救うためでもない。殺すためでもない。まして、セントナリアのためでもない。
燈国に落ちてきた、あまりにも大きな一枚の札。
それを誰かに拾われる前に、自分たちの手で押さえる。
ただ、それだけだった。
「宮城へ上がる」
男は外套を羽織った。
「魔法使いの保護について陛下の裁可を仰ぐ。西部へ向かう特使を選び、出立の準備をさせろ」
「領主には、いかが伝えますか」
「正式な王命を携えさせる。魔法使いの確保は国家の問題だ。協力を拒む理由はあるまい」
男は一拍置いた。
「……もっとも、素直に従うかは別だがな」
部下が一礼し、足早に部屋を出ていく。
男もその後を追うように歩き出した。
中央から魔法使いのいる町、明霞まで早馬で三日ほど。
もはや、一刻の猶予もなかった。




