聖剣が失われた日
楽しんでいただければ幸いです。
セントナリア王国には、とある伝承があった。
ーー聖剣の勇者出づる時、邪悪なる鬼火を滅さんとす。
しかし、今世選ばれた勇者には、燃えるような片ツノがあった。
真実を写す鏡に映ったそれは、彼がその半身に鬼火を宿していることを示していた。
*****
その日、国王執務室のさらに奥――限られた者しか立ち入ることを許されない内議室に、二人の男が招かれた。
王が最も信頼する臣下である王剣卿と、その直属の騎士団長であった。
二人が入室すると、背後で扉が閉じた。
錠の落ちる鈍い音が、狭い室内に響いた。
騎士団長は国王の前まで進み、片膝をついた。
「……ご報告申し上げます」
国王は答えなかった。
続きを許すように、わずかに顎を引く。
「王国軍第十三小隊、クプリス山脈にて対象である半妖を捕捉。捕縛を試みましたが......失敗いたしました」
王剣卿の眉がわずかに動いた。
「損害は」
「死者はありません。負傷者が数名。しかし対象の拘束には至らず、その後、追跡隊も足取りを見失っております」
「それで」
短く続きを促したのは国王だった。
騎士団長は一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。
「進路と最後の目撃地点から判断するに、すでにクプリス山脈を越え、隣国の燈国領へ入ったものと考えられます」
室内が静まり返った。
国王は何も言わない。
王剣卿もまた、すぐには口を開かなかった。
ただ、肘掛けに置かれていた指が、一度だけ動く。
「聖剣を奪われ」
王剣卿が口を開いた。 その声は低く、眼光は鋭く、騎士団長を射抜いていた。
「王城の特別牢から逃げられ。追撃に出した一個小隊にも撒かれ、その上、国外逃亡まで許したと」
騎士団長の頭がさらに下がる。
「申し開きもございません」
「我が軍は、いつから逃亡者の一人すら止められなくなった?」
「よせ」
国王の一言が、続くはずだった叱責を断った。
王剣卿が口を閉ざす。
国王は肘掛けに頬杖をつくでもなく、ただ背を預けた。深く吐き出された息には、怒りよりも疲労の色が濃かった。
「特別牢だぞ」
静かな声だった。
「あそこから一人で逃げられるはずがないことくらい、お前も知っているだろう」
王剣卿は口を閉ざした。しかしその眉間のしわは依然として深いままだった。
どのような事情であれ、聖剣を持たせたまま半妖を逃した事実に変わりはない。王剣卿は楽観視できる状況になかった。
「此度の失態を軽んじるつもりはない」
国王は騎士団長を見た。
「だが、すべてを兵の怠慢で片づければ、我らはもっと大きなものを見落とすことになる」
「……は」
「聖剣を持つ半妖を、危険を冒してまで逃がした者がいる。それも一人とは限らん」
そこで国王は言葉を切った。
「……まったく。困ったものだな」
その声音だけが、不釣り合いなほど穏やかだった。
「聖剣が光ったというだけで、あれを勇者と信じ切る者まで出るとは」
口元に浮かんだのは、笑みと呼ぶにはあまりに冷たいものだった。
「陛下」
「分かっている。『というだけ』ではない。……だからこそ厄介なのだ」
王はそれ以上何も言わず、卓上に広げられた地図へ視線を落とした。
クプリス山脈。その向こう側に横たわる国土を睨み、低く唸った。
「……しかし、よりによって燈国とは」
王剣卿も地図に目を向ける。
「あの国は我が国とは勝手が違います。中央の威光が地方まで行き届いているとは言い難い。土地によっては、古くから根を張る豪族や、近年の交易で財を成した者どもの方がよほど物を言う」
王剣卿の指が、国境から燈国の内陸へとゆっくり滑った。
「燈王一人を動かせば済む話ではありません。地方の成り上がりどもに接触され、聖剣の力に目をつけられでもすれば――」
「欲に目が眩み、半妖を匿う者が出るか」
「それだけならまだよろしい」
王剣卿は顔を上げた。
「利用しようとする者が出ます。中央への切り札にする者も、隣国への武器にしようとする者も。そうなれば、もはや一人の逃亡者を追うだけでは済まなくなる......全く、厄介なところへ逃げ込んでくれたものです」
王剣卿が吐き捨てるように言った。
しかし国王は、さほど動じた様子を見せなかった。
「そこは問題ない」
王剣卿が目を向ける。
国王は地図の一点、燈国側の国境にほど近い土地に指を置いた。
「手は打ってある」
「……と、申されますと」
「こちらから追えぬのなら、向こうの者に追わせればよい」
王剣卿の目が細くなる。
国王は指を離した。
「すでに手は打った。今頃は、向こうも動き始めている頃だろう」
*****
時は二日前、セントナリア東部、クプリス山脈中腹。
商隊に扮した一行は、セントナリアの追跡隊の追跡を振り切ったところであった。
すでに荷馬車も馬も破棄され、最低限の持ち物しか確保されていない。それでも、王国軍に最も引き渡してはならない人物を守り切ったことに、彼らは大きな達成感を覚え、気を緩めていた。
ーーその時だった。護衛の一人が燃え出したのは。
劈くような叫び声が聞こえた。
「鬼火だッ!!」
誰かが叫んだ。
「僧侶、結界だ!!」
僧侶は両手を組み、詠唱を始める。
だが――間に合わない。
護衛を包んだ炎が地へ落ちる。消えるどころか、意思を持つもののように地面を這った。
そして鬼火がさらにその炎を伸ばそうとしたとき、斬撃が走って、炎を断ち切った。斬撃の跡を辿ると、一人の青年の姿があった。灰白色の髪に、同じ色の右目と藍鼠色の左目を持つ、不思議な青年だった。その青年が、一振りの剣を手に立っていた。
すらりと伸びた刀身が、鬼火の炎を映して赤々と揺らめく。鍔には細やかな意匠が刻まれ、その中心に嵌め込まれた宝石だけが、燃え盛る炎の中にあって奇妙なほど澄んだ光を返していた。
「クレイ!!」
少年の声がした。しかしクレイには聞こえていないようだった。
炎が『それ』に怯えるようにジリジリと後退する。その間を詰めるように勇者は駆けた。
瞬間、鬼火が炎を吹き出す。
クレイは咄嗟に半歩身を引き、剣身を盾にするように構える。鍔に嵌め込まれた宝石が、真っ直ぐ鬼火を捉えた。すると鬼火の炎が宝石に吸い込まれていくようにして消えていく。
そして炎が止んだ瞬間、勇者は踏み込んで鬼火を切り伏せた。何かを斬った感触が僅かに手に残る。
聖剣が淡く光ったその時、鬼火は力なく崩れ去ったーー。




