第6回:窓の外の誘惑
「壁を見ろ! 何だあれは!」
白雪が飛び起き、俺が指差す方向を見た。
そこには、これまで一度も存在しなかった「窓」のようなものが、ぼんやりと出現していた。
俺たちは、ビーズクッションから重い腰を上げ、その影へと歩み寄った。
近づくにつれ、その影は透明度を増していく。
それは、電子的なモニターではなかった。
向こう側の空気が、温度が、そして『時間』が透けて見えるような、本物のガラス窓だった。
「…………嘘でしょ」
白雪が、短い悲鳴を漏らして口元を押さえた。
窓の向こうに映っていたのは、凍りついたオフィス街ではない。
それは、ここから数キロメートルは離れているはずの、白雪の実家のキッチンだった。
深夜二時十分十二秒。
薄暗い台所で、一人の女性が椅子に座っていた。白雪の母親だ。
彼女は寝巻き姿の上に厚手のカーディガンを羽織り、所在なげにスマートフォンの画面を見つめている。
テーブルの上には、ラップがかけられた冷え切った皿が一つ。
中身は、白雪の好物である生姜焼きだろうか。
傍らには『無理しないで、早く帰りなさい』と書かれた、小さなメモが置かれている。
「お母さん……。あそこで、ずっと待ってる。私が帰るのを」
「…………」
「あの日、私、家を出る時に喧嘩したの。『仕事なんだから仕方ないでしょ!』って、お母さんの顔も見ないで飛び出して……。お母さんは、あの瞬間から一秒も進まない世界で、ずっと私の帰りを待ってるのね」
母親は動かない。
深夜二時過ぎに、帰ってこない娘を心配して、冷めた夕飯を片付けることもできずに立ち尽くしている。
その解像度は、残酷なほどに高かった。
母親の目尻の皺、少しだけ震えている指先、そして、何度も何度も娘に送ろうとしては消しているであろう、未送信のメッセージの気配。
「佐藤。私たち、ここで何をしてるんだろう」
白雪の声が、乾いた音を立てて部屋に響いた。
俺たちの周囲を見渡せば、そこは『天国』そのものだった。
最高級のマッサージチェア、山積みのゲームソフト、食べきれないほどの高級スイーツ、そして自分たちを縛る上司も納期も存在しない、無限の自由。
だが、その自由は、窓の向こうで静止している「誰かの愛情」を犠牲にして成り立っているものだった。
「……ここを出たら、またあの生活だぞ。白雪。忘れたのか? お前、あの日、泣きながら『もう消えたい』って言ったじゃないか」
「忘れてないわよ! でも……でも、あの生姜焼きが、あんなに冷たくなってるのを見るのは耐えられない!」
「あっちじゃまだ一秒も経ってないんだ! 冷めてるんじゃない、最初からその温度なんだよ! 理屈を考えろ!」
「理屈なんてどうでもいい! 私は……私は、お母さんに『ごめん』って言いたいだけなの!」
白雪が、窓ガラスを両手で激しく叩いた。
ドン、ドン、という鈍い音が、静かな聖域に虚しく響く。
「佐藤のバカ! あんたは、ここが快適なだけじゃない! 外で失敗した自分を見たくないだけでしょ! ここにいれば『最強のゲーマー』でいられるもんね! でも外に出たら、ただの仕事ができない佐藤君に戻っちゃうのが怖いんでしょ!」
「……黙れ」
「図星でしょ! あんたは、私を巻き込んで、自分のプライドを守るための防空壕にしてるだけよ! この、卑怯者!」
俺の中で、何かが音を立てて切れた。
「ああそうだよ! 悪いか! 外の世界に俺の居場所なんてねえんだよ! ここなら、俺は誰にも否定されない! お前だってそうだろ! この三年間、ここでゲラゲラ笑ってゲームしてたお前は、全部演技だったってのかよ!」
「演技じゃないわよ! 楽しかったわよ! でも……でも、ずっとは無理なの! 私の人生は、あそこにあるんだから!」
俺たちは、かつてないほど激しく罵り合った。
これまでの共同生活で築き上げてきた『戦友』としての信頼が、急速に色褪せていく。
目の前の相手が、自分をこの檻に繋ぎ止めるための『重石』に見えてくる。
「……わかったよ。そんなに帰りたいなら、今すぐ手続きして出て行けよ。俺一人で、この部屋を使いこなしてやる」
「……いいわよ。あんな事務的なセックス、こっちから願い下げだわ! あんたは一生、ここで一人でカップ麺食べてればいいじゃない!」
白雪は部屋の隅へ走り、ビーズクッションを壁に投げつけた。
俺はベッドに背を向け、荒い息を吐きながら、止まったままのストップウォッチを睨みつけた。
静寂。
先ほどまでの怒声が嘘のように、部屋は再び死のような静けさに包まれる。
モニターの中のオフィス街は、相変わらず二時十分十二秒。
窓の向こうの母親も、二時十分十二秒。
……俺たちは、何を間違えたんだろう。
自由を手に入れたはずだった。
不条理なルールを逆手に取って、最高の秘密基地を作ったはずだった。
なのに、心は少しも満たされていない。
どれだけ高級な肉を食べても、どれだけ面白いゲームをクリアしても、その喜びを「外の世界」へと繋げられないことが、これほどまでに虚しいとは思わなかった。
ふと、部屋の隅で、白雪の嗚咽が聞こえてきた。
彼女は膝を抱え、小さく震えていた。
その姿は、三年前、オフィス街の街灯の下で「死にたい」と呟いていたあの夜と、何も変わっていなかった。
俺は、自分がどれほど独りよがりだったかを悟った。
俺は彼女を救ったつもりで、実は、彼女の「傷つく権利」さえも奪っていたのだ。
現実の世界で苦しみ、悩み、それでも誰かと生姜焼きを食べる。
そんな当たり前の営みを、俺の「恐怖」のために止めてしまっていた。
「……白雪」
「……触らないで」
「……悪かった。俺、本当に自分が情けないよ」
「…………」
「お前の言う通りだ。俺は、外に戻るのが怖かった。ここで『最強』のまま、時間を凍らせておきたかったんだ。……でも、それはもう、ただの引きこもりじゃなくて、ただの死体だったんだな」
俺は、白雪の隣に、そっと座った。
「お母さん、生姜焼き作って待ってるんだな。……あっちじゃ一秒も経ってないから、お前が今帰れば、まだ温かいかもしれないぞ」
「……バカ。三年間も放置して、温かいわけないじゃない。私の心の中じゃ、もうカピカピに乾いてるわよ」
「……そうだな」
俺たちは、情けない顔で笑い合った。
喧嘩の熱が冷め、代わりに、重苦しい沈黙の中に「覚悟」のようなものが混ざり始める。
「ねえ、佐藤。……私、やっぱり帰らなきゃいけない気がする」
「ああ」
「でも……今すぐじゃないわ。喧嘩したまま、こんな最悪な気分で、お母さんの顔を見るのは嫌」
「……じゃあ、どうする」
「……仲直り、しましょう。ちゃんと、ここで過ごした時間が『最高だった』って思えるように。……事務的な手続きじゃなくて、ちゃんと、あんたと向き合ってから帰りたいの」
白雪が、涙で濡れた目で俺を見つめた。
その瞳には、初めてここに来た時の「絶望」も、これまでの「享楽」もなかった。
ただ、一人の人間として、目の前の俺を選ぼうとする「意思」があった。
俺は、彼女の細い肩を抱き寄せた。
「……いいのか? 手続きしたら、あの月曜日が来るぞ」
「いいわよ。……あんたが隣のデスクにいてくれるなら、部長の怒鳴り声も、ゲームのBGMくらいにしか聞こえない気がするし」
「はは、随分な自信だな」
俺たちは、どちらからともなく、自分たちの拠点であるベッドへと向かった。
そこは、これまではただの「出口」であり、「作業場」だった。
だが、今、俺たちがそこへ向かう足取りは、不思議なほどに軽い。
窓の外では、まだ一秒も進んでいない現実が待っている。
けれど、俺たちの中で凍りついていた時間は、今、確かな熱を持って溶け始めていた。
「……佐藤」
「なんだ」
「……次、戻ってきたら。……本当の温泉、連れてってよね」
「……ああ。爆弾は仕掛けないで、普通に行こうな」
俺が彼女の唇に触れようとした、その時。
ピカ、と。
部屋のモニターの中、二時十分十二秒で止まっていた時計の秒針が、一度だけ、力強く刻まれた。
それは、楽園の崩壊の始まりであり。
俺たちが「人間」に戻るための、カウントダウンの始まりでもあった。




