第7回:開いたドアと、閉じた僕ら
「……開いたわね」
事後。
白雪が、シーツを胸元まで引き上げながら、掠れた声で呟いた。
真っ白な部屋の隅。毎回鍵が開くだけで、これまで一度も動く気配のなかった無機質な金属のドアが、何のサービスか、今は数センチだけ、誘うように隙間を作っている。
カチャリ、という、これまでで最も重みのある「解錠の音」が、静まり返った部屋に反響していた。
「ああ。……開いたな」
俺はベッドの端に座り、乱れた呼吸を整えながら、そのドアを見つめていた。
これまでは「手続き」だった。
出入り口の改札を通るための、事務的な作業。
だが、たった今終えたそれは、明らかに違っていた。
お互いの体温を、恐怖を、そして「ここにいたい」という情けないほどの執着を分け合うための、儀式。
その甘い熱量に呼応するかのように、「セックスしないと出られない部屋」は、俺たちに「外」への帰還を、ただ許可するだけでなく、誘っている。
部屋の中に漂う、どこか甘ったるい空気。
そして、わずかに開いたドアの隙間から流れ込んでくる、鋭く冷たい「現実」の気配。
「……ねえ、佐藤。外の匂いがする」
「……ああ。深夜のアスファルトと、排気ガスの匂いだ」
白雪はゆっくりとベッドから降りると、床に散らばった自分の一番お気に入りのスウェット――もう三年間も着続けているのに、部屋の効果で新品同様のままのそれを、おぼつかない足取りで身に纏った。
俺もまた、ヨレヨレのTシャツを頭から被る。
二人は吸い寄せられるように、ドアへと歩み寄った。
白雪が細い指先をドアノブにかけ、ゆっくりと、慎重に押し開ける。
キィ、という現実的な音がして、視界が開けた。
そこにあったのは、俺のアパートの、見慣れた、そしてあまりにも汚い廊下だった。
廊下の電球は、今にも切れそうにチカチカと点滅している。
壁の隅には埃が溜まり、郵便受けからは督促状の端っこが覗いている。
そして、何より残酷だったのは。
「……動いてる」
白雪が息を呑んだ。
廊下に置かれた古い掛け時計の秒針が、チッ、チッ、と音を立てて刻まれていた。
二時十分十三秒。
二時十分十四秒。
俺たちが部屋の中で三年、いや、もっと長い時間をかけて積み上げた「永遠」が。
この一歩先にある世界では、たった数秒の出来事として処理されようとしていた。
「……行かなきゃ。お母さん、待ってるし」
白雪の声は震えていた。
彼女はドアの敷居を跨ごうとして――その足が、ピタリと止まった。
ドアの向こう側の「現実」は、あまりにも解像度が低かった。
真っ白で、清潔で、最強のゲーミングPCと最高級の肉がある「聖域」に比べれば、この廊下は、まるで安っぽいセットのように見えた。
一歩踏み出せば、俺たちは「佐藤君」と「白雪さん」に戻る。
一歩踏み出せば、数時間後にはあのクソみたいな月曜日が、部長の怒鳴り声と共にやってくる。
一歩踏み出せば、この三年間で築き上げた、世界に二人きりという「神の視点」は霧散し、俺たちは再び「替えのきく歯車」に成り下がるのだ。
「……ねえ、佐藤」
「……なんだ」
「外、寒そうね」
白雪が、震える肩を抱きしめた。
外の世界の気温は、おそらく十度を下回っている。
この部屋の、常に二十六度に保たれた、完璧な空調とは大違いだ。
「……ああ。暖房をつけなきゃいけないな。電気代もかかる。あのアパートのエアコン、古いから効きが悪いんだ」
「……お腹も空くわよね。ここみたいに、いくら食べても太らないなんて魔法、外にはないもの。明日からはまた、コンビニの半額弁当を奪い合う生活が始まるのね」
「……ああ。ゲームの攻略も、誰かと共有すれば叩かれるかもしれない。『そんなの常識だ』って。ネットの海は、ここよりもずっと冷たいんだ」
俺たちは、開いたドアの前で、立ち尽くしていた。
自由はそこにある。
出口は開いている。
拘束は解けた。
帰りたいと思っていた。
だが、俺たちの心に芽生えたのは、解放感ではなく、猛烈な「違和感」だった。
「……ねえ。私たち、今、出なきゃいけない理由って、あったっけ?」
白雪が、首を傾げて俺を見た。
その目は、これまでになく理性的で、かつ、最高に「自堕落」な光を宿していた。
「え?」
「いや、だって考えてみてよ。外の時間はまだ二時十分よ? お母さんが生姜焼きを持って待ってるのだって、あっちの基準じゃ『一秒前』の出来事なのよ? 私が今帰っても、一時間後に帰っても、あっちからすれば誤差ですらなくない?」
「……それは、まあ、そうだけど」
「部長に怒られるのだって、あと数時間『後』の話でしょ? 別に、今すぐ帰って、明日睡眠不足のまま出社する義務なんて、労働契約書のどこにも書いてないわよ」
白雪の言葉が、俺の脳細胞を激しく揺さぶった。
そうだ。
「出られる」ということは、必ずしも「今すぐ出なければならない」ということではない。
「……白雪。お前、天才か?」
「でしょ? 私たち、この三年間、何を焦ってたのかしら。『手続き』が終わったら出なきゃいけないなんて、誰が決めたのよ」
「……誰も決めてない。ただ事を致すと鍵が開くだけ。それだけだ」
俺たちは、顔を見合わせた。
これまで、俺たちはこの部屋を「檻」だと思っていた。
だが、扉が開き、元の世界に誘われた瞬間に気づいたのだ。
ここは檻じゃない。
ここは、俺たちが手に入れた、世界で唯一の「完全な所有地」なのだ。
「佐藤。……閉めて」
「いいのか?」
「ええ。とりあえず、あのアイスクリームメーカーで、新しく買ってきたマンゴー味を試してからにしましょう。外の世界にマンゴーを自慢しに行くのは、その後にするわ」
「まあ、出たくなったらいつでも出れるしな」
俺は、力強く頷いた。
そして、外の世界への「出口」を――二時十分十五秒を指し示していた廊下の光を――バタン、という豪快な音と共に、内側から閉ざした。
カチャリ。
扉を閉じると鍵が閉まる音がした。オートロックか、ここ。
「……ふぅ。静かになったな」
「やっぱり、こっちの空気の方が落ち着くわね」
白雪は、再びビーズクッションへとダイブした。
その顔には、先ほどまでの悲壮感など欠片もなかった。
あるのは、圧倒的な優位性を確信した者の、余裕たっぷりの笑みだ。
「ねえ、佐藤。よく考えたら、ここって家賃ゼロ、光熱費ゼロ、食費(買い出し分以外)ゼロの、究極のタックス・ヘイブンじゃない?」
「……ああ。しかも、外の世界の責任をすべて先送りできる、最強の猶予期間だ」
「最高じゃない。私たち、今まで『出られない』って怯えて損してたわ。これからは、『気が向いたら出るけど、好きなだけここにいる』っていう、世界で一番贅沢な引きこもりを始めましょうよ」
俺たちは、豪華なソファを並べ直し、冷えたコーラで乾杯した。
扉が開いたことで、俺たちは本当の意味で、この部屋の「主人」になった。
「出られない」からいた場所が、「いつでも出られるのに、あえている」場所へと変わった。
その精神的なパラダイムシフトは、俺たちに無限の全能感を与えていた。
「よし、白雪。まずは……あのピラミッド建築計画の続きだ。三年間かけて、世界一豪華な墓にしてやろうぜ」
「いいわね! その後は、外から持ってきた『一生終わらないパズル』もやりましょう。時間は、腐るほどあるんだから」
俺たちは笑い、ふざけ合い、そして時折、さっきの「手続き」の余韻を思い出すように、少しだけ照れくさそうに視線を交わした。
外の世界では、まだ二時十分十五秒。
だが、閉じられたドアの内側で、俺たちの新しい「楽園」は、かつてないほどの輝きを放ち始めていた。
現実なんて、クソ喰らえだ。
俺たちは、俺たちのペースで、この「一秒」を一生かけて遊び倒してやる。
……そう。
この時の俺たちは、まだ「気が向いたらいつでも出られる」という慢心が、どれほど恐ろしい「沼」の入り口であるかに、全く気づいていなかったのだ。
「ねえ、佐藤」
「なんだ」
「……次は、もうちょっと優しく《手続き》してよね。時間はたっぷりあるんだから」
白雪が悪戯っぽく笑い、俺の腕を引いた。
真っ白な部屋に、新しい「恋」の匂いが混ざり始める。
俺たちの引きこもり生活は、ここからが、本当の「本番」だった。




