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第5回:飽和する楽園



「……佐藤。もう、遊ぶゲームがないわ」


 白雪が、糸の切れた人形のようにソファへ沈み込みながら呟いた。

 画面には『全実績解除おめでとう!』の文字が虚しく踊っている。

 

 聖域(部屋)に引きこもってから、体感でどれほどの月日が流れただろうか。

 俺たちは、買い込んできた数百本の新作タイトルをすべてクリアし、やり込み要素をコンプリートし、対戦格闘ゲームではお互いの癖を読みすぎて「もはや一歩も動かずに勝敗が決まる」という仙人のような領域にまで達してしまった。


「……インディーズの、あの『ひたすら草をむしるだけのゲーム』は?」

「一昨日、全種類の草をコンプリートして図鑑を埋めたわ。レア種の『黄金の雑草』を出すのに、体感で三週間は粘ったもの」

「じゃあ、あの『無人島でひたすら借金を返すゲーム』は……」

「島を更地にして、黄金の宮殿を建てたわ。もうこれ以上、島を広げるスペースがないのよ」


 白雪が、埃を被り始めた予備のコントローラーを恨めしそうに見つめる。

 

 贅沢な悩みだった。

 現実世界の全人類が「時間が足りない」と嘆き、睡眠時間を削って娯楽を貪っている一方で、俺たちは「娯楽が時間の供給に追いつかない」という未曾有の事態に直面していた。

 

 部屋は、相変わらず真っ白で清潔だ。

 だが、その広さは以前よりもずっと「狭く」感じられた。

 

「ねえ、佐藤。私たち、これからどうするの? 映画も全部見た。漫画も全巻読んだ。アイスクリームメーカーで作れるフレーバーも、昨日で全種類制覇したわ。……まさか、ここに来て『暇』に殺されるなんて思わなかった」

「……俺もだ。会社にいた頃は、五分間の昼寝ができるだけで幸せだったのにな」


 静寂。

 以前は「自由の象徴」だったその静けさが、今は耳の奥に響く不快なノイズのように感じられる。

 

 俺たちは、お互いに目を合わせないようにして、ビーズクッションの配置を微調整した。

 ここには、自分たち以外の更新ニュースがない。

 外の世界は相変わらず二時十分十二秒で固まったままで、新しいトレンドも、新しいスキャンダルも、誰かの愚痴すらも流れてこない。

 

「……ねえ、佐藤。あんたってさ、会社に入る前は何してたの? ほら、大学とか、サークルとか」


 白雪が、ふと、禁忌に触れるような問いを投げかけてきた。

 俺の心臓が、ドクンと跳ねる。

 

「……よせ。それは『外』の話だろ。ここじゃ、外の話題はタブーだ」

「わかってるわよ。でも、もう話すことがないんだもの。ゲームの攻略法も、ポテチの味の批評も、全部やり尽くしたわ。……あんたが、どんな子供だったのかとか、そういう……」

「ダメだ。そんな話をしたら、現実を思い出しちまう。俺たちが、あの『二時十分十二秒』の世界に属してる人間だってことを、突きつけられる」


 そう、俺たちは「過去」を語ることを恐れていた。

 過去を語ることは、自分たちのアイデンティティが外の世界にあると認めることだ。

 それは、この聖域での生活を「偽物」だと定義してしまうことに等しい。

 

「……そうね。悪かったわ。……じゃあ、ほら、あの『ブロックを積み上げるだけのゲーム』の新しい建築計画でも立てましょうよ」

「ああ、いいな。次は……実物大のピラミッドでも作るか」

「いいわね。体感で一年くらいは潰せそう」


 俺たちは、必死に「中」の話題へと逃げ込んだ。

 だが、会話は続かない。

 

 ピラミッドの建築計画。それは、一秒後には無価値になる砂の城のようなものだ。

 俺たちは、沈黙が怖くて、あえて騒がしい音楽を流した。

 だが、その音楽さえも、数百回と繰り返されたプレイリストの一部でしかない。


 俺は、ふと、隣に座る白雪を見た。

 

 三日間徹夜した死人のようだった彼女の肌は、この聖域での規則正しい(?)生活のおかげで、驚くほど艶やかになっていた。

 ボサボサだった髪も、俺が買い出してきた高級トリートメントの効果で、しっとりとまとまっている。

 

 ……マズい。

 そもそも、デスマーチで疲弊する前は、可愛らしい顔と大きな胸のおかげで、白雪は同期入社男子の間で、人気ナンバーワンだったのだ。


 何故それを今思い出した?


「……白雪」

「何よ」

「お前……最近、ちょっと、その……顔色が良くなったな」

「……あんたこそ。前は、ドブネズミみたいな顔してたのに、今は……まあ、人間の端くれくらいには見えるわよ」


 視線が、一瞬だけ重なる。

 

 俺たちは慌てて目を逸らした。

 

 この部屋で、娯楽が尽き、外部との遮断が完全になった時。

 最後に残るコンテンツは、たった一つしかない。

 

 それは、「目の前の相手」だ。

 

 だが、相手を「コンテンツ」として楽しむことは、この部屋においては死を意味する。

 相手を知り、相手に触れ、相手を愛おしいと思ってしまったら。

 その瞬間に俺たちの理性が「手続き」を「愛」へと変えてしまい、俺たちはこの楽園から追放される。

 

 月曜日の朝。

 部長の怒号。

 終わらない修正指示。

 

 それらが、背後で鎌を振り上げている死神のように感じられた。

 

「……佐藤。私、もう寝るわ。十時間くらい、泥のように眠ることにする」

「……ああ。俺も、映画の字幕でも数えて過ごすよ」


 俺たちは背中を向け合い、ベッドの両端に横たわった。

 

 かつては、このベッドこそが「出口」への忌まわしいゲートだった。

 だが今は、ここが唯一の、お互いの視線を遮るためのシェルターだった。

 

 暗闇の中で、白雪の規則正しい呼吸音が聞こえる。

 

 ……沈黙が、重い。

 

 どれだけ目を閉じても、外の世界では一秒も経っていないのだと思うと、発狂しそうになる。

 俺たちは、自由を手に入れたはずだった。

 だが、その自由は「何も変わらない」という檻でもあった。

 

 もしかしたら。

 

 あのクソみたいな現実の、秒針が刻まれる残酷さこそが、人間を正気でいさせていたのではないか。

 そんな、裏切り者のような思考が頭をよぎる。

 

 俺は必死に首を振り、意識を「次の買い出しリスト」へと集中させた。

 もっと、もっと刺激的なものを持ち込まなければならない。

 もっと、もっとこの部屋を、現実なんてどうでも良くなるほどの楽園にしなければならない。

 

 そう決意して、俺が重い瞼を開けた時だった。

 

「……え?」

 

 俺は、自分の目を疑った。

 

 真っ白で、どこにも継ぎ目のなかったはずの壁。

 そこに、見覚えのない「長方形の影」が浮き上がっていた。

 

「白雪、起きろ! おい、白雪!」

「ん……何よ、もうピラミッド完成したの……?」

「壁を見ろ! 何だあれは!」


 白雪が飛び起き、俺が指差す方向を見た。

 

 そこには、これまで一度も存在しなかった「窓」のようなものが、ぼんやりと出現していた。

 

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