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第3回:究極のタイムマネジメント


「……佐藤、終わったわよ。レベル九十九。裏ボスまで完全攻略。所要時間は、えーっと、体感で四百二十時間ってところかしら」


 白雪が、コントローラーを床に置いて深々とため息をついた。

 画面の中では、伝説の魔王を倒した勇者たちが万感の思いでスタッフロールを眺めている。だが、それを操作していた俺たちの現実は、至ってシュールだ。


「お疲れ。四百二十時間か。……で、外の時間は?」

「見て。……ゼロ秒」


 白雪が手元のデジタル時計を突き出す。

 俺たちがこの『聖域』に籠もり、新作RPGを一気にクリアするという暴挙に出てから、現実世界では一秒たりとも進んでいない。外のオフィス街は、相変わらず二時十分十二秒のままだ。

 

「最高だな。世の中のゲーマーが喉から手が出るほど欲しがる環境だ。どれだけ寄り道しても、どれだけレベル上げに時間を費やしても、発売日の翌朝には『もうクリアしたよ』ってドヤ顔で出社できる」

「出社はしたくないけどね。でも、この『時間の暴力』は癖になりそう……。私たち、今、世界で一番時間を贅沢に浪費してる無職よ」


 白雪は満足げに、買い溜めたポテトチップスの袋を口に運んだ。

 この部屋の特性は凄まじい。空腹による衰弱が発生しないため、食事は純粋な「娯楽」になる。眠気も襲ってこない。ただ、精神的な満足感のために寝るだけだ。

 俺たちはこの数日間(体感)、ひたすらゲームと自堕落な生活に明け暮れた。


「でも佐藤、そろそろ『あれ』をやらないと」

「ああ……白雪の残業代ゼロ化計画な。よし、やるか」


 俺たちは顔を見合わせた。

 今回の目的は、白雪が会社から押し付けられていた「絶対に明日(数時間後)までに終わらない量」の技術マニュアル作成だ。

 普通にやれば一週間はかかる代物。だが、この部屋なら話は別だ。


「じゃあ、一回外に出て、資料を全部取ってくる。手続きの準備はいいか?」

「オッケー。もう慣れたわ。ストップウォッチ、セット」


 白雪が「ピッ」と計測を開始する。

 俺たちはベッドに移動した。

 

「……手続き開始」

「了解。最短コースでお願い」


 かつては羞恥心に震え、お互いの顔を見ることすら躊躇したこの行為も、今や単なる「物理的な改札」に過ぎない。

 俺たちの会話は、もはや愛の囁きではなく、工場ラインの業務連絡だった。


「佐藤、右肩に重心寄ってる。効率悪いわよ」

「悪い、こっちの方が腰が楽なんだ。あと三秒で第一工程終わるぞ」

「はいはい。第二工程の接続、スムーズにお願いね。……はい、タッチ」


 もはや情熱の欠片もない、機械的な運動。

 だが、その速度は回を追うごとに洗練され、無駄が削ぎ落とされていく。

 

「……よし。手続き完了。所要時間、三分四十五秒。自己ベスト更新だ」

「やったわね。どんどん『カードキー』としての精度が上がってるわ」


 俺は息を整える間もなく、一瞬だけ外の世界――現実のアパートへ戻り、ノートPCと山のような資料を抱えて戻ってきた。

 外の時間は、まだ二時十分十二秒。

 

 そこからは、地獄の、いや、至福のワークタイムが始まった。

 

「よーし、やるわよ! 誰にも邪魔されない、電話も来ない、上司の嫌味も聞こえない! 完璧な無重力ワークスペース!」


 白雪はカセットコンロでお湯を沸かし、コーヒーを淹れると、猛烈な勢いでタイピングを始めた。

 俺は俺で、買い溜めた漫画の山を崩していく。

 時折、彼女が「佐藤、ここの文言どう思う?」「『前向きに検討』でいいんじゃないか?」なんて会話を挟む。

 

 体感で三日が過ぎた。

 白雪は、完璧なマニュアルを完成させ、伸びをした。


「終わったぁぁぁ! 五十ページ完遂! これで、数時間後の月曜日にこれを提出すれば、私は『一瞬で仕事を終わらせた伝説の社員』として、定時退社が許されるはず!」

「すごいな。現実時間では、俺が資料を取ってきてからコンマ数秒しか経ってない。上司からすれば、白雪が瞬きした瞬間に分厚い資料が完成してる計算だ」

「まさにタイムマネジメントの神ね。……ねえ、佐藤。私たち、最強じゃない?」


 白雪が、ドリップコーヒーの最後の一滴を飲み干しながら、勝ち誇ったように笑った。

 

 そう、俺たちは無敵だった。

 この部屋にいる限り、締め切りは存在しない。

 勉強だって、修行だって、遊びだって、無限にできる。

 俺たちはこの『聖域』を完全に使いこなしている。

 現実世界の連中が、必死に秒針に追われて生きているのを尻目に、俺たちは時間の流れを支配しているのだ。

 

 そんな慢心が、俺たちの心を支配し始めていた。


「この調子なら、次は資格の勉強でもしようかしら。あるいは、ずっと読みたかった長編小説を全巻制覇するとか。ねえ、佐藤、次は何を……」


 白雪が楽しげに次の「浪費計画」を語ろうとした、その時だった。


「……? あれ、佐藤。ネットが……」


 白雪がノートPCの画面を見つめて首を傾げた。


「ネットが、繋がらない? さっきまで資料のダウンロードとかできてたのに」

「え、嘘だろ。Wi-Fiルーターは外(現実)に置いてあるけど、スキルの範囲内なら繋がるはずじゃ……」


 俺も自分のスマホを確認する。

 アンテナは立っている。だが、ブラウザを更新しても「オフライン」の文字が出るだけだ。


「……あ。そうか」


 俺は、ある単純で、かつ残酷な事実に気づいてしまった。


「白雪、外の世界は『止まってる』んだ」

「……ええ、そうね。それがこの部屋の売りじゃない」

「違うんだ。止まってるってことは、サーバーも、プロバイダも、ニュースサイトの更新も、SNSの投稿も……全部『止まってる』ってことなんだよ」


 白雪の顔から、みるみる血の気が引いていった。


「……じゃあ、今この瞬間のネットの海には、誰もいないの? 新しいツイートも、掲示板の書き込みも、動画のライブ配信も……一秒先のものすら流れてこないの?」

「そうだ。俺たちがいくら時間を進めても、外は二時十分十二秒で固定されてる。つまり、俺たちがアクセスできるのは、『十二秒の瞬間のネット』だけなんだ」


 静寂が部屋を支配した。

 今までは「時間の停止」を、自分たちに有利な道具だと思っていた。

 だが、それは同時に「世界の更新」を絶つということでもあった。

 

 どれだけ面白いゲームをクリアしても、その感想をネットに書き込むことはできない。書き込んだとしても、誰の目にも触れない。なぜなら、自分たち以外の人間はまだ「書き込む前の時間」にいるからだ。

 どれだけ素晴らしい成果を出しても、それを誰かと共有することは、この部屋を出るまで叶わない。


「……それって、ちょっと、怖くない?」


 白雪が、自分の肩を抱くようにして呟いた。

 

 無限の時間。誰にも邪魔されない自由。

 だがそれは、自分たち以外の全人類が石像のように固まった、墓場のような世界に一人(二人)でいるのと同じことだった。


 俺たちは、自分たちが持ち込んだ大量の「モノ」に囲まれた部屋を見渡した。

 ゲーム機、モニター、カップ麺の空き殻。

 それらはすべて、外の世界から切り取ってきた「過去の遺物」だ。

 

 この部屋には、未来がない。

 自分たちで作り出さない限り、新しい風は一分も、一秒も吹いてこないのだ。


「……ねえ、佐藤。次の手続き(買い出し)、いつにする?」

「……そうだな。もう少ししたら、行こうか」


 俺たちは、どちらからともなく、自分たちの時間を刻んでいる唯一の道具――ストップウォッチに目をやった。

 そこには、自分たちだけが積み上げてしまった、外の世界とは決して相容れない「孤独な数日間」が刻まれていた。


 そして俺は、ある予感に気づく。

 この部屋に「持ち込めないもの」は、ネットの繋がりだけではない。

 

 もっと根源的な、人間が人間として生きていくために必要な「何か」が、この真っ白な壁の中には欠けているような気がしてならなかった。


「……とりあえず、もう一回寝るか」

「そうね。……明日が来ないのって、案外、体力使うわね」


 俺たちは、ふかふかのベッドに背を向けた。

 

 その時、部屋の隅で。

 聞き慣れない、小さな「音」がしたような気がした。

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