第2回:ヤ部屋を魔改造する
「……しまった。お湯。お湯がないんだけど」
白雪のその一言で、俺たちの『永遠のバカンス』は開始早々、物理的な壁にぶち当たった。
真っ白な部屋。豪華なベッド。止まった時間。
条件は完璧だったが、この部屋にはインフラ、あるいはアメニティという概念が欠落していた。
厳密に言えば、俺たちが持ち込んだコンビニ袋の中には、カップ麺が二つとストロング系の缶チューハイはある。だが、それだけだ。カップ麺を食べるための熱湯も、流し台も、そもそも冷蔵庫すらない。
「佐藤。このままじゃ、餓死はしなくても『ひもじさ』で死ぬわよ。私、空腹で死ぬのは嫌だけど、ひもじさでメンタルを病むのはもっと嫌。だってそれ、仕事してる時と同じじゃない」
「……だよな。聖域を名乗るなら、最低限のQOLは確保しなきゃな」
俺たちは、部屋の中央にあるダブルベッドに座り、部屋の隅にある「出口」――一度も開いたことのない無機質なドアをじっと見つめた。
解決策はある。この場所を「聖域」にする方法。
グッズは持ち込めるのだ。しっかり準備を、つまり必要なものを《買い出し》してから、ここに来ればよかったのだ。
そして、ここから出るための条件は、ただ一つ。
俺と白雪が、性行為を完遂すること。
「佐藤。言っとくけど、これは『性』じゃない」
「分かってる。これは単なる『手続き』だ」
「そう。市役所で住民票を取るのと同じ。あるいは、改札口にICカードをタッチするのと同じ。ただの物理的な解除キーに過ぎない」
「……よし。じゃあ、サクッと済ませて、買い出しに行こう。一秒、は無理でも、マッハの速さで戻ってきて、ここを最高の楽園にするんだ」
俺たちは、まるでお互いの実印を確認し合う事務作業のような空気感で、ベッドに横たわった。
羞恥心? そんなものは連日のサービス残業でとっくに摩耗して消えている。
あるのは、「早くお湯を確保したい」「ポテチが食いたい」という切実な生存本能と、外の世界(月曜日)への強烈な拒絶反応だけだった。
………。
「……終わったわね」
「ああ。手続き完了だ」
数十分後(体感)。
俺たちは、汗を拭うこともなく立ち上がった。
不思議と賢者タイムすら来ない。達成感も背徳感もない。ただ、ドアのロックが『カチャリ』と外れる音が、この世で最も甘美な音楽のように響いた。
俺はドアノブを掴み、白雪を振り返る。
「よし。15分で戻るぞ。リストは?」
「水、カセットコンロ、大量のカップ麺、ゲーミング座椅子、あとふかふかのスウェット。金は私のカードを使っていいから、とにかく一番高いやつを買ってきて!」
俺は頷き、ドアを開けて「地獄(現実)」へと一歩踏み出した。
――そこは、まだ二時十分十二秒だった。
深夜の冷たい空気が肌を刺す。街灯の下、一歩も動いていない白雪の残像がそこにあるような錯覚すら覚える。
俺は猛然と走り出した。幸い、目の前には、よく利用してた、二十四時間営業のディスカウントストアがある。
俺は狂ったようにカートを押し、目に付く限りの「快適」を放り込んだ。
カセットコンロ、ボンベ、保存水、高級羽毛布団、特大のビーズクッション、それから最新の家庭用ゲーム機と、大型の液晶モニター。
クレカで数万、いや十数万を支払い、タクシーを捕まえて荷物を積み込む。
行き先は、「会社から近いから」という理由で決めた、俺のアパートだ。
白雪には、先に行ってもらっていた。
アパートの前で荷物を下ろし、再びスキルの発動条件――「自分と、対象者が同じ視界に入る」を確認する。
俺は部屋のドアを開け、そこに立っていた白雪の手を掴んだ。
「待たせたな」
「待った」
「いくぞ」
「よし来い」
視界が再び反転し、俺たちは真っ白な「聖域」へと帰還した。
「セックスしないと出られない部屋」もとい「セックスさえしなければ時間無制限で居られる聖域」だ。
床には、買い込んできた、山のような段ボール箱と、買い込んできた物資が散乱している。
「おかえり! そしてただいま! 待ってると長かった。15分ぐらいだったけど」
「ハァ、ハァ……。見てくれ白雪。これが俺たちの『軍資金』だ。ここならこれを使い切るのに何ヶ月かけてもいい。その間、外の時間は止まる」
そこからは、まさに「秘密基地建設」の時間だった。
俺たちは、外の世界では決して許されない「無駄な時間」を贅沢に使い、部屋を自分たちの色に染めていった。
まずは、床一面に防音のジョイントマットを敷き詰める。
部屋の中央には、例のダブルベッドを追いやり、代わりに最高級のビーズクッションを二つ並べた。
壁の一面には大型モニターを設置し、ゲーム機を接続する。
カセットコンロでお湯を沸かし、買い込んできた中で一番高いカップ麺に注ぐ。
三分間の待ち時間。それは、外の世界では計測不能なほど短い、けれど俺たちにとっては至福の静寂だった。
「…………美味しい」
「ああ……。会社の給湯室で食うのとは、次元が違うな」
スウェットに着替えた白雪が、ずずっと麺を啜りながら、幸せそうに目を細める。
さっきまでの死にそうな顔が嘘のようだ。
だが、ここで俺は重要なことに気づいた。
「なあ、白雪。一つ、重要なルールを決めなきゃいけない。この聖域を守るためのルールだ」
「何? 増税?」
「違う。……俺たちはさっき、ここを出るために『手続き(セックス)』をしただろ」
「ええ、まあ、事務的にね」
「でも、もしここで過ごしているうちに、俺たちが本当に、その……お互いにムラムラしたり、良い雰囲気になったりしたらどうなる?」
「……あっ」
白雪が麺を吸う手を止めた。
この部屋の脱出条件は、性行為の完遂だ。
つまり、もし俺たちが「うっかり」盛り上がって致してしまったら、その瞬間に俺たちはこの楽園から追放され、あのデス・マーチの最中へ、「二時十分十二秒」のオフィス街へ戻されてしまう。
それは即ち、数時間後の月曜日への直行便を意味する。
「それは……死刑宣告と同じね」
「だろう? だから、俺たちはここで、お互いを絶対に『異性』として意識してはいけない。友情、あるいは戦友、もしくは同居している肉の塊として接する必要がある」
「賛成よ。でも、狭い部屋に男女二人きりでしょ? 慣れって怖いわよ。万が一、あんたのスウェット姿がセクシーに見えちゃったりしたら……」
「ありえないけど、予防策は必要だ」
そこで、俺たちは「理性の防衛戦」を戦うための掟を作った。
題して、『非・性欲化プログラム』。
「よし、白雪。今から『どちらがよりブサイクな顔を維持できるか』選手権をやるぞ。一日に一度、お互いの顔を見て、最も性的欲求を減退させた方が勝ちだ」
「受けて立つわよ。見てなさい、私の『三日間徹夜して、上司に理不尽な理由で怒鳴られた直後の、魂が抜けた死人の顔』を!」
白雪は、思い切り顎を引き、白目を剥き、唇を震わせながら、この世の終わりを煮詰めたような表情を作った。
正直、夢に出るレベルで怖かった。
「……完璧だ。今、俺の性欲はマイナスに突入した」
「次はあんたの番よ、佐藤。見せてごらんなさい、あんたの無能さを!」
「おう。俺の『修正指示が全部入ったエクセルが保存されずにクラッシュした瞬間の、絶望のあまり口から何かが出そうな顔』を見ろ!」
俺たちは、交互に最低最悪の顔面を披露し合い、互いの性的価値を徹底的に貶め合った。
爆笑。そして、深い安心感。
「これなら……大丈夫そうね。私たち、世界で一番、恋愛から遠い場所にいるわ」
「ああ。セックスしないと出られない部屋で、セックスを最も忌むべき『強制退去ボタン』として扱う。これこそが、俺たちの聖域の守り方だ」
秘密基地は完成した。
電力はスキルの特性なのか、なぜか壁から無限に供給されているし、スマホの充電も使っても減らない。
俺たちは、ビーズクッションに深く沈み込み、買ってきたばかりの新作RPGを起動した。
「ねえ、佐藤」
「なんだ」
「外のカラスの鳴き声……。あんなに嫌いだったのに、もう全然思い出せないや」
「……俺もだ」
外の世界では、まだ一秒。
だが俺たちは、この夜だけで、数年分もの自由を手に入れたような気がしていた。
しかし、俺たちはまだ知らなかった。
この「快適すぎる部屋」が、時として残酷なまでの「誘惑」を孕み始めることを。
画面の中の主人公が草原を駆け出す。
俺たちの、終わらない月曜日への抵抗(引きこもり)は、まだ始まったばかりだった。




