第90話 退けられた脅威
ゼーグルは静かに、自らの傷へと視線を落とした。
全身には無数の裂傷が刻まれ、皮膚は至るところが焼け爛れている。
ブレアが聖魔法を放った瞬間、咄嗟にスキルで全身を硬質化させた。
だが、それでもなお、この有様だった。
――想定を遥かに超える威力。
中でも聖魔法による火傷は深刻だった。
聖魔法は魔族の魔力を相殺し、その力を打ち消す性質を持つ。
常に魔力が体内を巡る魔族にとって、それは致命的なまでに相性の悪い力だ。
(あれほどの規模の聖魔法を扱える聖女など……そうはいない)
ゼーグルは警戒を強めながら、正面に立つブレアへ視線を向ける。
その姿を改めて観察した瞬間、あることに気づいた。
(……あの法衣。先ほどは気にも留めなかったが……なるほど、そういうことか)
何かを察したゼーグルの表情がわずかに険しくなる。
一方のブレアは表情ひとつ変えず、静かに口を開いた。
「ゼーグル・ヴァンガード。各国で暗躍するテロ集団『嘆くモノ』の一人……そうですね」
その一言に、ゼーグルの瞳が大きく見開かれる。
「……俺を知っているのか?」
「教会でも、貴方達の動きは以前から追っています。メンバー全員とまではいきませんが、何人かの素性は把握しています。そして――ハーリットさんが倒した女性は、ヴァレリア・ルーゲートですね」
各国で暗躍する謎のテロ集団――嘆くモノ。
各地で発生した破壊工作や要人暗殺、その数々の事件への関与が疑われており、教会もまた最重要危険組織の一つとして、その実態を追い続けていた。
しかし、その全容はいまだ闇の中だ。
テロ集団の規模も目的も不明。
首魁が誰なのかさえ判明しておらず、教会が掴んでいる情報は断片的なものに過ぎない。
それでも、表立って活動する実行部隊と思われる者たちについては、わずかながら情報が残されていた。
その内の二人が――ヴァレリア・ルーゲートとゼーグル・ヴァンガードである。
もっとも、判明しているのは名前と、Aランク冒険者パーティですら討伐は困難とされるほどの実力を持つこと。
そして、常識では測れないほど高度な魔法を操ることくらいだった。
出身も経歴も、なぜ嘆くモノに所属しているのかも一切不明。
彼らがこれまで関与してきた事件についても、教会が把握できているのは氷山の一角に過ぎないだろう。
つまり教会にとって彼らは、正体不明ながら国家をも脅かしかねない危険人物――それ以上でも、それ以下でもなかった。
そして今回、ブレアは初めて彼らと対峙した。
ユティナとの戦いの痕跡を見た限り、その実力は教会が掴んでいた情報と寸分違わない。
だが、それ以上にブレアの目を引いたものがあった。
――ゼーグルの火傷。
聖魔法を受けた傷跡は、水属性魔法で負うものとは明らかに異なっていた。
まるで聖なる力そのものに拒絶され、焼かれたかのような痛々しい痕。
その異常な傷を見た瞬間、ブレアの脳裏に教会の禁書庫で読んだ古い文献がよぎる。
そこには、はるか昔に滅んだとされる種族――魔族について記されていた。
『魔族は聖力に著しく弱く、聖魔法を受けた際には人間とは比較にならない反応を示す』
文献の内容と、目の前の光景が一致する。
もっとも、それだけで断定することはできなかった。
魔族は数百年前に滅んだとされる存在。
ブレア自身も実際に目にしたことはなく、文献の知識しか持ち合わせていなかったからだ。
しかし、その迷いは、この後のゼーグル自身の口から消え去る。
「なるほど……貴様たち聖法教会も、俺たちのことをそこまで掴んでいたか。公にはなっていないはずだが……さすがは聖女……いや、大聖女ブレア・セイフライドといったところか」
(やはり……こちらの事は、ある程度知られている様ですね)
ブレアは何も答えず、ただ静かにゼーグルを見据えた。
その沈黙を意にも介さず、ゼーグルは口元をゆっくりと歪め、不敵な笑みを浮かべる。
「……ふっ、まさかあの子供に続いて貴様にもか……。一日で二度も魔族だと見破られるとは思わなかった」
(半信半疑でしたが、やはり……魔族。ですが、子供に続いて、二度……?)
ブレアの思考が止まる。
(それは……ハーリットさんも、この男が魔族だと見抜いたということですか……?)
疑問が胸をよぎる。
教会ですら、魔族に関する資料はごくわずかしか残されていない。
だからこそ、自分は文献と傷跡を照らし合わせてようやく推測に至った。
では、ユティナはどうやって見抜いたのか。
その答えは、いくら考えても見えてこない。
(……いえ、その理由を考えるのは後です)
ブレアは静かに思考を切り替え、改めて目の前の男を見据えた。
――数百年の時を経て現れた、魔族を。
その存在を前にしても、ブレアの瞳に揺らぎはない。
今、優先すべきは疑問の答えを探すことではなく、一刻も早くこの男を倒し、ユティナ達を助ける事だ。
しかし、一つだけ確かめなければならない事があった。
ブレアは静かに口を開く。
「貴方には、聞きたいことがあります。現在、聖国の裏で暗躍しているとされる貴方達が、なぜこの地まで赴き、わざわざロクサーナ様を攫おうとしたのか――その目的を話しなさい」
その言葉に応じるように、リヴァイアサンが低く唸る。
巨大な水竜はブレアを守るようにその身を巡らせ、いつでも襲い掛かれるよう臨戦態勢を取った。
(……さすがに、大聖女を相手にこれ以上戦うのは分が悪いか)
ゼーグルは一瞬で状況を見極める。
このまま戦えば勝敗に関係なく被害は大きい。それは自分だけでなく、気絶したヴァレリアにも及ぶだろう。
「悪いが、その問いに答えるつもりはない」
ゼーグルは肩を竦めるように笑う。
「しかし、我らの動きをそこまで把握しているとはな。聖法教会も存外やるものだ。それとも、情報の出所は別にあるのか……まぁ、今はどうでもいい」
そう言ってブレアへ視線を向ける。
「これ以上、貴殿と争うつもりはない」
ゼーグルは右手をゆっくりと掲げると、指を鳴らした。
――パチン。
乾いた音が響いた瞬間、その頭上に魔法陣が展開される。
次の瞬間、魔法陣の中から気を失ったヴァレリアの身体が現れた。
ゼーグルは落下してきた彼女を右肩で受け止める。
(無詠唱による転送魔法ですか……!)
ブレアの瞳がわずかに揺れる。
「我らはここで退かせてもらう」
「逃がすと思いますか!」
返答よりも早く、ブレアは無詠唱で魔法を紡いだ。
「――アクアトルネード!」
轟音とともに巨大な水流が渦を巻き、ゼーグルたちを一瞬で飲み込む。
しかし、水の渦が静まり、飛沫が霧となって晴れた時――
そこに二人の姿はなかった。
「……転移、ですか」
ブレアは静かに周囲を見渡す。
「逃げられましたね……」
ブレアは一瞬だけ、ゼーグルたちラメントについて思考を巡らせる。
だが、すぐに小さく息を吐いた。
「……ひとまずは、脅威を退けることができた。それで良しとしましょう」
今優先すべきは、彼らを追うことではない。
ブレアは踵を返すと、急いでユティナ達の元へと向かうのだった。
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