第89話 大聖女、戦場に降り立つ
ユティナ達が攫われてから、少し後。
ツァリスの露天街――。
港町として栄えるツァリスには、海から運ばれてくる新鮮な魚介類をはじめ、山の幸や様々な異国の食材が集まってくる。
当然、それらは料理や酒にも大きな影響を与えていた。
露天街には、珍しい食材を扱う店から、出来立ての料理を提供する屋台まで所狭しと並び、多くの人々が行き交っている。
そんな賑やかな街の中を、一人の女性――ブレア・セイフライドが歩いていた。
普段はレディア聖院女学園の保健士として在中、そして大聖女という立場でもある彼女は、一人で露天街を満喫していた。
「ん~……これは美味しいですねぇ」
手にしているのは、魚介を使った出来立ての串料理。
一口食べるたびに、ブレアの表情が緩む。
普段なら、こうした場所を気軽に歩くことなどなかなかできない。
だからこそ――。
「ふふっ……こういうのも、たまには良いものですね」
今日は絶好の機会だった。
せっかくツァリスまで来たのだからと、普段なかなか食べることのできない料理を見つけては買い、そして食べる。
まさに、至福のひと時だった。
――その時。
(ブレア……)
頭の中に、透き通るような女性の声が響き、ブレアの足が止まる。
それは、彼女と契約を交わしている聖霊獣の声だった。
(どうしました?)
いつもの穏やかな表情を浮かべたまま、ブレアは心の中で問い返す。
だが、続いた言葉を聞いた瞬間、その表情から笑みが消えた。
(霊獣王の気配が……街の結界の外にあるわ)
「…………」
一瞬、ブレアは言葉を失った。
霊獣王――。
それは、ユティナと契約を交わしているルナのことだ。
そして、今のユティナはレイモンド達と共にツァリスの町を見て回っているはずだった。
町の外へ出る可能性が全くないとは言えない。
しかし、わざわざ魔物などの危険が潜む結界の外へ、レイモンドがユティナを連れて出るとは考えにくい。
何より――。
(……どうして、霊獣王が結界の外に?)
嫌な予感が、胸の奥を駆け抜ける。
そして、ブレアの頭の中に一つの可能性が浮かんだ。
――ユティナ達に、何かあった。
「…………」
先ほどまでの楽しげな空気は、もう消えていた。
ブレアは手にしていた串料理を見つめる。
「……これは、後でいただきましょう」
そう呟くと、ブレアはそれを包みに戻した。
(今の霊獣王の場所を教えてください)
すぐさま心の中で聖霊獣へ問いかける。
(分かったわ。あっちよ)
聖霊獣から伝わってくる気配。
それを感じ取った瞬間――ブレアは迷うことなく走り出した。
人々の間を縫うように駆け抜け、露天街を抜ける。
向かう先は、ツァリスの結界の外。
一歩、また一歩と街から離れるたびに、胸の中にある嫌な予感が強くなっていく。
(ハーリットさん……)
どうか、無事でいてくださいと、そう願いながら、ブレアは聖霊獣の導きを頼りに、霊獣王――ルナの残した気配を追った。
そして、辿り着いた先。
そこには、傷つき、動けなくなったユティナがいた。
その少女の前に立ちはだかるように――。
ブレアは、ユティナを守るように立つ。
目の前に立つ人物を見て、ユティナは震える瞳を見開いた。
「どうして……ブレア先生が……ここに……?」
掠れた声で絞り出すように問う。
ブレアは静かに振り返り、優しく微笑んだ。
「そんなの決まっているでしょう?」
その笑みは、いつもの学園で見せる穏やかなものだった。
「貴女を助けに来たのですよ」
その一言に、張り詰めていたユティナの心がわずかに緩む。
しかし次の瞬間、ブレアの表情は凍りついた。
改めてユティナの姿を見たからだ。
全身には無数の傷が刻まれ、裂けた衣服は血で赤く染まっている。
砕けた地面や周囲に残る戦闘の痕跡だけでも、この少女がたった一人でどれほど苛烈な戦いを繰り広げてきたのかは容易に想像できた。
だが、それ以上にブレアの目を引いたのは、今のユティナの容体だった。
荒く繰り返される呼吸に、小刻みに震え続ける手足。
自力で立ち上がることすらできず、その場に座り込んでいる姿。
そして、力を失った身体は生理現象すら制御できず、下半身の衣服は静かに濡れていた。
(……失禁)
ブレアの瞳が揺れる。
(全身の筋力が弛緩している……。ここまで魔力を使い切ったの……?)
大聖女として数多くの患者を診てきた彼女だからこそ、一目で理解した。
重度の魔力欠乏症。
あと一歩遅れていれば、命すら危なかったかもしれない。
「…………」
胸の奥で、怒りが込み上げる。
目の前の男への怒り。
そして、それ以上に自分自身への怒りだった。
(どうして……もっと早く来られなかったの……)
本来なら、守るべき相手だったはずだった。
それなのに、この少女はたった一人で命を削る戦いを強いられた。
大聖女である自分が、師匠である自分が、弟子をここまで追い詰めさせてしまった。
その事実を、ブレアは決して許すことができなかった。
しかし、そんなふうに自分を責めている場合ではない。
ブレアは気持ちを切り替え、再び男を鋭く見据えた。
ユティナの実力は誰よりも理解している。
保有魔力量こそ少なく、まだ未熟な部分も多い。
だが、アニヤ先生が認めるほどの戦闘センスと観察力は、すでに冒険者Aランクに匹敵する。
そして、その身にはユニコーンが宿り、膨大な聖力を秘めている。
魔力量の少なさゆえ、ユニコーンの力をすべて引き出すことはできない。
それでも一般的な聖女に匹敵するほどの聖魔法を行使できるよう、自分が鍛え上げてきた。
だからこそ、目の前の光景が信じられなかった。
そのユティナが、ここまで追い詰められている。
ブレアは改めて男へ視線を向け、その異様なまでの実力に、思わず息を呑んだ。
ふと視線を巡らせると、少し離れた場所には一人の女が倒れている。
あれはユティナが倒したのだろう。
男とともに行動していた以上、その女もまた同等の実力者だったに違いない。
そんな相手を一人で退けたうえで、なお目の前の男と渡り合っていた。
その事実に、ブレアは驚きを隠せなかった。
ゼーグルもまた、新たに現れたブレアを値踏みするように見据えた。
「その纏っているのは法衣……か。ならば聖女か。まったく、面倒ごとばかり増えていくな……」
うんざりしたようにため息を漏らす。
本来、この任務はロクサーナを攫うだけの簡単なものだった。
ところが、突如現れたユティナに足止めを食らい、挙げ句の果てにはヴァレリアまでも討たれるという、予想外の事態に発展した。
それでも、ヴァレリアとの戦いで疲弊したユティナを始末し、ロクサーナの聖結界を解除して、再び本来の任務へ戻る――そのはずだった。
しかし、今度は新たな聖女まで現れた。
さすがのゼーグルも、この展開までは読めなかった。
聖魔法は魔族にとって厄介な力だ。相性の悪さで言えば最悪と言っていい。
だが、それは決して勝てないという意味ではない。
相手が聖女であろうと、戦い方はいくらでもある。
ゼーグルは静かに口元を歪め、ブレアを鋭く見据えた。
「さて、我々は急いでいる。悪いが、すぐに終わらせてもらうぞ……」
ゼーグルの右腕へ、再び膨大な魔力が収束する。
練り上げられた魔力は腕の性質そのものを書き換え、圧倒的な破壊力を宿していく。
(聖結界で防ぐつもりだろう)
ゼーグルはそう読んでいた。
魔力を帯びた攻撃、とりわけ瘴気を宿した魔族の魔力で、聖結界を打ち砕くことは容易ではない。
ならば、答えは単純だ。
魔力で破れないのなら、魔力を使わずに破壊する。
ゼーグルが狙うのは、魔力ではなく、その拳から放たれる純粋無比の衝撃。
聖結界は魔法に対して絶大な耐性を誇る。
しかし、その強固な防御も、純粋な物理衝撃まで完全に防ぎ切れるわけではない。
「――っ!」
ゼーグルが拳を振り抜いた。
神速すら凌駕する一撃。
拳が空を裂いた刹那、轟音とともに空間そのものが震撼する。
凝縮された大気は凄まじい衝撃波へと変貌し、進路上のすべてを押し潰さんと一直線にブレアたちへ襲いかかった。
だが、ブレアは聖結界を展開しなかった。
代わりに静かに右手を掲げた。
「――アクアウォール」
瞬間、ブレアの前方に水色の魔法陣が展開され、莫大な水が噴き上がる。
激流は壁となり、ブレアたちを包み込むように弧を描いた。
その高さは周囲の巨木をはるかに超え、森の中央に巨大な水の城壁が突如として現れる。
空から見れば、大森林の真ん中に蒼い円環が出現したかのような、幻想的な光景だった。
次の瞬間、衝撃波が水壁へ激突する。
凄まじい轟音とともに水面が大きく波打つ。
しかし、水は砕けない。
衝撃を受け止めるたびに波紋を幾重にも広げ、その運動エネルギーを飲み込むように吸収していく。
やがて荒れ狂っていた水面は静けさを取り戻し、衝撃波は跡形もなく消え去った。
「……まさか」
ゼーグルは思わず目を見開く。
衝撃そのものを、水で受け流すとは、完全に予想外だった。
そして何より、ブレアが展開した魔法――《アクアウォール》。
その規模は、初級魔法とは到底思えないほど桁違いだった。
(いくら初級魔法とはいえ……これほどの規模を、無詠唱でだと……!?)
ゼーグルの表情に初めて焦りが走る。
その時、水の壁の中央が静かに左右へと開いた。
そこから姿を現したのは、ブレアだった。
「貴方……よくも私の大切な弟子を傷つけてくれましたね?」
静かでありながら、底知れぬ怒りを秘めた冷たい声。
その一言だけで、周囲の空気が凍りついたように感じられる。
次の瞬間、水の壁が轟音とともに形を崩す。
砕け散ることなく、水は激しくうねり、その巨体を組み上げるように一つの存在へと姿を変えていく。
現れたのは、水の鱗を纏う巨大な龍。
聖霊獣――リヴァイアサン。
大聖女ブレア・セイフライドと契約を結ぶ、水を司る大いなる聖霊獣だった。
リヴァイアサンはブレアの頭上へ舞い上がると、威圧するようにゼーグルを見下ろす。
その時、ゼーグルの耳に聞き慣れない言葉が届いた。
「……アルム、ゼラフィ=ヴェンティ……ア=クロスム」
それは、人の言葉ではない。
聖霊だけが扱う神秘の言語――霊獣語。
そして、それはリヴァイアサンが有する固有聖魔法の発動詠唱だった。
そして、ブレアの前に巨大な水色の魔法陣が展開される。
「――《タイダルウェーブ》」
轟ッ!!
激流が大地を呑み込む。
濁流はゼーグルへ襲い掛かり、行く手に立つ木々を根こそぎ押し流しながら、森に一本の巨大な川を生み出していく。
(この規模の……聖魔法だと……!?)
ゼーグルは激流に飲まれながらも抜け出し、空へと逃れる。
しかし、その代償は小さくなかった。
全身は無数の裂傷に覆われ、さらに所々には火傷のような痕まで刻まれている。
「その傷……」
静かな声が響く。
「その負い方……貴方、まさか魔族ですか?」
声のする方へ視線を向ける。
そこには、リヴァイアサンを従え、大空に静かに浮かぶブレアの姿があった。
その瞳は、すでにゼーグルの正体を見抜いているかのように、鋭く彼を射抜いていた。
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