第88話 追い詰められる少女
ゼーグルの放った魔法の威力は絶大だった。
天より降り注いだ無数の雷は轟音とともに大地へ突き刺さり、その衝撃だけで地面を激しく揺らす。岩盤は砕け、大地は抉れ、周囲は土煙に包まれた。
人間ならば、一撃たりとも耐えられるような代物ではない。
しかし――
「……これは、驚いたな」
土煙の向こうを見据えたゼーグルが、思わず感嘆の声を漏らす。
そこには、淡く黄金色に輝く聖結界を展開し、自らを包み込むようにして”天罰”とも呼べる雷撃を完全に防ぎ切ったユティナの姿があった。
だが、その表情に安堵はない。
額には汗が滲み、肩で荒く息をつくその姿からは、決して無傷では済まなかったことが見て取れた。
「聖結界か……。やはり我ら魔族にとっては、相性の悪い力だ」
ゼーグルは苦笑を浮かべながら呟く。
聖魔法の一つである聖結界――それは、聖力によって形成される特殊な結界術であり、通常の魔法結界とは比較にならないほどの防御力を誇る。
その真価が発揮されるのは、瘴気や魔力を帯びた攻撃を受けた時だった。
そもそも聖力とは、瘴気などの穢れを浄化し、傷ついた心身を癒やす神聖な力である。
人間は本来、聖力を持たない。信仰や祈りを聖霊へ捧げることで聖力を授かり、それを自身の魔力を媒介として制御することで、初めて聖魔法として行使できるのだ。
では、なぜ聖魔法は魔族に対して絶大な効果を発揮するのか。
その理由は、魔族の魔力が人間のそれとは根本から異なる性質を持つためである。
彼らの魔力は全身を巡り、生命活動そのものを支える力となっている。そのため、人間を遥かに凌ぐ身体能力と、圧倒的な魔法耐性を兼ね備えていた。
その力の源となるのが、“魔力の心臓”とも称される魔核である。
魔核には、周囲に漂う瘴気を吸収する性質があった。瘴気は自然界のあらゆる場所に存在し、その濃度に差はあれど完全に消えることはない。
吸収された瘴気は魔核で魔力と融合し、より強大な魔力へと昇華される。魔力と瘴気は極めて親和性が高く、互いを増幅させ合う性質を持つのだ。
その証拠に、瘴気の濃い土地では、莫大な魔力を宿した強力な魔物が生まれやすい。
人間にとって瘴気は命を蝕む猛毒でしかない。しかし魔族は、瘴気を取り込んだ魔力を全身へ循環させることで、肉体そのものを強化できる。
瘴気を含んだ魔力に耐えられる身体を持つからこそ、魔族は人間には到底不可能なほど精密かつ膨大な魔力操作を可能としていた。
言うなれば、魔族とは、常に瘴気と魔力をその身に宿し続ける”魔力の生命体”なのである。
だからこそ、聖力は魔族の力の根源である瘴気を浄化し、その魔力そのものを弱体化させる。
そして聖結界は、瘴気を含んだ魔法を浄化・相殺し、その威力を大きく減衰させる。
魔族にとって聖魔法とは、まさしく最大の天敵と呼ぶべき存在だった。
そして、その聖魔法を扱えたからこそ、ユティナはゼーグルが放った雷霆を真正面から受け止め、完全に防ぎ切ることができたのである。
もっとも、当のユティナ自身は、聖魔法が魔族に対して絶大な効果を発揮することを知らなかった。
彼女にとって聖結界とは、今の自分が使える中で最も強力な防御魔法――それだけの認識だったのだ。
結果として雷霆を防ぎ切れたのは、まさに幸運だったと言える。
もし展開していたのが通常の魔法結界であれば、ゼーグルの雷撃を受け止めることは到底できなかっただろう。
魔族だった頃のユティナも、聖魔法について詳しい知識を持っていたわけではない。
ただ「自分たち魔族にとって厄介な魔法」という程度の認識しかなく、その本質までは理解していなかったのである。
とはいえ、あれほど凄まじい雷撃を防ぎ切るには、生半可な聖結界では到底足りなかった。
ユティナは聖霊獣ルナから膨大な聖力を可能な限り引き出し、その力を余すことなく聖結界へと注ぎ込んだのだ。
たが、その代償は大きい。
莫大な聖力を制御するため、自身の魔力をほとんど使い果たしてしまったのである。
もともと魔力量の少ないユティナにとって、それは致命的だった。
「はぁ……っ、はぁ……っ……」
呼吸は乱れ、手足は小刻みに震える。
全身から汗が噴き出し、視界は霞み、身体から力が抜けていく。
やがて聖結界は音もなく消え去り、ユティナは膝から崩れ落ちた。
指先一つ思うように動かせず、全身の筋肉は弛緩し、自らの身体すら支えられなくなっていた。
その極限状態の中、力を失った身体は生理現象すら制御できず、下半身の衣服を静かに濡らしてしまう。
本人にはそれを気にする余裕すらない。
ただ荒い息を繰り返し、意識を保つことだけで精一杯だった。
その様子を見たゼーグルは静かに目を細める。
「……魔力欠乏症か」
その一言で、ユティナの状態を確信した。
ゼーグルは少し離れた場所で、聖結界に包まれ眠るロクサーナへ視線を向けた。
「敵ながら見事だ。自らの命を削ってまで、あの少女を守るとは……」
ユティナがロクサーナに展開した聖結界は、術者が魔力欠乏症に陥った今なお消えてはいない。
その輝きだけが、彼女の『守り抜く』という意思を物語っていた。
だが、その光も徐々に揺らぎ始める。
「今なら、わざわざ術者を殺さずとも結界が消えるのを待てば済む話だが……」
ゼーグルは座り込んだユティナを見下ろす。
この若さでヴァレリアを討ち、高位魔法すら防ぎ切った少女。
――生かしておけば、いずれ魔族最大の脅威となる。
「やはり、お前は危険すぎる。恨みはないが、ここで死んでもらう」
せめて苦しみは与えまい。
そう呟くと、ゼーグルは静かに拳を構えた。
膨大な魔力が拳へ収束し、肌は鈍い銀色へと変質していく。
鋼鉄すら凌ぐ硬度を宿した拳。
「さらばだ」
ゼーグルが踏み込む。
(もう……体が動かない……)
意識は霞み、指一本すら思うように動かせない。
(でも……まだ……ロクサーナちゃんを……)
消えかけた瞳に、最後の光が宿る。
ユティナは諦めていなかった。
(ルナ……お願い……!)
残された力を振り絞り、ルナを呼ぼうとした――その瞬間だった。
キィンッ――!
氷刃が風を裂き、ゼーグルへと襲い掛かる。
咄嗟に後方へ跳び退いたゼーグルだったが、地面へ突き刺さった氷刃は砕け散り、無数の氷槍となって波紋のように広がる。
追尾するように迫る氷槍。
「ちっ……!」
ゼーグルは全身を硬化させ、その悉くを受け止める。
さらに腹部へ魔力を集中させると、一気に解放。
衝撃波が巻き起こり、氷槍は粉々に砕け散った。
あまりにも突然の出来事に、ユティナは何が起こったのか理解できない。
だが、その視線の先に立つ人物を見た瞬間、かすれた声を漏らした。
「……ブレア、先生……?」
純白のローブ。
青と金の刺繍。
風になびく、長い蒼髪。
静かに立つその姿は、まるで一筋の希望そのものだった。
そこにいたのは――
大聖女ブレア・セイフライドだった。
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