第85話 狂気の女
悠然と佇む男――ゼーグルを、ユティナは剣を構えたまま鋭く睨みつけていた。
先ほど放った斬撃は、確かに直撃したはずだった。
だがゼーグルは、その腕をまるで鉄塊のように変質させ、真正面から受け止めてみせたのだ。
(あの力……魔法? でも、あんなもの見たことない……)
握る剣に、自然と力がこもる。
未知の力に、正体不明の敵。
だからこそ、焦って踏み込むべきではない。
(迂闊に攻めるな……。まずは様子を見て、あの力の正体を探る……!)
ユティナが静かに重心を落とし、踏み込もうとした――その瞬間だった。
「ゼーグルぅぅ〜……お前は手ぇ出すなよぉ〜……」
耳の奥にまとわりつくような、不快で粘ついた声。
ゾクリ――。
全身を悪寒が駆け抜け、ユティナは反射的にその場から飛び退いた。
直後、ゆらりと倒れていたはずのヴァレリアが、不気味な動きで立ち上がる。
額から血を流し、乱れた癖毛が顔に張り付き、その奥で覗く口元だけが異様なほどに吊り上がっていた。
まるで痛みなど感じていないかのように。
いや、それどころか心の底から、この状況を楽しんでいる様に。
(……嘘でしょ)
ユティナの背筋を冷たい汗が伝う。
(今の一撃……手応えはあった……! なのに、仕留めきれてないの……!?)
むしろヴァレリアから放たれる気配は、先ほどよりもなお禍々しさを増していた――。
身体強化を纏った渾身の踵落とし。
狙ったのは急所――まともに受ければ、人間なら確実に即死していた一撃だった。
だが、それほどの威力を叩き込まなければ倒せない。
ユティナは、本能的にヴァレリアを“そこまでの敵”だと判断していた。
そして、その判断は間違っていなかった。
「……っ」
ゆらり、とヴァレリアがよろけるが、倒れない。
だが、その様子は確かなダメージは通っているようだった。
それだけが唯一の救いだった。
そんなヴァレリアを、ゼーグルは冷静な眼差しで見つめる。
「……大丈夫か?」
「あぁ……問題ないねぇ」
ヴァレリアは乱れた髪をかき上げる。
覗いた紫の瞳は、興奮したように瞳孔が大きく開いていた。
「一瞬、意識ぶっ飛んじまったけどなぁ……」
その口元が、ゆっくりと吊り上がる。
「あはは……いいなぁ、お前ぇ……」
「ヴァレリア……」
ゼーグルは呆れたように小さく息を吐く。
「ゼーグル〜、絶対手ぇ出すなよ?」
「……はぁ」
肩を落とし、深くため息をつくゼーグル。
「今のお前に何を言っても無駄か。……なら任せる。手早く終わらせろ」
そして、静かに続ける。
「あの聖結界を解くには、術者を殺すか、意識を落とすしかない。もしくは――」
「分かってるって」
ゼーグルの言葉を遮るように、ヴァレリアが軽く肩を鳴らす。
その表情に焦りはない。
ヴァレリアは軽く肩を鳴らしながら、ローブの下へ手を伸ばし、両腰から、二本の短剣を抜き放つ。
鈍く光る刃。
その姿に、ヴァレリアは心底楽しそうに笑う。
「ははっ……やっぱ、私はこっちの方が性に合ってるわぁ」
ヴァレリアが地を蹴った瞬間、その姿が掻き消えるようにユティナの眼前へ迫る。
二本の短剣が、獲物を裂こうと鋭く閃く。
だが、ユティナは冷静だった。
(速い……でも、捌けない攻撃じゃない)
一撃目を紙一重で躱し、続く二撃目を剣で弾く。
金属音が激しく響き、ヴァレリアの体勢が僅かに崩れた。
その隙を、ユティナは見逃さない。
鋭く踏み込み、その胴へ斬撃を叩き込もうとした瞬間、ぞわりと背筋を悪寒が駆け抜けた。
(ユティナ、後ろっ!!)
脳内へ響いたルナの叫び。
ユティナは反射的に攻撃を中断し、身体を大きく捻った。
直後、背後から飛来した短剣がユティナの頬を浅く掠めた。
「っ……!」
そして、避けた直後だった。
無防備になった脇腹へ、ヴァレリアの重い蹴りが叩き込まれる。
ユティナは反射的に腕でガードするが、衝撃を殺し切れない。
小柄な身体が大きく吹き飛ばされ、地面を滑る。
「うっ……!」
顔を歪めるユティナを見て、ヴァレリアは狂気じみた笑みを浮かべた。
「あははははっ! マジかお前ぇ!? 今のを初見で避けるとか、どんな反射神経してんだぁ!?」
叫ぶと同時に、ヴァレリアは再び距離を詰める。
「お前、普通のガキじゃねぇなぁ! こんな面白い奴と出会ったのは久々だせぇ〜!」
ヴァレリアの二本の短剣が暴風のように襲い掛かり、斬撃の軌跡が幾重にも重なった。
だがユティナは、その全てを見極め、躱し、弾き続ける。
しかし――。
(ユティナ、次は下から!)
(なっ……!?)
ルナの警告と同時に突如、地面の死角から短剣が突き上がる。
ユティナは咄嗟に上体を反らし、鼻先を掠める刃を回避した。
ヴァレリアの攻撃の最中、本来なら絶対にあり得ない角度から短剣の攻撃が来た。
(ど、どうなってるの……!?)
普通なら反応すらできない。
ルナの咄嗟の声と、魔王時代から積み重ねてきた膨大な経験と戦闘勘、その全てを総動員しながら、常識外れの連撃を紙一重で回避していた――。
それでも、防戦一方では限界が来る。
(このままじゃ駄目……! 一度距離を取らないと……!)
「おらおらおらぁっ!! どうしたぁ!! 避けてばっかりかぁ!!」
ユティナは素早く後方へ飛び退き距離を取ると、魔力を収束させる。
その眼前に赤く輝く魔法陣が展開された。
「――ファイヤーランス!!」
放たれた炎の槍が一直線にヴァレリアへ突き刺さる。
轟音と共に爆炎が炸裂し、渦巻く炎がヴァレリアの姿を飲み込んだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
肩で荒く息を吐きながら、ユティナは鋭く目を細める。
視線の先――ヴァレリア。
だが、ユティナが警戒しているのは目の前の敵そのものではない。
“死角から飛んで来る不可解な攻撃”。
それこそが、今の彼女を最も追い詰めていた。
(あの女の攻撃……)
脳裏で高速に思考を巡らせる。
(魔法……? いや、違う。いくら無詠唱魔法だとしても、あの展開速度は異常すぎる……!)
ユティナは一瞬でその可能性を切り捨てる。
(なら剣術による特殊な技術……? でも、それだけじゃ説明がつかない。あんな風に死角から攻撃を通すなんて、ただの技術でできる芸当じゃない……!)
すると、頭の奥でルナの声が静かに響いた。
(ユティナ。恐らく、あの人間は“空間”を利用して攻撃している)
(空間……? それって――)
問い返そうとした、その瞬間だった。
轟々と燃え盛る炎の中から、一つの影がゆっくりと姿を現す。
「おいおい、カギのくせに派手な魔法使うじゃねーか」
炎を掻き分けるように現れたヴァレリアは、まるで傷一つ負っていないかのように口元を吊り上げていた。
その姿に、ユティナの表情が険しくなる。
(……あれでも倒れないか……!)
確かな手応えはあったが、致命傷には程遠い。
むしろヴァレリアには、想像以上にダメージが通っていないように見えた。
(魔法への耐性……? 装備か、それとも体質……?)
警戒を強めながら思考を巡らせるユティナ。
そんなユティナを見て、ヴァレリアは獲物をいたぶる猛獣のようにニヤリと笑った。
「何だよ、私から距離を取った程度で安心してるのか?――なら、甘いなぁ……!」
その瞬間、ヴァレリアの右腕がふっと掻き消えた。
(ユティナ、右だ!)
脳裏に響いたルナの声。それと同時に、右側から鋭い殺気が奔る。
「っ――!」
ユティナは咄嗟に反応し、剣を振るった。
ギィンッ――!!
金属が激しくぶつかり合う音が響く。
「なっ……!? これって……!」
そこには、本来何も存在しないはずの空間から突き出された一本の腕があった。
まるで空間そのものを裂いて現れたかのように、その手は短剣を握っている。
ユティナがその一撃を弾くと、腕は水の中へ沈むように空間へ引き込まれ、跡形もなく消え去った。
そして次の瞬間には、ヴァレリアの右腕が何事もなかったかのように元の位置へ戻っている。
「ははははっ! ようやく気付いたかぁ? こうやって、ずっと死角から攻撃してたんだよ」
ヴァレリアは愉快そうに口角を吊り上げる。
(ルナの言っていた“空間”って……そういう事だったのね……!)
ユティナは警戒を強めながら、ヴァレリアを睨みつけた。
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