第78話 大聖女、束の間の油断
ツァリスにある聖法教会ツァリス支部――
その大聖堂の最奥には、“聖女”とごく限られた関係者のみが立ち入ることを許された部屋が存在する。
《聖結界の間》。
荘厳な石造りの空間。その中央には、幾重にも重なり合う巨大な白の魔法陣が静かに輝いていた。
それこそが、ツァリスの街を魔物から守護する《聖結界》の心臓部。
聖女たちは、この魔法陣へ聖力を注ぎ込むことで、街全体を覆う超巨大結界を展開・維持しているのだ。
淡い白光が脈打つ中、数人の聖女たちが魔法陣を囲むように祈りを捧げていた。
やがて、一人の女性が静かに口を開く。
長い青髪を揺らすその女性こそ、大聖女ブレア。
「皆さん、ご苦労様です」
穏やかな声音が響くと、聖女たちは一斉に祈りを終え、恭しくブレアへ一礼する。そして、それぞれ静かにその場を後にしていった。
その中で、一人の聖女だけがブレアのもとへ歩み寄る。
艶やかな長い黒髪を揺らし、丁寧に頭を下げた。
「大聖女ブレア様。本日はありがとうございます」
「聖女アマネ様、お疲れ様です」
ブレアもまた柔らかく微笑み返す。
聖女アマネ――
ツァリスの聖法教会に所属する聖女の中でも、特に強大な魔力と聖力を持つ存在。
そして、その場へさらに一人の人物が歩み寄ってくる。
聖法教会ツァリス支部の大司祭、ローマン。
高齢ながら背筋は真っ直ぐに伸び、柔和な雰囲気を纏う老人だった。眼鏡の奥にある穏やかな瞳には、深い知性と包み込むような優しさが宿っている。
「まさか、大聖女様自らお越しくださるとは……。それどころか、聖結界の再構築までお力添え頂ける事に、本当に感謝しております」
ローマンは深々と頭を下げる。
「本当です。ブレア様のおかげで、通常より遥かに早く再構築が完了しました。それに、一部の術式まで修正していただいたお陰で、結界強度も大きく向上しています。流石はブレア様です」
アマネも興奮を隠しきれない様子で言葉を続けた。
対するブレアは、そんな称賛にも表情を変えず、静かに微笑む。
「いえ……私は大したことはしておりません。ですが、皆さんのお役に立てたのであれば何よりです」
その姿は、まさに理想的な聖女そのものだった。
穏やかで、上品で、慎み深い。
――もし今この場にユティナがいたなら、「いつもの先生じゃない」と呆れ半分に突っ込んでいたかもしれない。
「それで……この後はどうされるのですか?」
少し興味を滲ませながら、アマネが尋ねる。
「折角ツァリスまで来ましたので、少し街を見て回ろうかと考えています」
ブレアは静かに視線を窓の外へ向けた。
「聖女として、この街を知っておく必要がありますから。それに――実際に自分の足で歩かなければ、街に潜む小さな闇は見えてきませんでしょう?」
その言葉に、アマネは目を輝かせる。
「まぁ……! そこまでお考えになられているなんて……! やはり流石は大聖女ブレア様です! もし宜しければ、私がツァリスをご案内いたしますが?」
だが、ブレアはやんわりと首を横に振った。
「いえ、お気遣いなく。アマネ様もお忙しいでしょう。それに、貴女はこの街では有名なお方です。ご一緒すれば、街中が騒ぎになってしまいます」
そう言って、少しだけ柔らかな笑みを浮かべる。
「私は、あくまで“いつものツァリス”を見てみたいのです」
「……そうですか。ブレア様がそう仰るのであれば……」
アマネは少しだけ残念そうに視線を落とした。
「それでは、私はこれで失礼します」
そう言いかけたところで、ブレアはふと思い出したように足を止める。
「あ、そうでした。最初にも申し上げましたが……私がツァリスへ来ていることは」
確認するように、アマネへ視線を向ける。
するとアマネは静かに頷いた。
「ええ、もちろん内密にしております」
そして、少し声を落として続ける。
「ブレア様がこちらへいらっしゃったことを知っているのは、聖女達とローマン大司祭のみです」
「そうですか……」
ブレアはほっとしたように息を吐く。
「重ね重ね、無理を申し上げてしまい申し訳ありません」
「いえ、どうかお気になさらないで下さい」
アマネは優しく微笑んだ。
「ブレア様のお考えは、決して迷惑なものではありませんから」
その言葉に、ブレアも小さく微笑む。
「ありがとうございます」
そして一礼すると、静かに告げた。
「では、私はこれで」
ブレアは静かに《聖結界の間》を後にした。
扉が閉まり、その気配が遠ざかっていく。
残されたアマネとローマン大司祭は、しばし感嘆したようにその扉を見つめていた。
「流石は大聖女様ですね……。常に民のことを考えておられる……。私も、もっと精進しなければ……!」
アマネは尊敬の念を隠しきれない様子で呟く。
その瞳には純粋な憧れが宿っていた。
「ふふ……。“力”だけが大聖女ではない、ということだね」
ローマンもまた、穏やかに目を細める。
圧倒的な聖力。優れた知識。そして、人々へ向ける深い慈愛。
その全てを兼ね備えているからこそ、彼女は“大聖女”なのだろう――そう感じさせられる姿だった。
そして、教会の廊下を歩くブレアの足取りは、どこか妙に速かった。
普段の落ち着き払った佇まいとは違い、僅かに浮き足立っている。
(教会への挨拶も済ませましたし、あとは街を見て回るだけですね)
平静を装った思考だが、その内心は――。
(この街は海産物が有名でしたね。確か、お酒も貿易によって様々な種類が集まるとか……)
脳裏に浮かぶのは、教会の資料で見たツァリス名物の数々。
(ハーリットさん達は、今頃殿下達と街を回っている時間でしょう。護衛も付いているようですし、街中で危険に遭うこともないはず……)
そこまで考えた瞬間。
(……ならば、この機会を逃す訳にはいきませんね)
すっ――と、ブレアの歩く速度がさらに上がる。
(早く着替えて、街へ繰り出さねば……!)
その足取りは、もはや軽やかだった。
とても先程まで、“威厳溢れる大聖女”として振る舞っていた人物とは思えないほどに。
一方、その頃――ある店の中。
「動くな!」
男の声が、張り詰めた空気の中に響く。
男の手には、鈍く光るナイフ。
その切っ先は、少女の喉元へ突きつけられていた。
「お姉ちゃん……」
怯えた声を漏らすロクサーナは、男に背後から拘束され、その華奢な身体は小さく震えている。
「っ……!」
ユティナは歯を強く噛み締めた。
迂闊に動けば、ロクサーナが危ないという事は、分かっている。
分かっているからこそ、動けない。
店内には重苦しい緊張が満ちていた。
ブレアの予想は、大きく外れていた。
街中で問題は起きないだろう、と。
護衛もいる。
そして何より、ユティナ自身の強さも理解している。
少なくとも、大事にはならないはずだった。
だが、その考えは――最悪の形で裏切られていた。
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