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落ちこぼれ聖女候補に転生した魔王は静かな隠居暮らしを目指す~今度こそブラックな人生はごめんです!~  作者: あんずのかおり


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第77話 心に刻まれた傷

不意に背後から名前を呼ばれ、ユティナは足を止める。


振り返った先にいたのは、一人の男だった。


濁ったような据わった目に、伸びっぱなしの無精髭。


赤みがかった茶髪は乱雑に伸び、着崩した服装からも荒んだ生活ぶりが滲み出ている。


どう見ても、まともな人間には見えなかった。


(……この人、どこかで……?)


次の瞬間――ズキン、と。


何かが脳裏を貫くような感覚が走った。


途切れ途切れの記憶、押し潰されるような圧迫感、そして言葉にできない“恐怖”。


ブラッシュバックした記憶に、ユティナの身体が強張る。


呼吸が浅くなり、心臓が嫌な音を立てて脈打つ。


そして震える唇から、かすれた声が漏れた。


「……ノルド……叔父、さん……?」


その瞬間、ユティナの様子が明らかに変わったことに、その場の誰もが気づいた。


空気が張り詰める。


だが、そんな周囲の変化など意にも介さず、男――ノルドは気怠そうに肩を揺らしながら近づいてくる。


「あー……やっぱユティナか」


ノルドは軽く目を細め、どこか馴れ馴れしい口調で笑った。


「なんだ、生きてたのか。しかも随分元気そうじゃねぇか」


「あ……その……」


言葉が出ず、喉がうまく動かない。


無意識のうちに、ユティナの足が一歩後ろへ下がる。


まるで本能が、“この男から離れろ”と叫んでいるかのように。


(……どうして……?)


自分でも分からない。


けれど、身体が震える。


胸の奥が締め付けられるように苦しくて、目の前の男を見るだけで恐怖が込み上げてくる。


(私……この人を……恐れてる……?)


「見ないうちにデカくなったなぁ」


ノルドは下卑た笑みを浮かべながら、品定めするようにユティナを眺め回す。


「あー……何だ。顔も母親に似てきたじゃねぇか」


その目が、ねっとりとユティナに絡みつく。


「それに、あの人買いの言う通り……いい女になってきてんじゃねーかぁ」


「――っ」


その言葉を聞いた瞬間、ユティナの肩がビクリと震えた。


胸の奥がざわつき、呼吸が乱れる。


まるで、身体そのものが“危険”を思い出したかのように。


(……身体に染み付いてるんだ……)


脳裏に蘇るのは、自分が目覚める前の“ユティナ”の記憶。


魔王アリナの記憶が戻る前、幼いユティナは、ずっとこの男――ノルドと暮らしていた。


父の弟、ユティナにとって唯一の肉親だった男。


両親を事故で失ったユティナは、行き場を失い、ノルドに引き取られた。


だが、ノルドがユティナを迎え入れた理由は、家族愛などではなかった。


兄が遺した金。


ただ、それだけだった。


ユティナのために残された金は、酒とギャンブルに消えていく。


当然、そんな男が子供をまともに育てるはずもない。


幼い少女に与えられたのは、温もりではなく、恐怖だった。


酒に酔えば機嫌一つで怒鳴られ、殴られ、怯えながら息を潜める日々。


その記憶が、この身体には今も深く刻み込まれている。


だからこそ、目の前に立たれるだけで、身体が竦み、指先が冷え、喉が締まる。


本能が“逆らうな”と叫んでくる。


(……こんな奴……)


ユティナは唇を噛み締める。


(今の私なら……どうってことないのに……!)


悔しさと苛立ちが胸の奥で渦を巻く中、そんな感情の揺らぎに、ルナが敏感に反応した。


(ユティナ……大丈夫?)


心配そうな声が、そっと頭の中に響く。


(ルナ……うん。私は大丈夫だから)


不安を悟らせまいと、ユティナは無理にでも平静を装った。


だが、ノルドはそんなユティナを品定めするような目で、全身をじろじろと眺め回す。


「つーか、お前……何でこんな所にいるんだ?」


下卑た笑みを浮かべながら、ノルドは肩を揺らした。


「人買いに売ったからよぉ、てっきり娼館でイカれた趣味の連中に可愛がられてる頃だと思ってたんだが?」


「――ッ……!」


その瞬間。


ロクサーナ、カナリー、そしてレイモンド、三人の纏う空気が一変した。


場の温度が下がり、周囲の空気が張り詰め、通行人ですら思わず足を止めるほどの圧力が広がっていく。


だが、そんな変化にも気づかず、ノルドはなおも下卑た視線をユティナへ向け続けていた。


「まぁ、その見た目じゃなぁ。ヘンタイどもの相手だけさせるのも勿体ねぇか」


ニヤつきながら、一歩、また一歩と近づいていく。


「なぁユティナ。俺と来いよ。今のお前なら、いくらでも金を――」


(この人間……!)


ユティナへ手を伸ばそうとするノルドに、ルナが露骨な嫌悪を滲ませる。


(それ以上、ユティナに近づくなら……!)


その瞬間、ユティナは感じていた。


体の奥底で、ルナの力が激しく脈打ち、今にも溢れ出そうとしていることを。


(待って、ルナ!)


その時、スッ――とユティナの前へ、レイモンドが割って入る。


「それ以上、彼女に近づかないでもらおうか」


低く静かな声だが、その声には有無を言わせぬ威圧感が宿っていた。


その鋭い視線は、真っ直ぐノルドを射抜いている。


「あぁ?」


突然立ちはだかった少年に、ノルドは眉を吊り上げる。


「何だ、このガキ――」


だが、その言葉は最後まで続かなかった。


レイモンドの瞳に宿る怒気を、真正面から受けた瞬間、ノルドの表情がわずかに引き攣る。


一方で、ロクサーナは震えるユティナの手をそっと握った。


まるで安心させるように、優しく包み込む。


「大丈夫」


ロクサーナは静かに微笑む。


「ユティナお姉ちゃんには、私がついているから」


「……ロクサーナちゃん……」


震える声で名を呼ぶユティナ。


そこへ、カナリーもまたユティナの傍へ寄り添った。


「これ以上……ユティナ様への無礼な振る舞い――」


普段は穏やかな彼女の瞳にも、はっきりと怒りが宿っている。


「到底、見過ごせるものではありません……!」


三人が、ユティナを守るように立つ。


その光景に、さすがのノルドも気圧されたように一歩後ずさった。


「な、何なんだよ……お前ら……!? ちっ……! おい、ユティナ!」


その怒鳴り声に、ユティナの肩がビクリと震えた。


「いいか!? 誰が今まで育ててやったと思ってる! お前は俺に恩があるんだ! それを忘れるなよ!」


吐き捨てるように言い放つと、ノルドは踵を返す。


「また会いに行くからな!」


その言葉だけを残し、ノルドは人混みの中へ消えていった。


姿が見えなくなった後も、ユティナの身体はしばらく強張ったままだった。


やがて、ようやく詰めていた息を吐き出す。


「……ふぅ……」


(大丈夫かい?)


ルナが優しい声で語りかける。


(うん。心配してくれてありがとう)


震える自分の手を見つめると、指先がまだ小刻みに揺れていた。


(……何も、できなかった……)


今の自分なら、力でねじ伏せることなど容易い。


それなのに身体が竦み、頭が真っ白になった。


(きっと……本当に深い傷だったんだね……)


胸の奥に残る鈍い痛みは、この身体に刻み込まれた“本来のユティナ”の恐怖。


(……あーもうっ!)


心の中で、無理やり明るく振る舞う。


(今思い返すと、何もできなかった自分に腹立つー!)


そんな風に無理やり気持ちを立て直そうとしていると――


「ユティ」


顔を上げると、そこにはレイモンドがいた。


その表情は心配そうで……同時に、痛みを堪えるような苦しげな顔をしていた。


「……大丈夫か?」


「あはは……うん、大丈夫だよ」


皆を安心させようと笑ってみせる。


けれど、その笑顔は乾いていて、誰の目にも無理をしているのは明らかだった。


「お姉ちゃん……あの人……」


不安そうにロクサーナがユティナを見上げる。


「叔父……と言っていましたが……」


カナリーも静かな声音で尋ねた。


ユティナは少しだけ視線を落とす。


「うん……昔、一緒に住んでた事があったんだ……」


ぽつりぽつりと語られる過去。


両親を失い、叔父に引き取られた事。


そこで虐待を受け、最後には人買いに売られ、孤児院へ流れ着いた事。


それは、転生する前――まだ魔王としての記憶を取り戻す以前の、ユティナの記憶。


自分自身が実際に体験した、という感覚は薄い。


まるで他人の過去を覗き見ているような、そんな曖昧な記憶。


それでも、あの時刻み込まれた恐怖と痛みだけは、今なおこの身体の奥深くに、消えない傷跡のように残っていた。


「あはは……こうして振り返ると、結構いろいろあったなー……」


重くなった空気を誤魔化すように、わざと軽い調子で笑うユティナ。


しかし、その場の空気が軽くなる事はなかった。


「……カナリー」


ロクサーナが静かに口を開く。


その声音は穏やかだったが、逆に背筋が冷えるほど怒りを含んでいた。


「はい、お嬢様」


「あの男について調べておいて。あの様子だと、何か後ろ暗い事に手を染めている可能性が高いわ」


ロクサーナは真っ直ぐ前を見据えたまま続ける。


「少しでも何か出てきたら……そこから徹底的に追い込む。お姉ちゃんにした事、絶対に報いを受けさせないと」


「えっ……ろ、ロクサーナちゃん……?」


あまりにも自然に恐ろしい事を口にするロクサーナ。


自分より一つ年下とは思えないその威圧感に、ユティナは思わず引き気味になる。


「こちらでも彼の過去を洗っておこう」


続けて口を開いたのはレイモンドだった。


「何も無かった事で済ませるつもりはない。ユティを傷つけた罪は、必ず払ってもらう」


いつもの穏やかな空気は消え、その瞳には、静かな怒りだけが宿っていた。


「れ、レイ……? なんかいつもと雰囲気違うんだけど……」


賑やかな街中で、その一角だけは、明らかに空気が違っていた。


まるで触れれば切れる刃のような緊張感が漂っていた。



裏路地を、ノルドは苛立った足取りで歩いていた。


石畳には薄汚れた水が溜まり、昼間だというのに空気は淀んでいる。


「おい、何かあったのか?」


不意に声を掛けられ、ノルドは顔を上げた。


そこにいたのは、同じように柄の悪い男だった。


下品な笑みに、濁った目、そして腰には無造作に短剣が差してある。


「少し揉めてたみてぇだったが?」


「あぁ?」


ノルドは鼻を鳴らす。


「なーに。昔育ててたガキに会っただけだよ」


その瞬間、男が吹き出した。


「ぶははははっ!!」


腹を抱えて笑う。


「お前がガキ育てる!? 寝言は寝てから言えっての!」


「うるせぇよ」


ノルドは鬱陶しそうに舌打ちするが、すぐに思い出したように口元を歪めた。


「……それより、あの貴族のガキ」


男の表情が変わる。


「いたのか?」


「あぁ。俺が昔育ててたガキと一緒だった」


「マジか」


男はニヤリと笑う。


「そりゃツイてるな」


そして踵を返す。


「おっけー。じゃあ俺はボスに伝えてくるわ。お前は気づかれねぇように、そのまま跡をつけろ」


だが、その背をノルドが呼び止めた。


「待て」


「あ?」


ノルドの目が、嫌らしく細められる。


「攫うガキ、一人追加だ」


男が眉をひそめる。


「……追加?」


「言ったろ。俺が育ててたガキだ」


ノルドは下卑た笑みを浮かべた。


「えらく“いい女”に育ってやがってな」


その目には、親族への情など一欠片もない。


あるのは欲望と金勘定だけだった。


「まだガキだが……今後、いくらでも金を落とす“金のガチョウ”になる」


それを聞いた男も、同じように口元を歪める。


「お前……ほんっとゲスだなぁ」


「はっ。今さらだろ」


ノルドは鼻で笑う。


すると男が下卑た声を漏らした。


「なぁ、そこまで言うならよぉ……最初に俺が“味見”してもいいか?」


「好きにしろ」


ノルドはあっさりと言い放つ。


「ただし、傷つけるなよ?」


口元が吊り上がる。


「大事な“金蔓”だからな」


「おっけーおっけー!」


男はニタニタと笑った。


「こりゃ楽しみだぜぇ♪」


「……はっ。この変態が」


互いに下卑た笑みを浮かべる男たち。


薄暗い路地裏に、醜悪な笑い声だけが響く。


そして悪意は、確かにユティナ達へと近づいていた。

読んで頂きありがとうございます(*´∀`)♪

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