第71話 完全再生回復魔法
「イル・アルス……ファヌラ=ユイ……」
ユティナの詠唱が、その場に静かに響く。
その言葉に呼応するように、ロクサーナの足元へ、白銀の魔法陣が浮かび上がった。
淡く、しかし確かな輝きを放ちながら、それは幾何学的な紋様を次々と編み上げていく。
まるで“世界そのもの”を書き換えるかのように。
「何なのだ……この言葉……聞いたことがない……」
「何……これは、一体……!?」
レブン公爵とシリメル夫人の声が震える。
見たことのない色の魔法陣。
耳にしたことのない言語。
目の前で起きている現象は、二人の理解を完全に超えていた。
ただ、見つめることしかできない。
それは、レイモンドも同じだった。
「こ、これが……ユティの、聖魔法……」
知っているはずの“聖魔法”とは、まるで違う。
神秘的で――
神聖で――
どこか、触れてはいけない領域に踏み込んでいるような気配すらあった。
その場にいた誰もが、息を呑み、言葉を失う。
――ただ一人を除いて。
(あれほど……ユニコーンの力を、人前で使わない様にと言っておいたのに……)
ブレアの頬が、わずかに引き攣る。
だが、もう止められない。
ここまで顕現させてしまった以上、隠すことなど不可能だ。
祈るように、ただ見守るしかなかった。
「セクト・ラーヴィ……マルス=ヴェンスト……リア=シエルカ……」
詠唱は、さらに深みを増していく。
やがて、魔法陣が完成した。
次の瞬間、無数の光の粒子が生まれ、ロクサーナの周囲を優しく包み込む。
まるで祝福するかのように。
そして――
「完全再生回復魔法」
その一言と同時に光は、一斉にロクサーナの身体へと吸い込まれた。
淡い輝きが、彼女の全身を包み――
静かに、収束していく。
やがて光が消えた時、そこにはもう魔法陣の姿はなかった。
まるで、最初から何もなかったかのように。
ただ、あまりにも現実離れした出来事の余韻だけが、その場に残る。
沈黙。
誰も、言葉を発せない。
いや――発してはいけないと、本能が告げていた。
その静寂を破ったのは、ロクサーナだった。
「あ……え……?」
ロクサーナの唇から、かすれた声が零れる。
その様子に、レブン公爵とシリメル夫人は息を呑み、すぐさま駆け寄った。
「どこか痛むのか!?」
「大丈夫なの!? 苦しいところは……!」
二人の声は、焦りに満ちていた。
だが、ロクサーナは、すぐには答えなかった。
俯いたまま、肩が小さく震えている。
やがて――ぽたり、と。
雫が地面へと落ちた。
「あぁ……ああ……私……」
嗚咽が混じる。
言葉にならない想いが、胸の奥から溢れ出していた。
そして、ゆっくりとロクサーナは顔を上げる。
震える瞳が、まっすぐに前を向いた。
その先にいるのは――
「――見えます……」
掠れた声。
けれど、確かに届く言葉。
「お父様と……お母様の顔が……見えます……!」
その瞬間。
堰を切ったように、涙が溢れ出した。
だがそれは、決して悲しみではない。
長い闇の中に閉ざされていた世界に――
今、初めて光が差し込んだのだ。
その顔には、涙とともに抑えきれない笑みが広がっていた。
「ロクサーナ……顔を、よく見せてくれ……!」
震える声で、レブン公爵は娘の頬に手を添える。
「ロクサーナ……母が……わかるのですね……?」
シリメル夫人の瞳には、今にも溢れそうな涙が滲んでいた。
――そして。
ロクサーナの視線が、ゆっくりと二人を捉える。
迷いなく、確かに。
「……お父様……お母様……」
その一言で、すべてが証明された。
「……っ!」
言葉にならない嗚咽とともに、二人はロクサーナを強く抱きしめる。
失われたはずの光が、今、確かに戻っている。
奇跡――そう呼ぶ他にない出来事だった。
その感動に満ちた空気の中で。
「よかった〜。ちゃんと見えるようになって」
ユティナのあまりにも軽い声が、場違いなほどあっさりと響く。
まるで、大したことではないと言わんばかりの調子。
その一言に、抱き合っていた三人の動きが止まる。
ゆっくりと、視線が彼女へ向けられた。
「……き、君は……一体……?」
当然だった。
奇跡の当事者であるロクサーナも、レブン夫妻も――誰一人として、この状況を理解できていない。
その一方で少し離れた場所。
レイモンドとブレアは、無言で視線を交わしていた。
(……ユニコーンの力、か)
(ええ……ですが、それにしても……)
理屈は通る。
だが到底、納得などできない失われた機能の完全な回復。
それは、常識の範疇を明らかに逸脱していた。
ユティナが成し遂げたことは――それほどまでに規格外。
そして、その中心にいる本人だけが、その異常さをまるで理解していない。
場の温度差が、際立つ。
困惑するレブン夫妻。
静かに思考を巡らせるレイモンドとブレア。
そして――
「……?」
きょとんと首を傾げるユティナ。
まるで、自分が何かおかしなことをしたのかとでも言いたげに。
その背後へ音もなく、ブレアが滑り込むように立った。
「ハーリットさぁん?」
――背後から、ドスの効いた声。
「ひぃっ!?」
ユティナの体がビクリと跳ねた。
反射的に両手で頭を押さえ、そのまま恐る恐る振り返る。
(この声……このパターン……!)
来る。
間違いなく来る。
――ブレア先生のアイアンクロー。
何としてでも頭だけは守らなければ、と全力で身構えるユティナ。
しかし、いつまで経っても、衝撃は来ない。
「……ふぅ……貴女は……」
恐る恐る顔を上げると、そこにいたのは、先程まで黒い圧を纏っていたブレア先生ではなかった。
深くため息をつき、どこか諦めたような、呆れた表情。
(あ……あれ? 来ない……?)
拍子抜けしつつも、内心ほっと胸を撫で下ろすユティナ。
とはいえ、怒られていないわけではない。
「貴女、あれほど言ったこと……ちゃんと理解しているのかしら?」
静かだが、逃げ場のない声音。
「え、えっと……その……」
ユティナの額に、じわりと冷や汗が滲み、視線は泳ぎ、言葉はしどろもどろ。
「な、なんか……ロクサーナちゃんが、可哀想で……」
「――だからといって、いきなりあんなことを……!」
ぴしゃり、と遮る声。
先程までの荘厳で神聖な空気は、もはやどこにもない。
そこにあるのは、学園で繰り広げられる、いつも通りの光景だった。
「あの少女は……一体……」
レブン公爵の呟きは、もはや誰に向けたものでもなかった。
これまで、どれほどの手を尽くしてきたか。
名だたる医師、腕利きの薬師、聖女――そして、ついには“大聖女”までもが、その力をもってしてもロクサーナの視力を取り戻すことは叶わなかった。
それを、あの少女は――あまりにも、あっさりと。
奇跡と呼ぶには、あまりに現実味がなさすぎる光景だった。
理解が追いつかず、ただ疑念と驚愕だけが胸の内に積み重なっていく。
そんなレブン公爵の様子を見て、レイモンドが静かに話を掛ける。
「これこそが、我々がここへ来た理由の一つです」
「……レイモンド殿下」
名を呼ぶ声には、先程までとは違う重みが宿っていた。
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