第70話 大聖女ブレア・セイフライド
レブンが口にしたその名――
大聖女ブレア・セイフライド。
その言葉の重みとは裏腹に、ユティナは小さく首を傾げていた。
そっと足音を忍ばせ、レイモンドの隣へと寄る。
「ねぇ、レイ……大聖女って……?」
不安と戸惑いが滲む小声。
レイモンドはそれに気づくと、わずかに口元を緩めた。
「ああ。彼女は、現代の大聖女だよ」
あまりにもあっさりとした答え。
――けれど、それが逆に理解を遠ざける。
ユティナは言葉を返せず、ただ一拍の沈黙を落とした。
「その……証拠、ってわけじゃないけど……」
レイモンドは続ける。
「彼女が纏ってる法衣、あれは大聖女にしか許されてない特別なものなんだ。……授業で習わなかったか?」
そう言われ、ユティナは慌てて記憶を辿る。
(言われてみれば……あったような……なかったような……)
曖昧な断片ばかりが浮かんでは消え、結局は確かな答えには辿り着けない。
そんな自分に、ユティナは小さく眉を寄せる。
その様子を見て、レイモンドは思わず苦笑する。
けれど、その姿が可愛らしくも映っていた。
もともとブレア先生は、学園に保健師として在籍している。
彼女が現役の聖女であることは、周知の事実だった。
そして、ブレア・セイフライドという名は、学園内にとどまらず、世界的にも“大聖女”として広く知られている。
だが、その実像を知る者はほとんどいない。
多くの人間にとってそれは、「名だけが先行した存在」に過ぎなかった。
直接その姿を見た者が、あまりにも少ないからだ。
唯一、彼女を“大聖女”たらしめる確かな証。
それが――今、ブレアが纏っている法衣。
大聖女にのみ許された特別な装束、《碧白の法衣》。
しかし皮肉なことに、普段の彼女は一般的な聖女の法衣に身を包んでいる。
そのため、学園の誰もが気づかない。
目の前にいる人物こそが、“その大聖女本人”であるなどとは。
「ブレア」という名もまた、決して珍しいものではない。
それがなおさら、真実を覆い隠していた。
――もっとも。
学園の中にも、ごくわずかではあるが、彼女の正体を知る者は存在する。
学園長。
そして、元枢機卿であるカトリット先生。
その数は、指折り数えるほどに限られていた。
とはいえ、いくら彼女が“大聖女”と呼ばれる存在であろうと、ユティナにとっては、結局のところ「おっかない先生」でしかない。
その為、実感が伴わないのも、無理はなかった。
「あ、あの……大聖女ブレア・セイフライド様……お話ししたい事が……」
おずおずと声を上げたのは、公爵夫人シリメル。
その表情には、申し訳なさと――
それでもなお、何かを決意した強さが滲んでいた。
「……なんでしょう?」
ブレアはそれを感じ取ったのだろう。
柔らかな声音のまま、しかし表情は崩さずに、静かに言葉の続きを待つ。
シリメルは一歩前に出ると、その場で静かに膝をついた。
「……っ!?」
その瞬間、場の空気が一変する。
あまりにも唐突なその行動に、周囲の者たちは息を呑んだ。驚愕と動揺が、波紋のように広がっていく。
「シ、シリメル……一体、何を……!?」
慌てて制止しようとするレブン公爵。
だが――
「お待ちください」
それを止めたのは、ブレアだった。
すっと手を差し出し、静かにレブンの動きを制する。
その仕草には、不思議なほどの説得力があった。
「……話を伺いましょう、シリメル夫人」
大聖女としての気配を纏ったその声音は、柔らかでありながら、揺るがない重みを帯びている。
シリメルは顔を伏せたまま、震える声で言葉を紡いだ。
「お話したい事は……ただ一つ……」
わずかに息を詰まらせ、それでも絞り出すように続ける。
「大聖女様のお力で……どうか……娘――ロクサーナの目を、治していただけないでしょうか……」
その一言に、込められたのは、母としての祈りにも似た切実な願いだった。
ロクサーナが、なぜ目を閉じたままでいるのか。
ここにいる多くの者は、すでに察している。
公爵家ともなれば、そうした事情は否応なく広まるものだ。
レイモンドも、ブレアもレブン公爵の娘が視力を失っていることは、既に知っていた。
そしてユティナもまた、ロクサーナの些細な仕草から、その事実に気づいていた。
「娘のロクサーナは幼少期に流行病を患い、それが原因で視力を失いました。それ以降、私達夫婦はロクサーナの目を治す為に様々治療を……薬を試しました…。そして今回も……既にカナリーより聞き及んでおられるかも知れませんが、隣町に、腕の良い医者が来たと聞き……」
シリメルは、言葉を選ぶように、ゆっくりと語り出す。
「私と主人で……診ていただきに向かったのですが……」
声は震え、かすかに途切れる。
その先を、言葉にすることすら苦しいのだと、誰もが感じていた。
「……ダメだったのですね」
静かに、ブレアが応じる。
「……はい……」
か細く、消え入りそうな肯定。
それが何を意味するのか、もはや語るまでもなかった。
二人はこれまで、あらゆる手を尽くしてきた。
腕の良い医者がいると聞けば、どれほど遠くとも足を運び、効く薬があると聞けば、可能な限り試した。
聖女にも――幾度となく、救いを求めた。
それでも結果は、変わらなかった。
積み重なるのは、癒えぬ現実だけで、希望を求めるたびに、打ち砕かれていく現実だけが――静かに、重なり続けていった。
シリメルは一度、喉の奥で息を詰まらせ、それでも言葉を絞り出すように続けた。
「今日、殿下がお越しになるため、私たちは先に戻り……娘は落ち着いてから、カナリーと共に帰らせたのですが……」
その言葉の“続き”を、ブレアが静かに引き取る。
「その帰路で、盗賊に襲われた」
短く、しかし確定的な言葉にシリメルは、ただ小さく頷いた。
他の街へ向かうということは――それだけで、危険と隣り合わせだ。
今回のように盗賊に狙われることも、決して珍しいことではない。
だが、それだけではない。
結界の外。
そこは、人の理から外れた領域――魔物が徘徊する、死と隣り合わせの世界。
一歩、外へ出れば、それだけで命は脅かされる。
ゆえに、人は兵をつけ、護衛を固めるが、それでもなお“絶対の安全”など、どこにも存在しない。
そして、その旅路はあまりにも過酷だ。
大人であっても、心身をすり減らす道のり。
ましてや子供、それも視力を失った少女であればなおさらだった。
少女にとって、見えない世界は何が起きているのかも分からないまま、ただ揺られ、運ばれ、危険の中を進まされる。
その身体にかかる負担や、心に積もり続ける恐怖と不安は、想像することすら容易ではない。
本来であればそんな場所に、連れ出したくなどなかった。
危険に晒すなど、あってはならなかった。
それでも二人は、願わずにはいられなかった。
娘に、もう一度“光”を取り戻させたい。
ただ、その一心だけで、すべてを賭けて、ここまで歩んできた。
そして今、シリメルにとって、それは最後の希望だった。
縋る先は、ただ一人、“大聖女”のみ。
「……ですから……どうか……」
震える声が、静寂の中に落ちる。
それでも、その願いは途切れない。
途切れては、いけなかった。
「娘の目を……どうか……治していただけないでしょうか……」
深く、深く頭を垂れる。
地面に触れんばかりに。
その姿には、迷いはなく、すべてを差し出す覚悟。
すべてを失ってでも、縋りたい想い。
それは、懇願ではなく母としての、祈りだった。
「シリメル……」
レブンは、その名を呼ぶことしか出来ず、それ以上の言葉が、どうしても見つからない。
喉の奥に引っかかったまま、想いだけが空回りする。
ロクサーナもまた、母の切実な願いに胸を締めつけられていた。
思わず、自分の服の裾をぎゅっと握りしめる。
嬉しい。
自分のためにここまでしてくれていることが、痛いほど伝わってくるから。
でも、その分だけ苦しませていることも分かってしまう。
どうすることもできない想いが、胸の奥で絡みつき、息すら苦しくなる。
沈黙が落ちる中で、ブレア先生は静かに目を細める。
まるで、これから告げる言葉を選びきれずにいるかのように。
そして――
「……申し訳ありません」
一度、言葉を切るわずかな“間”。
それが、かえって不安を掻き立てた。
「私に、ロクサーナさんの目を治すことはできません……」
その一言は、あまりにも残酷だった。
縋るように抱いていた希望が、音もなく――いや、確かに音を立てて、崩れ落ちていく。
「そ、そんな……」
シリメルの、かすれた声が震える。
ロクサーナは、その声を頼りに歩み出すと、視えない世界の中で、たった一つの拠り所を求めるように彷徨う手が、やがて母の体に触れた。
その瞬間、縋るように、強く抱きついた。
ブレアは、縋るような目で見上げてくるシリメルから視線を逸らさなかった。
どれほど残酷でも――真実から目を背けることは許されない。
それが、彼女のためでもあるのだから。
「……本当に、申し訳ありません」
静かに、けれどはっきりと告げる。
「ロクサーナさんの目は……すでに機能を失っています。現在の聖魔法をもってしても、その機能を取り戻すことはできません」
その言葉は、あまりにも重かった。
この世界において、肉体の損傷は決して絶望ではない。
ポーションやハイポーション、そして聖魔法によって、傷は癒え、欠損した肉体でさえ修復される。
だが、病によって失われた機能は、いかに高位の聖魔法であろうと、覆すことはできない。
ゆえに――
ロクサーナの視力は、もう戻らない。
「……お母様、もう大丈夫です」
静まり返った空気の中で、ロクサーナがそっと微笑んだ。
「ロクサーナ……」
震える声で名を呼ぶシリメル。
「私は、目が見えなくても幸せです」
その言葉に、誰もが息を呑む。
「こんなにも私のことを想ってくれるお父様とお母様がいるんですもの……それだけで、私は十分です」
あまりにも優しく、あまりにも強い言葉だった。
「ああ……ロクサーナ……っ、ごめんなさい……不甲斐ない母で……」
崩れるように涙を流すシリメル。
「もう、私のことで苦しまないでください」
その一言が、胸に突き刺さる。
レブンもシリメルも、ただ俯くことしかできなかった。
大貴族公爵という立場でありながら、たった一人の娘すら救えない。
その現実が、あまりにも重くのしかかる。
沈黙が、場を支配した。
――その時。
(ねぇ、ルナ……本当にロクサーナちゃんの目って、治らないの?)
ユティナの小さな声が、心の奥で響いた。
(……いや、あの子の目は、私の聖魔法で治せる)
その一言は、静かでありながら――確かな希望を宿していた。
(え……!? じゃっ……治せるの……!?)
思わず、心の中で声が弾む。
(ユティナが望むなら、いくらでも力を貸すよ)
ルナの優しい声が、背中をそっと押した。
――迷う理由なんて、もうなかった。
ユティナはすぐに歩き出すと、ゆっくり、けれど迷いのない足取りで、ロクサーナのもとへ。
「えっと、ロクサーナちゃん。少しだけ、いいかな?」
場の空気に似つかわしくない、どこか柔らかな声音。
その軽さが逆に、張り詰めた空気をわずかに揺らす。
「は、はい……何でしょう……?」
戸惑いを隠せないまま、ロクサーナは答える。
ユティナは何も言わず――ただ、そっと手をかざしたその瞬間。
「は、ハーリットさん!? あなた、一体何を……!」
ブレア先生の制止が飛ぶが、もう遅かった。
ユティナの唇が、静かに紡ぎ始めていた。
それは、人の言葉ではない霊獣語。
空気が震え、光が微かに揺らめいていた。
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