第64話 結局は落ちこぼれ聖女候補生
クロエとの勝負から、数日が経った。
当初、ユティナ自身も、そして周囲の者たちも――
この一件をきっかけに、ユティナに関する噂が一気に広まるのではないかと考えていた。
だが、実際のところは違っていた。
噂は、確かに存在した。
――だが、それは決して大きなうねりにはならなかった。
廊下の片隅や、教室の隅で、ひそひそと交わされる程度のもの。
「ねえ、少し前にさ……あの“落ちこぼれ”がクロエさんと勝負したって、聞いた?」
「え? それ、本当? あり得なくない? だって、勝負にならないでしょ」
「でも、その場に居合わせた人、結構いたらしいよ?」
このように、“勝負が行われた”という事実だけは、噂として広まっていた。
しかし――
肝心の勝敗については、話が変わっていた。
「その勝負……一応、“落ちこぼれ”が勝ったって話だけどさ」
「でも、それってアニヤ先生の助言のお陰なんでしょ?」
「うんうん。勝負の前に、アニヤ先生があの子と話してるの、みんな見てたって」
「なーんだ。それなら納得。けど、ちょっとズルくない?」
「でもさ、そう考えると……アニヤ先生、凄くない?」
「確かに。アドバイスしただけで、落ちこぼれをクロエさんに勝たせたんでしょ?」
――そんな具合に。
結果として語られた“物語”の中で、ユティナの勝利は彼女自身の力ではなく、アニヤの助言による偶然の産物として処理されていた。
そのため――
ユティナ・ハーリットに向けられる「落ちこぼれ」という認識は、ほとんど揺らいでいない。
変わったのは、ただ一つ。
「アニヤ先生、やっぱり凄いよね」
「教師として別格じゃない?」
そんな声と共に、“助言だけで格上に勝たせた教師”として、アニヤの評価だけが静かに、しかし確実に上がっていった。
「はぁ……」
昼食を求めて食堂へ向かう途中、ユティナの口から大きなため息が零れた。
「どうやら……そこまで大事な噂には、なっていないみたいだね」
隣を歩くアルマが、周囲の様子を確認しながら言う。
「一時はどうなることかと思いましたけれど……何とかなったようですわね」
マリアベルもまた、静かに安堵の息を吐いた。
二人にとっては、“ユティナが余計に目立たずに済んだ”それだけで、十分すぎるほどだった。
「……私は、なんだか複雑なんですけど……」
ユティナは、少し頬を膨らませて呟く。
「仕方ありませんわ」
マリアベルは、歩調を緩めずに答える。
「貴女の今の立場を考えれば……この件を大事にするわけにはいきませんもの」
「……分かってる、分かってるけどー……」
ユティナは頭の後ろで手を組み、不満を隠しきれない声を出す。
「なんか……ちょっとだけ、モヤっとする……」
理屈では納得している。
けれど、心が追いついていない――そんな表情だった。
その時。
「ユティナせんぱ〜い!」
明るく弾む声が、廊下に響く。
「……あ」
ユティナが顔を上げる。
「エドナちゃんだ」
小柄な少女が、ぱたぱたと足音を立てながら、こちらに向かって駆け寄ってきていた。
その無邪気な姿に、重たくなりかけていた空気が、少しだけ和らぐ。
「ユティナ先輩! 噂を……噂を聞かれたんですの!?」
駆け寄ってきたエドナの表情は必死そのものだった。
その奥には、怒りと同時に、不安が色濃く滲んでいる。
「あ……あー……うん。まぁ……」
ユティナは歯切れの悪い返事を返した。
するとエドナは、ぐっと距離を詰め、ユティナの顔を覗き込む。
「私は……納得いってないんですの!」
その迫力に、ユティナは思わず一歩引いた。
「あ、えーと……」
「だって! アニヤ先生から助言を貰って勝った“卑怯者”みたいに言われているんですのよ!?」
「あー……それね……」
ユティナは視線を逸らし、頭をかく。
「まぁ……助言を貰ったのは……ほ、本当だし……」
(本当は、貰ってないんだけど……でも、エドナちゃんには事情が話せないんだよね……。嘘をついてるみたいで、ちょっと罪悪感……)
「本当だとしても、おかしいじゃないですの!」
エドナは拳を握りしめて声を荒げる。
「アドバイスを貰ったからって、必ず勝てるわけじゃないんですのに!」
「まぁまぁ……ちょっと落ち着こうか」
背後から、アルマがエドナの両肩を優しく掴み、
ユティナに詰め寄る勢いのままの彼女を、そっと引き離す。
「あ、アルマ先輩……!?」
「ただの噂なんだし……放っておけばいいんじゃないかな……?」
「そ、そんな……!? アルマ先輩は、それでいいんですか!?」
「……いや、良くはないんだけど……」
アルマの言葉は、どこか歯切れが悪い。
「私……やっぱり納得できないんですの!」
エドナはアルマの手を振りほどき、声を張り上げた。
「きっと、あの勝負に負けたカーバイト先輩が噂を広めたんですのよ! 今から私、カーバイト先輩に――」
そう言って走り出そうとした、その瞬間。
「――よしなさい」
凛とした声が、場を制した。
「マリー先輩……?」
エドナが振り返る。
「クロエさんは、そのようなことをする方ではありませんわ」
静かだが、揺るぎのない断言だった。
「それに……今さら貴女が動いたところで、ここまで広がった噂を止めることはできません」
「で、ですが……」
「下手に止めようとすれば、かえって余計な尾ひれが付いて、事態が悪化する可能性もありますわよ?」
「……そ、それは……」
エドナは言葉を失う。
「“人の噂も七十五日”と申しますでしょう?」
マリアベルは穏やかに続ける。
「放っておけば……いずれ勝手に収まりますわ」
(……エドナさんには、申し訳ありませんけれど……
今回の噂は、ユティナさんにとって“好都合”。事情を話せない分、彼女の気持ちに完全に寄り添えないのは……正直、胸が痛みますわね……)
「……わ、分かりました……」
エドナは唇を噛みしめ、やがて小さく頷いた。
「先輩方が……そう言うなら……」
そして、覚悟を決めたように、真っ直ぐユティナへと向き直る。
「ユティナ先輩!」
「は、はい!」
突然の真剣な呼びかけに、ユティナは思わず背筋を伸ばした。
「みんなが何と言おうと……私は、ユティナ先輩が自分の力で勝ったってこと、ちゃんと知っていますから!」
迷いのない瞳。
その言葉に、ユティナは一瞬きょとんとし――そして、ふっと笑った。
「エドナちゃん……うん、ありがとう。私、分かってくれる人が一人でもいれば、それで十分だから」
「……先輩……」
そのやり取りを見ていたアルマとマリアベルも、自然と表情を和らげていた。
「……よし」
ユティナはぱん、と手を叩く。
「あ、そうだ! 今から食堂にお昼ごはん食べに行く途中だったんだけど、エドナちゃんも一緒に行こうよ!」
「はい、是非ですの!」
四人は並んで歩き出す。
――その時。
「……あ」
ユティナの視線が、自分達の横を通り過ぎる人物に留まった。
「あ、くーちゃん!」
「……?」
呼ばれた本人は、心当たりがないとでも言うように足を止め、首を傾げる。
ネイビーブルーの髪を揺らし、振り返ったのは――
「……ユ、ユティナ・ハーリット……!?」
クロエ・カーバイトだった。
そして、その場にいた全員の思考が一致する。
(……くーちゃん!?)
「ユティナ先輩……“くーちゃん”って……?」
エドナが小声で尋ねる。
「え?クロエだから、くーちゃんって呼んだだけだけど……?」
あっけらかんとした返答。
「……あ、貴女達……いつの間に、そんな仲に……!?」
マリアベルが目を見開く。
「ま、待ってください、マリアベル様! わ、私……そんな呼ばれ方されたの初めてですよ!?」
当然、クロエ本人も動揺していた。
「……そ、そうなの?、ユティ?」
アルマが半信半疑で尋ねる。
「あれ? そうだったっけ?」
とぼけるユティナ。
「そうですから!」
クロエが即座にツッコむ。
「まぁまぁ、細かいことはいいじゃん」
「どこが細かいのですか!?」
「まぁ、いいのではなくて? ……くーちゃん?」
さらりと追い打ちをかけるマリアベル。
「マ、マリアベル様まで何を仰っているのですか!?」
一気に場が騒がしくなる。
「――そ、それより!」
エドナが一歩前に出た。
「カーバイト先輩に、一つ言いたいことがあります!」
「……貴女は?」
「初等部三年、エドナ・シンクレアです!」
「エドナ・シンクレア……確か、学年一位の……」
「わ、私を知っているんですの!?」
「ええ、もちろん。初等部時代のシェルフィードさんに続く逸材だと、よく噂を聞きます」
「そ、そんな……! 私なんてまだまだで、アルマ先輩には全然――」
照れながら頬を染めるエドナだが、すぐに我に返った。
「……って、違いますの!そうじゃなくて!」
空気を振り払うように、ぐっと拳を握る。
「では、何でしょう?」
クロエは静かに視線を向ける。
「あの勝負で、アニヤ先生のアドバイスがあったからって……ユティナ先輩が卑怯な手で勝ったなんて、絶対に違います!」
エドナは真っ直ぐクロエを見据える。
「助言があったとしても、あの勝利は間違いなくユティナ先輩自身の力ですの! もし……もし、その変な噂を流したのが先輩だと言うなら――」
「ちょっ……!? エドナちゃん!?」
アルマが慌てて止めに入る。
だが。
「ええ、分かっています」
クロエは、静かに、しかしはっきりと言った。
「……え?」
拍子抜けしたように、エドナが瞬きをする。
「勝ったのは、ユティナ・ハーリット自身の実力です。実際に戦ったのですから……それくらい、理解しています」
クロエは眉をひそめる。
「だからこそ、今流れている噂には、不快を覚えています」
「え、えっと……先輩が流したんじゃ……?」
「……私が、ですか?」
クロエは少し呆れたように肩をすくめた。
「そんなことをして、私に何の意味があるのですか?
負けを認めた私にとって、何一つ得などありません」
「……」
「だから言いましたでしょう?」
マリアベルが静かに言う。
「クロエさんは、そういうことをする方ではありませんわ」
「……う……」
エドナは深々と頭を下げた。
「ご、ごめんなさいですの! 私……完全に勘違いしていました!」
「ふふ……お気になさらず」
クロエは柔らかな笑みを浮かべる。
「それほど怒るということは……よほど、ハーリットさんのことがお好きなのですね」
「はい! それはもう、剥製にしたいくらい!」
「剥製!? 怖っ!? エドナちゃん怖いよ!? 色々と怖いよ!?」
ユティナは慌てて自分の肩を抱き、後ずさった。
「それより!」
アルマがクロエの肩をがしっと掴む。
「クロエさんも、これからお昼だよね?」
「ええ……まぁ、そうですが……」
「じゃあ一緒に食べよ!」
「え……い、いえ……私は……」
戸惑いの色を隠せないクロエに、
「そうだよ! ね? くーちゃんも一緒に食べよ?」
ユティナが笑顔で歩み寄り、クロエの両手をぎゅっと握った。
「ちょっ……!? いきなり何を……!?」
突然の行動に驚き、クロエの頬がわずかに赤らむ。
「せっかくですもの。一緒に過ごしても、よろしいのではなくて?」
「マ、マリアベル様がそう仰るなら……」
「よし、決まり!」
ユティナはにっと笑い、クロエの手を引いた。
「ほら、行こう! お昼の時間、終わっちゃうよ!」
「ちょっ……ま、待ちなさい!」
引っ張られながら、クロエが声を上げる。
賑やかな笑い声は、昼下がりの廊下にいつまでも響き続けていた。
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