第63話 隠居生活への一歩
保健室のベッド。
白い仕切りのカーテンが静かに捲られ、クロエの視界に入ってきたのは、どこか居心地悪そうに立つユティナの姿だった。
「……ユティナ・ハーリット。貴女、どうしてここに……」
「そ、その……クロエさんに、どうしても言わないといけない事があって……」
「私に、ですか?」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、ユティナは勢いよく腰を折った。
「その……ごめんなさい!」
「――え?」
あまりに唐突な謝罪に、クロエは思わず目を見開く。
「その……顔を、思いっきり蹴っちゃって……。いくら勝負の場だったとはいえ、ちょっと……やり過ぎちゃったかなって……」
「……」
クロエは一拍置いてから、静かに息を吐いた。
「いえ。謝罪は必要ありませんわ。そもそも勝負を吹っ掛けたのは、私の方ですし……」
「でも……」
淡々と、しかしどこか柔らかくクロエは言葉を続ける。
「約束通り“金目のもの”もお渡しします。勝負は勝負ですから」
「あ……そ、それなんだけど……」
ユティナは視線を泳がせながら、慌てて首を振った。
「貰わなくても、大丈夫です……!」
「……?」
思いもよらない返答に、クロエは小さく眉をひそめる。
「いえ、そういう訳には……。渡さなければ、こちらの気が済みませんわ」
「ほ、本当に大丈夫です……!」
(アルマとマリーに、めちゃくちゃ怒られたんだよね……)
脳裏に浮かぶ、二人の険しい表情。
『貴女、まさかあんな事をしておいて、金目のものを受け取るつもりじゃないでしょうね!?』
『ユティ、今回はさすがにやり過ぎだよ!』
「そ、そういう訳には――!?」
「だ、大丈夫だから……!」
譲らぬユティナと、引くに引けないクロエ。
しばし睨み合いのような沈黙の後――
「……はぁ」
小さく息を吐き、先に折れたのはクロエだった。
「分かりました。では、その代わりと言っては何ですが……」
「……?」
ユティナが首を傾げる。
「貴女のお願いを、一つだけ聞いて差し上げましょう。もちろん、私に出来る範囲内で、ですが」
「お、お願い……?」
「ええ」
(うーん……いいのかな。でも金目のものを断るんだし……これくらいなら、二人も怒らないよね?)
少し考え込んだ後、ユティナはおずおずと口を開く。
「えっと……じゃあ……魔道具を作ってくれたら、助かるかな……と」
「……魔道具?」
意外そうに、クロエが眉をわずかに上げる。
「う、うん。クロエさんって、魔工士なんだよね?」
「ええ、そうですが……」
促すような視線。
ユティナは少し恥ずかしそうに視線を落としながら、続けた。
「私……将来、一人暮らしをしようと思ってて……。それで、その……一人で生活するのに必要な魔道具を、作って欲しいなって……」
促すような視線。
ユティナは少し恥ずかしそうに視線を落としながら、続けた。
「……ダメ、かな?」
そのあまりに拍子抜けするお願いに、クロエは目を瞬かせた。
「……構いませんが……」
少し考え、言葉を選ぶ。
「それを叶えるとなると、今ではなく……随分先の話になると思いますけれど。それでも、良いのですか?」
「うん。全然大丈夫」
迷いのない返事だった。
「……分かりました」
クロエは小さく頷く。
「将来、貴女が一人暮らしを始めるその時には――必ず、必要な生活用魔道具を揃えて差し上げましょう」
「……うん! ありがとう!」
ぱっと花が咲いたようなユティナの笑顔に、クロエも思わず、つられるように微笑んでいた。
「いえ……お礼を言うのは、私の方ですわ」
「……え?」
(貴女のお陰で……私が、本当に大切にすべきものに気付けたのですから……)
胸の内にそう呟きながら。
「本当に……ありがとうございます」
「え、えー……?」
ユティナは、要領を得ないといった顔をしていた。
こうしてクロエとの勝負にまつわる問題は無事に収束し、思いがけない形で、ユティナの将来の隠居生活に向けた準備が、ひとつ静かに進んだのだった。
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