第60話 マリアベルとクロエの出会い
ヴォルディス帝国、帝都アヴァンツァ。
その貴族街の一角に、ランカスター公爵家の壮麗な屋敷は静かに佇んでいた。
屋敷の正門前に一台の馬車が止まる。
御者が扉を開くと、まず降り立ったのはネイビーブルーの髪を整えた、穏やかな雰囲気を纏う壮年の男性だった。
続いて、その手を取るようにして、同じ色の長い髪を持ち、青いドレスに身を包んだ幼い少女が姿を現す。
その様子を見計らったかのように、門の内側から一人の男性が歩み出る。
白髪混じりの髪に、物腰柔らかな眼差し――この屋敷の執事であろう人物だった。
「ようこそお越しくださいました、カーバイト伯爵」
丁寧に一礼する執事に、伯爵は軽く笑みを浮かべて応じる。
「これはご丁寧に。わざわざお出迎えいただき、ありがとうございます」
「いえ、こちらからお招きした身ですので。……おや、本日はお一人ではないのですね」
執事の視線が、伯爵の傍らに立つ少女へと向けられる。
「ええ。どうしても娘が同行したいと言いまして……。ほら、クロエ。ご挨拶を」
「は、はい……」
少女は少し緊張した様子でスカートの裾を両手で摘み、ぺこりと頭を下げる。
「クロエ・カーバイトと申します」
「これはご丁寧に。確か……マリアベル様と同じご年齢でしたかな」
「ええ。今年で六歳になります」
「そうでしたか」
執事は優しく目を細める。
その後、伯爵は少女に向き直り、穏やかながらも言い聞かせるように告げた。
「クロエ、これから私は旦那様とお話がある。お前は馬車で待っていなさい」
「え……でも……」
クロエは言葉を詰まらせ、少しだけ寂しそうな表情を浮かべる。
その様子を見て、執事が一歩前に出た。
「クロエ様。よろしければ、お嬢様にお会いになりませんか?」
「……え? お嬢様と?」
「はい。マリアベル様も、クロエ様と同じ年でいらっしゃいます。きっと、お話も弾むことでしょう」
しかし伯爵は即座に首を横に振る。
「いえ、それには及びません。万が一、娘が粗相をしてはなりませんから」
「ご心配には及びませんよ」
執事は微笑みを崩さず、穏やかに続ける。
「お嬢様は少々のことでは人を咎めるような方ではありません。それに……マリアベル様は普段、少々お寂しい思いをされております。きっと、クロエ様がいらっしゃればお喜びになるでしょう」
そう言われ、クロエは一瞬だけ父を見上げ、ためらいがちに口を開く。
「……あの……私、会ってみたいです……」
「クロエ!?」
伯爵が驚いた声を上げるが、執事は穏やかに頷いた。
「どうぞご安心ください。責任を持ってお預かりいたします」
執事がカーバイト伯爵をランカスター侯爵の執務室へ案内した後、クロエは別行動となった。
彼女を連れて歩く執事の足取りは穏やかで、長い廊下を抜け、いくつかの扉を越えた先に辿り着いたのは――屋敷の一角に設けられた庭だった。
そこには特別な装飾があるわけでもなく、広々とした芝生が一面に敷き詰められているだけ。噴水も花壇もない、ごくありふれた庭に見える。
「あ、あの……ここは……?」
クロエは戸惑いを隠せず、執事を見上げて問いかけた。
「こちらは、この屋敷の裏庭でございます」
執事は穏やかに答え、庭の奥へと視線を向ける。
「普段は、マリアベルお嬢様が魔法や弓術の訓練に用いられている場所でして」
その言葉に、クロエははっとして同じ方向を見る。
そこには、一人の少女がいた。
白いブラウスに、深紅のロングスカート。
金色の縦巻きの髪が陽光を受けて揺れる。
装いは簡素ながらも、どこか気品が漂っている。
少女は庭の中央に立ち、真剣な眼差しで両手を前へと翳していた。
小さな唇が、澱みなく言葉を紡ぐ。
――詠唱だ。
「ファイヤーボール!」
次の瞬間、少女の掌から生まれた火の球が、一直線に放たれる。
空気を震わせながら飛んだ炎は、庭の端に設置された的へと見事に命中し、乾いた音と共に火花を散らした。
「……っ」
クロエは思わず息を呑んだ。
目の前で起きた光景が、まるで夢のように感じられたのだ。
「す……すごい……」
思わず零れた声は、震えていた。
「わ、私と同じ歳なのに……もう魔法が使えるなんて……!」
驚きと羨望、そして純粋な尊敬。
そのすべてを込めた眼差しを、クロエは少女へと向ける。
すると、その視線に気づいたのか、少女はふっとこちらを振り返った。
的を見据えていた鋭さは和らぎ、不思議そうな表情でクロエたちを見る。
やがて、少女は芝生を踏みしめながら、ゆっくりと近づいてきた。
「ハリー、その方は……?」
凛とした、年齢にそぐわぬほど落ち着いた声。
クロエは思わず背筋を伸ばし、少したじろぐ。
「実は、マリアベルお嬢様にご紹介したい方がいらっしゃいまして」
そう言って、執事――ハリーは一歩下がり、丁寧に手を差し出す。
「カーバイト伯爵のご息女であらせられます、クロエお嬢様でございます」
突然の紹介に、クロエは一瞬戸惑いながらも、教えられた通りにスカートの裾を両手で摘み、精一杯の礼を取った。
「あ……マリアベル様にご挨拶を申し上げます……
クロエ・カーバイトと申します……」
小さな声ながらも、そこには必死さと誠実さが滲んでいる。
「これは、ご丁寧なご挨拶を」
マリアベルは静かに微笑み、背筋を正して応じた。
「マリアベル・ランカスターですわ」
簡潔で淀みのない自己紹介。
その立ち姿には、幼さよりも先に“公爵家の令嬢”としての品格が感じられた。
そしてマリアベルは、すぐにハリーへと視線を向ける。
「それで、ハリー。どうしてクロエ嬢をこちらへ?」
「はい。実は、カーバイト伯爵と旦那様がお話をされている間、クロエ様をお茶にお誘いしようかと存じまして」
どこまでも穏やかな口調で、ハリーは続ける。
「せっかくですので、マリアベルお嬢様にもご一緒いただければと」
その説明を聞きながら、クロエは「え? そうなの……?」と言いたげに、きょとんと目を瞬かせていた。
「そうなのですか」
マリアベルは一瞬考えるように間を置き、そして小さく頷く。
「では、これも良い機会ですわ。そのお招き、お受けいたします」
「かしこまりました。では中庭にて、すぐに準備を整えさせていただきます」
「ええ。私は一度、自室へ戻って着替えて参りますわ」
「承知いたしました」
ハリーは深々と頭を下げる。
やがて、マリアベルは控えていた数名のメイドを伴い、静かな足取りでその場を後にした。
そして残されたのは、執事のハリーとクロエの二人だけだった。
「あ、あの……」
クロエは小さく声を漏らしたものの、その先の言葉が続かなかった。
――会ってみたい。
確かに、そう言ったのは自分だ。
けれどそれは、ほんの軽い挨拶と少し会話をする程度のつもりだった。
まさか「お茶会」という形で、しかもランカスター公爵家の令嬢と席を共にすることになるとは、夢にも思っていなかったのだ。
貴族にとってのお茶会――それは、たとえ子供同士であっても立派な社交の場。
振る舞い一つ、言葉遣い一つで家の評価にまで影響しかねない。
(む、無理……)
クロエは喉の奥がきゅっと締め付けられるのを感じた。
一人娘として育ち、同年代の子と接する機会も少なかった彼女は、人と話すこと自体が得意ではない。
まして相手は自分よりも身分の高い公爵家の令嬢――それも、先ほど魔法を易々と使いこなしていた相手だ。
幼いながらに理解してしまう“格の違い”が、胃のあたりをじくじくと痛ませる。
「それでは、クロエ様。こちらへどうぞ。ご案内いたします」
穏やかな声でハリーが促す。
「は、はいぃ……」
か細い返事を返しながら、クロエは結局断ることもできず、執事の後ろをとぼとぼとついて歩き出した。
(うぅ……こんなことになるなら……)
視線を落とし、胸の前で小さく手を握りしめる。
(大人しく家で、魔道具を作っていればよかったぁ……)
心の中でそう後悔しながらも、今さら引き返すことはできない。
クロエの足取りは、年相応の小さな不安と緊張を抱え込み、ひどく重たくなっていた。
中庭へと続く廊下を歩きながら、ハリーがふと思い出したように口を開いた。
「クロエ様。マリアベルお嬢様に、姉君様がおられるのはご存知でございますか?」
「あ……は、はい……。父から、少しだけですが伺っています」
緊張した面持ちのまま答えるクロエに、ハリーは歩調を合わせながら穏やかに続けた。
「マリアベルお嬢様の姉君、ヴィクトリア様は非常にご優秀な方でして。今年より、レディア聖王国にございます《レディア聖院女学園》へ通われております」
その名を耳にした瞬間、クロエの足がわずかに止まりかけた。
「え……? あ、あの……聖女を目指す方々が入学される、あの名門校ですか……?」
思わず問い返してしまうほど、その名は特別だった。
「はい。今春より、正式に入学されております」
レディア聖院女学園。
帝国内においても知らぬ者はいない、唯一“聖女”を育成するための教育機関。
この世界において、聖女の力は不可欠なものだ。
瘴気を祓い、魔物を鎮め、人々を守る存在――その候補生が集う学園は、国を越えて崇敬されている。
同時にそれは、貴族社会においても極めて狭き門だった。
貴族でも魔力、才能、そして信仰心――そのすべてを兼ね備えた者。さらにその中から選び抜かれたごく一部の者だけが、足を踏み入れることを許される場所である。
(レディア聖院女学園かぁ……)
クロエは胸の内で、ぽつりと呟く。
(私には……きっと、関係のない場所だなぁ……)
憧れや羨望よりも先に浮かんだのは、そんな実感だった。
聖女という存在は、どこか遠い世界の話で――魔道具をいじっている時間の方が、彼女にとってはずっと身近で大切だったのだ。
小さく息を吐き、クロエは再びハリーの後ろを歩く。
「旦那様や奥様だけでなく、この屋敷に仕える者すべてが、その知らせを心から喜びました」
静かな廊下に、ハリーの穏やかな声が響く。
「それは――マリアベル様も、同じでございます」
「……はぁ……」
クロエは思わず、短く息を吐いた。
「そして……ヴィクトリア様に並ぶべく、マリアベルお嬢様は必死に訓練を続けておられます」
歩みを進めながら、ハリーは言葉を選ぶように続ける。
「ですが、この屋敷にいる者は皆、旦那様や奥様を含め、どうしてもヴィクトリア様の背を追ってしまう。マリアベルお嬢様の努力に、目を向ける者はほとんどおりません」
「……そう、なんですか……」
クロエは小さく呟いた。
次女とはいえ、公爵家の令嬢。
きっと何不自由なく、愛されて育っている――そう思い込んでいた。
だが、裏庭で見たあの光景が脳裏に浮かぶ。
同年代とは思えないほど洗練された魔法。
それでも、誰にも見てもらえない努力。
(……そんなの、悲しすぎる……)
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
「それでもお嬢様は、諦めておられません」
ハリーの声には、微かな熱が滲んでいた。
「いつかヴィクトリア様に追いつくため――毎日欠かさず、訓練に励んでおられます」
「……」
「ですから……」
ハリーは一度言葉を切り、足を止めてクロエへと視線を向ける。
「少しでも、お嬢様の心が休まる時間を持てればと思い……クロエ様をご紹介したいと考えました」
深く、申し訳なさそうに頭を下げる。
「一介の執事が、このような差し出がましい真似をすること、心よりお詫び申し上げます。ですが……もしクロエ様さえよろしければ」
顔を上げ、真っ直ぐに告げた。
「マリアベルお嬢様の、ご友人になっていただきたいのです」
「あ……えっと……私は……」
突然の願いに、クロエは言葉を失った。
返事を探して口を開きかけた、その時――
「……こちらでございます」
ハリーは振り向き、扉を押し開く。
「あ……」
思わず、声が漏れた。
そこは中庭だった。
中央には澄んだ水を湛える噴水があり、その周囲を取り囲むように色とりどりの花壇が広がっている。
丁寧に手入れされた花々が柔らかな香りを漂わせ、訪れる者の心を自然と解きほぐす空間だった。
その景色を一望できる位置には、屋根付きの休憩スペースが設けられている。
豪奢ながらも落ち着いた意匠の椅子とテーブルが並び、そこにはすでに色鮮やかな焼き菓子やケーキが、メイドたちの手によって美しく盛り付けられていた。
まるで、この時間そのものが、マリアベルのために用意されたかのように。
クロエは、その光景を前に立ち尽くす。
胸の中で、先ほどまでの不安とは違う、静かな決意が芽生え始めていた。
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