第52話 動き出す思惑
レディア聖院女学園――園長室。
室内の奥、重厚な机の向こうに、一人の老女が静かに腰掛けていた。
白い修道服に身を包むその人物こそ、この学園の頂点に立つ存在――
学園長、メリッサ・ラットウィン。
彼女は両手を組み、肘を机に預けたまま、微動だにせず前方を見据えている。
その佇まいは、ただ座しているだけで場を支配していた。
室内には、他に三人。
ブレア先生とレイモンド・フォン・セルフォルト・レディアは、学園長の傍らに控えるように立ち、そしてカトリット先生は、机を挟んで正面に立っていた。
自然と生まれる構図――それは、そのまま立場の差を物語っている。
張り詰めた沈黙が、部屋を満たしていた。
やがて――
沈思していたカトリットが、ゆっくりと口を開く。
「……そうですか。何故殿下がここに居られるか分かりました」
一拍、間を置く。
「それにしても……驚きました」
カトリットは、わずかに視線を落としながら言葉を選ぶ。
「まさか、殿下がハーリットさんと面識をお持ちだったとは……。それに――あの“力”のことまで……」
一瞬の逡巡。
「……その件は、彼女からお聞きになったのですか?」
声音は穏やかだが、その奥には明確な戸惑いと警戒が滲んでいた。
本来であれば、あの力は決して外に漏れてはならないものだった。
カトリット自身、ユティナには固く口止めをしていたはずだ。
それが――よりにもよって、皇子の耳に入っている。
(……最悪の形では、ない……ですが……)
胸中で静かに息をつく。
ユニコーンの力。
それが国家にとってどのような意味を持つか――想像するのは難しくない。
扱いを誤れば、政治にも、権力にも、いくらでも利用され得る。
だからこそ、知られる相手は選ばなければならなかった。
だが――
(レイモンド殿下ならば……)
民に寄り添い、誠実であると評される人物。
その評判が、わずかな救いとなっていた。
少なくとも、最悪の事態ではない――そう信じるしかない。
やがて、レイモンドが柔らかく微笑む。
「ええ。彼女とは友人なのです」
穏やかな声音で、しかしはっきりと続ける。
「よくこの学園に立ち寄る際、話し相手になってもらっています。その折に――少しばかり、不可抗力で耳にしてしまいまして」
そして、ほんのわずかに表情を和らげる。
「ですから……どうか、彼女を責めないであげていただけますか?」
「……は、はぁ……」
気圧されるように、カトリットは小さく頷いた。
その事実を聞き、ブレアとカトリット、二人の表情が揃って揺れた。
レイモンドが、お忍びでこの学園を訪れている――
その噂自体は、以前から教師の間で囁かれていた。
だが、それが事実だったこと。
そして何より、その目的が、視察ではなく“ユティナに会うため”であったこと。
その意味を、二人が理解できないはずがなかった。
カトリットは目を見開き言葉を失い、一方でブレア先生は、口元にわずかな笑みを浮かべていた。
(……なるほど、そういうことですか)
楽しむように、どこか納得したように。
同じ驚きでも、その色はまるで違っていた。
だが今日、レイモンドがここにいる理由は、それとは別にある。
ユティナの持つ“ユニコーンの力”。
それについての問題だ。
その力の存在は、現在ごく限られた者にしか知られていない。
あまりにも大きすぎる力ゆえに、無用な混乱と争いを避けるため、徹底して秘密にされてきた。
しかし、それも永遠ではない。
いずれ、必ず知れ渡ると、カトリット先生は確信していた。
どれほど隠そうとも、力は人の目を引く。
そして一度露見すれば、その影響は計り知れない。
だからこそ、「今」のうちに備えなければならない。
知られてしまった“その時”に、どう動くのかを。
そして、それを話し合うために、レイモンドはここにいる。
張り詰めた空気の中、静かに、しかし確かな威圧を伴って、声が落ちた。
「さて……皆さん」
メリッサ学園長だった。
「事情は共有できたようですね。……では、話を進めましょうか」
その一言で、場の空気がわずかに引き締まる。
ここからが、本題だった。
「皆さんも認識の通り……」
静かに口を開いたのは、メリッサ学園長だった。
「我が学園に在籍するハーリットさん。彼女の持つ“ユニコーンの力”は……世界の均衡すら揺るがしかねないものです」
その声音は穏やかでありながら、言葉の一つ一つが重く沈む。
「もし、その力が……よからぬ者の手に渡ったとすれば……」
あえて最後まで言い切らない。
だが、その先にある未来は、ここにいる誰もが容易に想像できた。
室内に、重苦しい沈黙が落ちる。
誰もが、その可能性を否定できないまま――。
やがて、メリッサは視線をわずかに動かした。
「そして現在、聖王国にて――ある組織の存在が確認されています」
「ある……組織……?」
不穏な響きに、カトリットが思わず問い返す。
その問いに応えたのは、レイモンドだった。
「――“嘆くモノ”です」
その名が告げられた瞬間。
カトリットとブレア、二人の表情が明確に強張った。
「……それは、本当なのですか……!?」
カトリットの声には、隠しきれない動揺が滲む。
一方でブレア先生は、わずかに目を細めた。
「もし事実であれば……少々どころではなく、厄介ですね」
低く、冷静な声だが、その奥には警戒が宿っている。
「やはり、お二人ともご存知でしたか」
レイモンドは静かに頷いた。
「“嘆くモノ”――各国の裏で暗躍する、正体不明の集団です」
淡々とした口調で、しかしその内容は重い。
「メンバーの詳細は不明。しかし、確認されているだけでも全員が高い魔力を有しており……各地で破壊活動を繰り返しています」
室内の空気が、さらに冷え込む。
「個々の戦闘能力は、冒険者基準で最低でもBランク以上」
視線がわずかに揺れる。
「中にはAランク相当の者も存在します。魔力量に関しては……それと同等、あるいは凌駕する可能性もある」
その一言に、カトリットは記憶を探り、該当する組織の情報を手繰り寄せる。
「……確か、その首魁については……」
確かめるように問いかけると、レイモンドはゆっくりと頷いた。
「はい、未だ確認されていません。ですが……」
一瞬の間。
「その集団を統率している以上、Sランク相当の実力を有している可能性が高い、と各国は見ています」
沈黙。
それはもはや、“脅威”という言葉だけでは足りない存在だった。
「……だからこそ」
再び、メリッサが口を開く。
「我々は、この問題を軽視するわけにはいかないのです」
その言葉は、決定事項のように重く響いた。
「“嘆くモノ“……確かに、あの集団にハーリットさんの存在が知られれば……その力が善き形で使われることはないでしょう」
ブレア先生は静かに言葉を紡ぎながら、レイモンドへと視線を向ける。
「ですが――」
わずかに目を細める。
「殿下が本当に危険視されているのは……それだけではないのでは?」
探るような声音。
その問いは、核心を射抜いていた。
「……その通りです」
レイモンドは、迷いなく答える。
だが、その声音は先ほどまでよりも、わずかに低い。
「“嘆くモノ”を警戒するのは当然のこと。ですが――今、最も警戒すべき相手は」
空気が、張り詰める。
「……兄、リシャールです」
その名が落ちた瞬間、ピクリとカトリットとブレア先生の身体がわずかに強張った。
――リシャール・フォン・セルフォルト・レディア。
王位継承権を持つ第一皇子。
このまま何事もなければ、次代の聖王となる人物。
その名が意味するものを、二人が理解していないはずがなかった。
「……殿下、それは……」
カトリットが思わず言葉を詰まらせる。
それは、単なる警戒の範疇を超えている。
“王族内部への疑念”。
それを、この場で口にしたということは――
ブレアは、わずかに息を吐いた。
(……これは、想像以上に深い話ですね)
軽口を挟む余地は、もうなかった。
「ここ最近――」
レイモンドが、ゆっくりと口を開いた。
「父上……いえ、聖王陛下が体調を崩されて以降、王位継承を巡る動きが……水面下から、徐々に表へと現れ始めています」
言葉を選ぶように、一つひとつ丁寧に紡ぐ。
「そして、それと時を同じくして――聖王国国内で確認された“嘆くモノ”の動き」
わずかに視線を落とす。
「これらが、無関係とは……私には思えません」
室内の空気が、さらに重く沈む。
王位継承問題と、裏で暗躍する危険な組織。
その二つが結びつくとすれば、導き出される答えは、あまりにも危険だった。
「……つまり」
ブレア先生が、低く呟く。
「王家が――“嘆くモノ”に関与している、と?」
その言葉は、まるで刃のように鋭く場を切り裂いた。
一瞬の静寂。
レイモンドは、否定しない。
ただ、ゆっくりと無言で頷くその仕草が、何より雄弁だった。
「……正確には」
やがて、静かに続ける。
「王家そのものではなく――兄、リシャール個人が関わっている可能性が高いと見ています」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
それは、単なる疑惑ではない。
もし事実であれば、国家の中枢が、崩れかねない問題だった。
聖王国には、三人の皇子が存在する。
第一皇子リシャール。
第二皇子レイモンド。
そして、年の離れた第三皇子エルハルト。
このうち、リシャールとエルハルトは正妃と第二妃の子。
対してレイモンドは、妾腹の子であった。
ゆえに、王位継承権は有しているものの、その順位は最も低い。
そして現在、王位に最も近い人物は、言うまでもなく第一皇子リシャールである。
だが、もう一人、無視できない存在がいる。
第三皇子エルハルト。
幼いながらも王位継承権第二位に位置する正統な後継者だ。
まだ十歳にも満たぬ身でありながら、彼を次代の聖王へと推す貴族は少なくない。
その理由は明白だった。
――操りやすいからだ。
エルハルトを擁立することで、国政を自らの思惑のままに動かす。
そんな思惑が、彼を取り巻く貴族たちの間で渦巻いているのは、もはや隠しようもない事実だった。
こうして、王位継承争いは、リシャールとエルハルト――この二人の皇子を軸に、水面下で激しく火花を散らしていた。
そして、リシャールの狙いは、また別のところにあった。
「兄上は……すでに動き始めています」
レイモンドの声は低く、抑えられていた。
「聖王陛下の体調が崩れたことを契機に、支持する貴族たちと共に……王権の移行を早めようとしている」
静かだが、その言葉には確かな危機感が滲んでいた。
「その目的は――“聖女の独占”です」
その一言に、空気が変わる。
聖王国は、世界で唯一の聖女養成機関を保有する国家。
その存在自体が、国の影響力と権威を支えている。
ゆえに、聖女を“独占”するということは、そのまま世界への支配力を握ることに等しい。
だが、現実はそう単純ではない。
「本来、聖女は各国、そして聖法教会の支援のもとで成り立つ“共有財産”のようなもの……」
ブレア先生が、補足するように呟く。
「それを……独占する、ということは……」
「はい」
レイモンドが静かに頷く。
「他国が黙っているはずがない。……戦争に発展する可能性は極めて高いでしょう」
重苦しい沈黙。
それは“可能性”ではなく、ほぼ“確定未来”に近い響きを持っていた。
だが――
「それでも、兄上は踏み切ろうとしている」
その事実こそが、何よりも異質だった。
「……勝算がある、ということですか」
カトリット先生の声は、わずかに掠れていた。
「ええ」
レイモンドは迷いなく答える。
「何らかの“算段”があるはずです。でなければ、ここまで強硬には出ない」
そして一瞬、言葉を切る。
「……そして、その裏にいる可能性があるのが」
視線が、わずかに鋭くなる。
「“嘆くモノ”です」
その名が、再び重く落ちた。
王位継承争い。
聖女の独占。
そして、裏で蠢く謎の組織。
それらすべてが一本の線で、繋がり始めていた。
やがて、張り詰めた空気を切り裂くように、メリッサ学園長が静かに口を開いた。
「……特に、この学園は聖国王家との結びつきが深い」
その声音は穏やかでありながら、逃げ場を許さない現実を突きつける。
「故に、ハーリットさんの力が明るみに出るのは、もはや時間の問題でしょう」
誰も否定できなかった。
聖女の独占すら厭わぬリシャールであれば――
その異質な力を見逃すはずがない。
いや、“必ず”手に入れようとする。
重く、息苦しいほどの静寂。
その中で――
「……何としてでも」
メリッサの指が、静かに組まれる。
「彼女は、守らなければなりません」
その言葉は、宣言だった。
学園としての意思。
そして、ここにいる全員に課せられた責務。
誰も、異を唱えなかった。
ただ静かに、その重みを受け止める。
それが、答えだった。
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