第51話 続! 私、貴女の後ろに居るの
白いカーテン越しに、放課後の沈みゆく陽光が淡く差し込む保健室。
薄橙の光がベッドの端や棚を静かに照らし出し、どこか現実と夢のあいだのような、穏やかで満ち足りた静寂が漂っていた。
そんな静かな空気の中で——
「……う……ん……?」
エドナ・シンクレアのまつげがピクリと揺れ、ゆっくりと目が開いた。
「ここは……?」
「保健室だよ」
すぐそばから声が返ってくる。
「……保健室……?」
「うん。でも良かった〜。いきなり泡吹いて倒れちゃったから、すっごいびっくりしたんだよ?」
「あ……! そ、そうでした……わ、私……」
エドナの脳裏に“あの悪夢”が蘇る。そして、ガバッと身を起こすエドナ。
「えっと…貴女が運んで……くださったのですね。ありがとうござ——」
と、礼を言おうと顔を上げた瞬間。
視界に入った“見てはいけないもの”。
ソディナ様R-EXプロトタイプ——赤い目を光らせた不気味ロボット。
「いやああああぁぁぁぁっ!!」
エドナの顔から血の気が引き、意識がまた飛びかける。
「いい加減にしなさいっ!!」
バシィィッ!!
「あいたっ!」
R-EXを抱えていたユティナの頭に、マリアベルの平手が炸裂。
ロボットはゴロゴロと床を転がった。
「あぁぁっ! 私のソディナ様R-EXがぁぁ!」
ユティナは慌てて拾い上げる。
「はっ……はっ……!」
エドナは肩で息をしながら周囲を見る。
そして——
「ご、ごめんね! 私の友達が、その……」
と、柔らかい声をかけてきた少女に視線が吸い寄せられた。
栗色のボブヘアーの美少女、澄んだ琥珀色の瞳。
それは、エドナが“神聖視”していた存在。
(シ、シェルフィード先輩…… !? な、なんで先輩が保健室にいるの…… !? うそ……近い……近すぎる……っ! あああ、こんな距離で拝めるなんて……眼福…… !!)
呼吸が別の意味で荒くなっていく。
すると隣からもう一人。
「本当に申し訳ありませんわ。私の連れがとんだご迷惑を……」
縦巻き金髪の美少女、マリアベル=ランカスター。
(ラ、ランカスター先輩まで!? うそ……美少女二人に囲まれてる……これ死ぬのでは? いや、もう死んでもいいかも私……!)
「だ、大丈夫? なんかボーッとしてるけど……」
アルマが心配そうに身を乗り出す。
「はっ!? はいっ! だ、大丈夫ですぅ!」
勢いよく返すエドナ。
しかし——
「貴女、鼻血出ていますわよ?」
「えっ!?」
「あ、本当だ!? わっ、いっぱい……!」
アルマが慌ててティッシュを差し出す。
「す、すみません……っ!」
エドナは真っ赤になりながら鼻を押さえた。
そして極めつけに。
「ユティもちゃんと謝らないと」
「う、うん……あの……ごめんね……?」
ソディナ様R-EXをぎゅっと抱きしめ、上目遣いで不安そうに謝るユティナ。
その瞬間——
ブシャァァァァッッッ!!!
エドナの鼻から、噴水の如き鼻血が噴き上がった。
「ひゃあああっ!? だ、大丈夫!?」
「ちょっと、貴女!?」
「わわわっ!? ちょっ、大丈夫!?」
しかし当のエドナは——
(な……なんなのこの破壊力……ッ! 今まで“落ちこぼれ”としてしか見てなかったから分からなかった……
ユティナ先輩……こんなに……可愛い……? いや、めっちゃ美少女じゃないですの!? しかも、落ちこぼれ × 美少女……? この……このギャップ……萌え……ッ!
今、私の中で……新しいジャンルが……生まれましたの……!)
ベッドの上で震えながら、なぜかユティナを見る目がキラッキラに変わっていく。
エドナの鼻血噴水事件で保健室が騒然としている、その最中。
バサッ!!
勢いよくカーテンが開かれた。
「——貴女達! 静かにしなさいっ! ここは保健室なのですよ!?」
普段は温厚で物腰柔らかなブレア先生が、珍しく眉間にシワを寄せて怒鳴っていた。
「す、すみませんでした……!」
アルマ、マリアベル、ユティナ、そしてエドナまでもが
慌ててそろって頭を下げる。
そんな中、ブレア先生の視線がベッドの上のエドナに移る。
「あら? シンクレアさん、気がついたんですね。……って鼻血?」
「だ、大丈夫ですっ! もう止まりましたから!」
エドナは耳まで真っ赤にしながら、鼻を押さえて元気アピール。
「そうですか。……では、貴女達、もうお帰りなさい。外も暗くなってきていますから」
ブレア先生は大きくため息をつきながら、机に戻っていった。
「は、はい……」
場の空気が一気にしぼみ、ユティナたちはそっと出口の方を向く。
「じゃ、行こっか……?」
「ええ……」
アルマとマリアベルが帰る準備をする横で、エドナがそわそわと上体を起こす。
「えっと……君、初等部の子だよね?」
ユティナが優しく声をかけると——
「あっ……はいっ! わ、私はエドナ・シンクレアと言いますっ!」
まるで自己紹介オーディションのように背筋を伸ばすエドナ。
「私はユティナ・ハーリット。よろしくね」
ユティナは傍らのベッドにソディナ様R-EXをポンと置き、にこっと笑いながら手を差し出した。
その瞬間、エドナの視界はきらめいた。
(ほ……本当に……お美しい……。これが、ハーリット先輩の……素の笑顔……っ! 落ちこぼれ? いいえ、違いますわ……これは……ギャップ萌えの宝石箱……!)
エドナは震える指で、そっとその手を取った。
「あ……はい……ハーリット先輩……」
「えっと…ユティナでいいよ?」
「えっ!? は いいんですか?」
「うん、そんなに畏まらないでよ。……それより……大丈夫? なんか顔すごく赤いけど……?」
「あ、はいっ! ぜ、全然大丈夫です! ただ、ユティナ先輩の可愛さに見惚れていただけですので!!!」
ユティナの顔がフリーズする。
アルマとマリアベルも、ポカン。
(言ってしまいましたですの……! でも……これは正直な私の気持ち…)
エドナの脳内で何かが完全に決壊した。
そして、再びカーテンが開き、ブレア先生が仁王立ち。
「貴女達、まだ居るのですか!? 早く帰りなさい!」
「ひゃいっ!? さ、さようなら先生!!」
ユティナたちは慌てて保健室から退散した。
そして、その後をゆらゆらついて行くエドナ。
「ふぅ……ブレア先生って、なんか怖いんだよね……」
外庭に出た瞬間、ユティナは胸を大きく撫で下ろした。
夕暮れはすでに深まり、学園の庭は茜色から紫へと移ろいながら、薄闇に包まれ始めている。風に揺れる木々の影が長く伸び、昼の賑わいが嘘のように静かだった。
「普段はお優しい方ですけれど……保健室では厳しいと有名ですわね」
マリアベルは肩をすくめ、意味ありげに続ける。
「もっとも……貴女の場合は、しょっちゅう怒られているから、というのもあるのでしょうけれど」
「そ、そんなことないもん!」
「貴女、またブレア先生の呼び出し、すっぽかしていたでしょう?」
「う……そ、それは……」
言葉に詰まるユティナに、アルマがくすっと笑って割って入る。
「まぁまぁ、とりあえずさ。これ以上暗くなる前に、寮に戻ろ?」
アルマがそう言いながらふと後ろを見ると——
そこには、フラフラと吸い寄せられるようにユティナの後ろを歩くエドナの姿があった。
「えっと……シンクレアさん、だっけ?」
突然の問いに、エドナはビクッと跳ねた。
「あ、はいっ! そうです!」
「初等部の子をこんな時間まで一人にしておくのも心配だし、一緒に寮まで帰らない?」
「は、はい……っ!」
(ま、まさか……シェルフィード先輩と……ランカスター先輩と……ユティナ先輩と……一緒に帰れる日が来るなんて……ッ!! 今日は歴史に刻む日ですの!)
エドナの胸は高鳴りすぎて爆発寸前だった。
しかし三人が歩き出したその時。
「あっ!!」
突然ユティナが声を張り上げる。
「な、何ですの!? び、びっくりしますわ!」
マリアベルが肩を跳ねさせる。
「いや、その……ソディナ様R-EXを保健室に忘れてきちゃった……」
「ああ……」
アルマはため息をつきつつ提案する。
「また明日取りに行けばいいんじゃない?」
「うーーん……でも、やっぱり今取りに行く! みんなは先に帰ってて!」
「え、ちょっとユティナさん!?」
マリアベルの制止も聞かず、ユティナは全速力で保健室へ駆けていった。
その背中を見送りながら——
「本当に……騒がしい方ですわね……」
マリアベルが呆れを隠さずため息をつく。
しかし——
「ああ……ユティナ先輩……」
恍惚とした表情のまま、エドナはユティナが去っていった廊下の先を見つめていた。
視線は完全に夢の世界へ飛んでいる。
「この子……本当に大丈夫なのかしら?」
マリアベルが眉をひそめる。
「うーん……どうだろうね……」
アルマは乾いた笑みを浮かべつつ、エドナに目をやった。
視線の先では――
エドナが、うっとりと頬を染め、指先まで小刻みに震わせていた。
今にも湯気を立てそうなほど、全身から“ときめき”が漏れ出している。
——
「ふぅ……さて、後は……と」
薄暗くなった保健室で、一人黙々と片付けをしていたブレア先生。
「ハーリットさんの指導が加わってからというもの、どうにも仕事が滞りがちですね。……せめて今日は手早く片付けて、早めに帰るとしましょうか」
夕焼けが完全に消え、室内はランプの灯りだけが頼りの薄暗さだった。
そんな時——。
『私ソディナ様、今から貴女に会いにいくの』
不気味な声が、しん……とした保健室に響いた。
「……え?」
ブレア先生の手がゆっくり止まる。
「い、今の……なんですか……?」
思わず辺りを見回すが、誰もいない。
「き、気のせいですよね……。ただ、疲れているだけ……」
再び作業に戻ろうとしたその時。
『私ソディナ様、今、貴女が見えるところにいるの』
「ひぇっ!?」
心臓が跳ね、声が裏返る。
「だ、誰です!? まさか……生徒!? こんな時間まで残っては——」
だが返事はなく、代わりに薄暗い保健室の奥から妙な気配が漂う。
「さっきの声……こっちのほうから……?」
震える足で一歩ずつ近づく。
すると——。
『私ソディナ様……今、貴女の……』
「ひっ!?」
これは間違いなく、自分の真後ろからの声。
(う……後ろ…… !?)
恐怖で首が動かない。
しかし、視線だけそっと後ろへと向けると——
ベットの仕切りカーテンの向こうから、赤い二つの点がじぃっとこちらを見つめていた。
「ぁ……ぁぁ……っ」
喉が震え、声にならない悲鳴が漏れる。
そしてついに——
『貴女のうしろにいるのぉぉぉぉぉ!!』
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!」
ブレア先生は悲鳴と同時に盛大にのけ反り、バンッ! と壁に激突した。
そのまま膝から崩れ落ち、ズルズルと床へ座り込む。
焦点の合わなくなった瞳は白目を剥き、全身が小刻みに震えていた。
そして——
じわ……っ
白い聖法衣の腰元に、淡い黄色の染みが広がり始める。
さらに、
ぽた、ぽた……
透明がかった黄色い液体が床へ垂れ、あっという間に光を反射する水たまりができていく。
保健室の静けさの中、その音だけが妙にリアルに響いていた。
——と、その直後。
ガララッ。
「うわっ、暗っ!」
保健室の扉が開き、ユティナが飛び込んできた。
「ブレア先生はもう帰ったみたい……さっさと回収して帰ろっと」
そこに倒れるブレア先生には、暗さもあって気づかない。
代わりに、くんくん、と鼻を鳴らす。
「う……なんかおしっこ臭い……保健室って、こんな匂いしたっけ? まぁ……薬品とかかな……」
完全に勘違いである。
『私ソディナ様……』
「あ、いたいた」
ユティナは声の方向へ歩き、
「あーやっぱりベッドに置き忘れてたー」
カーテンを開けると、そこにはソディナ様R-EX。
『私ソディナ様……』
「んー? なんか調子変だなぁ。壊れちゃったのかな?」
R-EXを上下に振りつつ、まったく悪気なく首を傾げる。
「ま、帰ってから直そ」
そう言って保健室を出ていった。
静かな保健室には、倒れたままのブレア先生と、誰もいなくなった空間の中で、床の上の小さな跡だけが残されていた。
ブレア先生が目を覚ましたのは、翌朝のことだった。
「……う、ん……? わ、私……何をして……」
ぼんやりと天井を見つめながら、昨夜の記憶をたぐる。
だが、断片的で霞がかかったように思い出せない。
「そ、そうです。昨日……私は確か、何かを見て……はっ!? 」
勢いよく上半身を起こし、慌てて保健室内を見渡す。
「い、いない……。はぁ……よ、良かった……。きっと全部……夢、だったのですね……」
胸を押さえながら大きく息を吐く。
張りつめていた緊張が溶け、肩から力が抜ける。
——その瞬間。
ぞくり。
下腹部から太ももにかけて、ひやりとした冷感が走った。
「……え?」
不安を覚えたブレア先生は、そっと自分の腰元に手を添える。
布越しに感じる、乾ききっていない“何か”。
背筋に冷たいものが走った。
(……ちょ、ちょっと待って……この感触……まさか……)
先生は顔を引きつらせながら、震える指で聖法衣の裾をつまみ上げた。
「ま、まさか、そんな……っ!」
淡い黄色に染みた白い下着。
そして、その真下の石床に広がる、乾いた黄色い跡。
震える手が、さらに法衣の奥へと伸びる。
ぎゅっと目をつむりながら、下着へ触れた瞬間——
“ぐしょり”
湿った布の感触が指先にまとわりつく。
ブレア先生の表情がゆっくりと凍りついていく。
「わ、わたし……し、失禁……していたの……?
じゃあ……き、昨日のあれは……ゆ、夢じゃ……ない…… !?」
自分の声が、自分の耳にすら震えて聞こえた。
羞恥が胸を焼き、同時に背筋を氷のような恐怖が駆け上がる。
そして保健室に、誰にも聞かれたくない悲痛な声が吸い込まれていった。




