第9話 この世界の相撲
◆朝日富士
子どもたちの声がまだ耳に残っていた。
あの後トマは村じゅうに勝ったことを言いふらして回った。ガントはたぶん三日は口をきかないだろう。
はっけよい。のこった。
地面に棒で描いた円の中で小さな体がぶつかり合う。円から押し出された子が悔しがって土の上を転げ回る。
あれは相撲だった。どこから見ても相撲だった。
「アサヒさん、お茶が冷めますよ」
リネの声で我に返った。
村長の家の囲炉裏端。夕餉の後の静かな時間だ。向かいには村長のゲルトさんが座っている。部屋の隅の暗がりではリネの兄のカイが背を向けていた。左腕を布で吊ったまま。
「すまない。考えごとをしてた」
「裸戟のことですか?」
リネが小首をかしげた。
らげき。子どもたちもそう呼んでいた。
「村長。教えてもらえませんか。裸戟っていうのは、いったい何なんです」
「何なんですと言われてもなあ」
ゲルトさんは困ったように髭をさすった。
「裸で、円の中で、取っ組み合う。それだけのことだ。大昔に神さまがお授けになった決闘だよ。揉め事があれば裸戟で決める。村同士の揉め事も、貴族さま同士の喧嘩も、国と国の戦だってそうだ」
「戦も、ですか」
「ああ。剣で殺し合うより、ずっといいだろう」
確かにそうだ。そうなのだが。
「裸戟にも格がある。村と村なら郷戟。町の商人同士なら市戟。貴族さまの家同士なら爵戟。その上に領主さまの一番、公爵さまの一番、国と国の一番があってな。いちばん上は、国々が集まって大陸の盟主を決める天下戟だ。それから……人と魔族が百年に一度取る、百年戟がある」
「百年戟……」
「わしらには縁のない話だ。郷戟だって、村の命運を懸けるには十分すぎる」
「誰が裁くんです」
「聖堂の審司さまだ。戟聖堂といってな、裸戟を司る神殿がある。審司さまが神配を掲げて勝ちを名乗る。そうすると、神さまの前で約束が結ばれる。負けた側は、何があってもその約束を守らにゃならん」
「守らなかったら」
「……守らなかった者の話は、聞いたことがない」
ゲルトさんはそれだけ言って茶をすすった。
「決まりごとは」
「決まりごと?」
「どうなったら勝ちで、どうなったら負けなのか」
答えたのはリネだった。指を折りながら一つずつ数えていく。
「円の外に出たら負けです。それから、足の裏より他のところが地面についたら負け。手でも膝でも、ほんのちょっとでも」
「……うん」
「握った拳で殴ったらだめ。髪をつかむのもだめ。目を突くのも、喉をつかむのも、お腹を蹴るのもだめです。あと、腰の帯が外れたら負け」
「……帯が外れたら」
「はい。とっても恥ずかしい負け方です」
「帯は、裸戟の時だけ締める特別な布なんです。神さまに体を預ける印だって、母さんが言ってました」
リネは少し頬を赤らめた。
俺は木の杯を持ったまま固まっていた。
勇み足。禁じ手。不浄負け。全部ある。一つ残らずある。
円は土俵だ。足の裏以外がついたら負けというのは、相撲の勝負の決まりそのものだ。拳で殴らない。髷をつかまない。目を突かない。喉をつかまない。腹を蹴らない。全部、相撲の禁じ手と同じだ。
偶然でこんなに揃うはずがない。
(相撲だ)
この世界に相撲がある。名前を変えて神さまの決闘として。
十七年。俺が毎日やってきたことが、この世界では神さまの決闘になっている。笑えばいいのか震えればいいのか分からなかった。
「アサヒさん? 顔が怖いですよ」
「ああ、いや……すまない。驚いただけだ」
「驚くようなことですか? 子どもでも知ってることですよ」
「俺の国にも、同じものがあったんだ」
リネが目を丸くした。ゲルトさんも身を乗り出す。
「あんたの国にも裸戟が?」
「相撲っていう名前でした。俺は……それを生業にしてたんです」
「生業? 裸戟で飯を食ってたってのか」
「ええ。十七年」
「十七年も……」
「裸戟だけで食っていける国があるのか」
「……ありました」
口に出してから気づいた。ありました、と言ってしまった。もう戻れない場所のことのように。
ゲルトさんとリネが顔を見合わせた。
部屋の隅でカイの肩がぴくりと動いた気がした。
「……なら、分かるだろう。うちの村が今どうなってるか」
ゲルトさんの声が低くなった。
「川の水がな、ほとんどベッカ村に取られてる。三年前の郷戟で負けてからだ」
「郷戟」
「村と村の裸戟だよ。毎年収穫祭の日にやる。今年の収穫祭まではあと一月と少しだ。負けた村は勝った村の言い分を呑む。三年前、ベッカ村は川の堰を高くさせろと言ってきた。うちが負けて、堰は高くなった」
「取り返そうとは」
「したさ。二年前も、去年も、戟申しを出して挑んだ。全部負けた」
囲炉裏の火がぱちりと爆ぜた。
「ベッカにはボルグって男がいる。木こりの大男でな。あいつに勝てる奴は、この辺りには一人もいない」
「どれくらい強いんです」
「三年続けて、立ち合いから一息で勝っとる。うちの代表は誰も、円の真ん中から一歩も前に出られなかった」
「去年の代表は」
「……カイだ」
リネが唇を噛んだ。
カイは背を向けたまま何も言わなかった。吊られた左腕だけが暗がりに白く浮いていた。
「腕を折られたよ。投げられて、落ちたところに相手の体が乗っかってな」
投げられて上から乗られる。相撲でもいちばん危ない落ち方だ。受け身を知らなければ骨が折れるのも無理はなかった。
「父さん」
「事実だ、リネ」
ゲルトさんは杯を置いた。
それから自分に言い聞かせるようにゆっくりと言った。
「今年は戟申しを出さない」
「……え」
「寄り合いで話す。出ても負ける。負ければまた誰かが壊される。それなら、水が少ないなりにやっていく方がましだ」
「でも父さん、それじゃ畑が」
「分かってる!」
初めて聞くゲルトさんの大きな声だった。
リネが肩を震わせる。カイが立ち上がった。何も言わずに戸口から出ていく。
すれ違いざまに見えたカイの右の拳は、白くなるほど握りしめられていた。
戸の閉まる音がやけに重く響いた。
「……すまん。客人の前で」
「いえ」
「あんたも、明日にはこの村の暮らしが分かるだろう。分かったら、遠慮なく出ていってくれていい。誰も責めん」
「出ていきませんよ。もらった恩を、まだ返していませんから」
ゲルトさんは何も答えなかった。ただ囲炉裏の火を見つめていた。
俺は杯の中のぬるくなった茶を見つめた。
この茶を淹れた水もあの細い小川から汲んできたものだ。リネが自分の飲み水を分けてくれたあの朝を思い出す。
あの水の恩を、俺はまだ返していない。
(円の中で決まるのか)
剣でも槍でもない。
円の中で。裸で。足の裏以外がつけば負けで。
俺がいちばんよく知っているやり方で。




