第10話 川を奪った男
◆ボルグ
斧を振り下ろすと丸太が真っ二つに割れた。
もう一本。また一本。
割れた薪が足元に山を作っても腕はちっとも疲れなかった。
ガキの頃から俺はでかかった。十の時にはもう大人と同じ背丈だった。村の子どもと遊べば必ず誰かが泣いた。押せば転ぶ。肩を叩けば骨が鳴る。だからそのうち誰も俺と遊ばなくなった。
裸戟ごっこでも同じだった。誰も俺と組みたがらない。たまに組んでも相手は最初から逃げ腰だ。円に入る前に泣き出す奴もいた。
親父は木こりだった。俺が十五の時に倒れてきた木の下敷きになって死んだ。それから俺は一人で斧を振ってきた。木だけは俺から逃げない。斧を叩き込めば素直に割れる。
今でも広場でガキどもが裸戟ごっこをしていると、俺が通るだけで円が空になる。
毎朝日の出前に山に入る。昼までに丸太を十本切り出して、午後は薪を割る。それが俺の一日だ。
「ボルグ! おいボルグ!」
村長のダリオが坂の下から手を振っていた。小太りの体を揺らして息を切らしている。
ダリオは小太りの体に似合わない上等な服を着ている。三年前に郷戟で勝ってから、この男の服は少しずつ上等になった。
「なんだよ、村長」
「いい知らせだ。ツチフミの奴ら、今年は戟申しを出さんらしい」
「……は?」
「寄り合いで決めるそうだが、ゲルトのあの顔じゃ間違いない。戦う前から降参だ」
ダリオは嬉しそうに手を揉んだ。
「これで川はもう一年うちのもんだ。あいつらの畑は干上がる。来年には土地ごと安く買い叩いてやれる」
「とくにあの南の畑地だ。あそこは土がいい。水さえ引けば、うちの畑の倍は穫れる」
ダリオの肩越しにベッカの畑が見えた。
坂の上から見下ろす畑は青々としていた。堰に溜まった水が日の光を跳ね返している。三年前まではここも痩せた村だった。今じゃ麦の穂が重そうに垂れている。郷戟に勝つたびに村の連中は俺に頭を下げる。肉と酒が届く。
ダリオは嫌な男だ。だが俺を必要としてくれるのはこの男だけだった。
坂の下を通る村人がこちらに頭を下げていく。俺にじゃない。俺の腕にだ。
「つまんねえな」
「何?」
「つまんねえって言ったんだよ」
俺は斧を切り株に叩き込んだ。
三年だ。三年続けて郷戟でツチフミの代表をぶっ飛ばしてきた。
一年目は村の鍛冶屋。二年目は猟師の兄弟の兄。三年目は村長の息子。
どいつも円の真ん中でぶつかってきた。そしてどいつも一発で吹っ飛んだ。
「郷戟の前の日には、また肉を届けさせる。お前は寝て食って、当日立っていればいい」
「それがいちばん退屈なんだよ」
「去年の奴は、まだましだったぜ。ゲルトの息子。カイだったか」
あいつだけは逃げずにまっすぐぶつかってきた。
「お前が腕を折った奴だな」
「折るつもりはなかった。勝手に折れたんだ」
嘘じゃない。投げたら下敷きになって勝手に折れた。骨の鳴る音がしてガキみたいな悲鳴が上がった。
それだけだ。
あの時も俺は汗ひとつかいていなかった。
ただ、あいつの悲鳴だけはたまに夢に出る。夢の中で俺は何度もあの骨の音を聞く。目が覚めると、なぜか腹の底が冷えている。
「村長。俺は生まれてから一度も、本気で踏ん張ったことがねえんだ」
「そりゃお前が強すぎるからだ。結構なことじゃないか」
「結構じゃねえよ。退屈なんだ」
一度でいい。足の裏が地面にめり込むくらい踏ん張ってみたい。腕がちぎれるくらい押してみたい。そうしたら何かが分かる気がする。何が分かるのかは分からないが。
ダリオは呆れたように肩をすくめた。
「なら市の興戟で遊んでこい。来週の市は賞金も弾むぞ。どうせ誰もお前には勝てんがな」
「興戟なあ……」
市の日の興戟には町から流れてくる腕自慢も混じる。少しはましな相手がいるかもしれない。いた試しはないが。
いや。一人だけいた。
去年の秋の市だ。街から流れてきた戟士が三人来た。一人目は立ち合いで逃げた。二人目は帯を取られた途端に降参した。三人目は獣人だった。
すばしっこい猫みたいな奴だった。円の中をさんざん跳ね回って、目の前でぱんと手を打たれた。一瞬目がくらんだ隙に足を取られて、危うく円の外へ転がされかけた。最後はどうにか捕まえて放り投げたが。
あいつだけは少し面白かった。あれから一度も市に来ていない。
「ああ、そうだ。妙な噂を聞いたぞ」
「噂?」
「ツチフミの村に、川から拾われた大男がいるそうだ」
「大男?」
初めて興味が湧いた。
「俺よりでかいのか」
「いや、背はお前より頭ひとつ低いらしい。ただ腹が樽みたいに出ていて、腕が丸太みたいに太いとか」
「なんだ、ただのデブか」
「水樽を二つ担いで山道を往復したそうだ。村じゅうが目を丸くしたと」
「水樽二つ?」
思わず笑った。
「それくらい俺でも担げる」
「だろうな。それと、頭の上に変な形の髷を結っていたらしい。扇みたいな形の」
「扇?」
「年寄り連中が騒いでいるそうだ。言い伝えの白き巨人がどうとか」
「白き巨人」
ガキの頃によく聞かされた話だ。
大昔に天から降りてきた神さま。剣を折って裸戟を人に授けたっていう。ありがたい昔話だ。
死んだばあさまが寝物語に話してくれた。白き巨人は剣を折って、王さまたちを一人ずつ円の外に運び出した。誰も巨人を動かせなかった、と。
ガキの俺はその話が好きだった。俺も巨人みたいになれると思っていた。なってみたら、誰も遊んでくれなくなっただけだった。
「神さまが川に落ちて拾われるかよ」
「まったくだ」
ダリオと二人で笑った。
笑いながら俺は切り株から斧を引き抜いた。刃先に映った自分の顔はやっぱり退屈そうだった。
「それとな、ツチフミのガキどもがその大男に何か教わっているのを見た者がいる。片足を高く上げて地面を踏む、妙な踊りだとか」
「妙な踊り?」
片足を上げて地面を踏む。それで何になるんだ。
「拾ったのはゲルトの娘だそうだ」
「……リネが?」
「あの別嬪が、川でデブを拾ってきたんだと。村じゅうの噂だ」
なぜだか少しだけ腹が立った。
でかい男。腕が丸太みたいな男。
もしもそいつが円の中に立ったら。
俺は少しは本気で踏ん張れるだろうか。
「村長」
「ん?」
「そのデブ、市に来ねえかな」
「来てどうする」
「興戟で取ってみてえ」
割った薪の山を見下ろした。
どれもこれも一撃で割れた。俺の前ではいつだってそうだ。
自分の手のひらを見た。分厚い。硬い。この手で押して動かなかったものは、これまで一つもない。
「腕の一本くらいは、折ってやれるかもしれねえ」




