第8話 裸戟ごっこ
◆トマ
おっちゃんがこっちを見た。ダグさんも見た。広場にいた大人たちまでこっちを見た。
よし。今日こそかっこいいところを見せるんだ。
地面には木の枝で大きな円が描いてある。村の子どもの遊びといったらこれしかない。裸戟ごっこだ。
大人の裸戟みたいに神さまの円じゃない。でも決まりは同じだ。円から出たら負け。足の裏のほかが地面についたら負け。
始める前の決まりごともある。円の真ん中で向かい合ってお互いに頭を下げる。審司の役が棒切れを高く上げて「円の内は神の庭」と唱える。本物の審司さまの真似だ。意味はよく分からない。
「トマ、いい加減に諦めろって。お前、俺に何回負けたと思ってんだ」
「数えてない!」
「三十七回だ」
「数えんなよ!」
「今日も転がしてやるよ、ちび」
「ちび言うな!」
ガントがにやにやしながら円に入った。おれより頭ひとつでかい。腕も太い。
最初に負けたのは八つの時だった。それから三年。毎日のように挑んで毎日のように転がされた。真正面からぶつかっても勝てない。横から回り込んでも勝てない。足を引っかけようとしても勝てなかった。
背が低いから仕方ないって母ちゃんは言う。でも仕方ないで済ませたくなかった。
審司の役はミーナだ。棒切れを神配のかわりに持ってすまし顔で円の脇に立つ。
「えー、円の内は、神の庭。……両者、礼!」
おれとガントが頭を下げる。ミーナはこの役が大好きだ。ミーナの家は代々村の祭りで太鼓を叩く家で、ミーナは何でも作法にうるさい。去年の郷戟で本物の審司さまを見てからずっと真似をしている。
「両者、構えて」
おれは円の中でガントと向かい合った。
ちらっと広場の端を見る。おっちゃんがいる。見てる。
「ハッケヨイ!」
ミーナが棒を振り下ろした。
その瞬間に広場の端で何かが変わった。
見えたわけじゃない。でも分かった。空気がぴんと張りつめた。背中に冷たい水を浴びせられたみたいに。
思わず振り返った。
おっちゃんが立ち尽くしていた。
さっきまでの笑った顔じゃない。目を見開いていた。口を少し開けていた。まるで幽霊でも見たみたいな顔でおれたちの円を見ていた。
唇が小さく動いていた。はっけよい。のこった。何度も確かめるみたいに。
「隙ありっ!」
「あっ」
ガントの体当たりがまともに入った。
おれはころころと転がって円の外まで吹っ飛んだ。
「ノコッタ……じゃない、勝負あり!」
ミーナが棒切れをガントのほうへ突き上げた。
「勝者、ガント!」
「三十八回目ー!」
「ずるいぞガント! 今のなし!」
「よそ見したお前が悪い」
おれは土を払って立ち上がった。悔しくて涙が出そうだった。よりによっておっちゃんの前で。
その時。大きな影がおれの横に立った。
「……今の」
おっちゃんだった。声がかすれていた。
「今の掛け声、もう一回言ってくれないか」
「え?」
「始める時の。それと、途中の」
ミーナがきょとんとしておれを見た。おれもきょとんとした。
「……ハッケヨイ?」
「そう。それと」
「ノコッタ?」
おっちゃんの喉がごくりと鳴った。
「その遊びの決まりを、教えてくれ」
「決まり? 円から出たら負け。足の裏のほかがついたら負け。あと、拳で殴ったらだめ」
「髪の毛をひっぱるのもだめだよ」
ミーナが横から付け足した。
「それから、始める前と終わった後には礼をするの。神さまが見てるから」
「……」
おっちゃんは何も言わなかった。
大きな拳がぎゅっと握られていた。小さく震えていた。
「おっちゃん? どうしたの?」
「……トマ」
「うん」
「さっき負けたのは、よそ見したからだけじゃない。お前、ガントより背が低いだろう」
「……うん」
「なのにガントと同じ高さでぶつかってる。だから負ける」
おっちゃんはおれの前にしゃがんだ。おれと同じ目の高さで。
「低く当たれ。もっと低く。ガントの胸じゃなくて、腹の下を狙え。頭は下げすぎるな。足の裏で地面を押すんだ」
「足の裏で、地面を……」
「そうだ。背が低いのは弱みじゃない。下から行けるってことだ」
下から行ける。
そんなことは誰も言ってくれなかった。
胸の奥がかっと熱くなった。父ちゃんにも母ちゃんにも言われたことがない。小さいのは負ける理由だとばかり思っていた。
「もう一回やってみろ」
おれはガントを振り返った。
「ガント! もう一番!」
「はあ? 何回やっても同じだって」
「いいから!」
円に入る。礼をする。構える。
低く。もっと低く。腹の下。足の裏で地面を押す。
「ハッケヨイ!」
低く飛び込んだ。
ガントの腹の下に頭が入った。ガントの体がふわっと浮くのが分かった。
いつもは見上げるだけの胸が頭の上にある。汗の匂いがした。まわりの声がやけに遠くに聞こえた。
足の裏で地面を押す。押す。押す。
「わっ、わわっ!?」
ガントの踵が円の線を越えた。
「しょ……勝負あり!」
ミーナの棒切れがおれのほうへ上がった。自分でも信じられないって顔で。
「しょ、勝者、トマ……!?」
ミーナの声がひっくり返った。広場の子どもたちが一斉に叫んだ。
「トマが勝った!」
「ガントに勝ったぞ!」
「三十九回目でついに!」
「だから数えんなって!」
ちびのペペが意味も分からず跳ね回っている。
ガントは尻もちをついたままぽかんと口を開けていた。
広場の大人たちもざわついていた。
「おい、見たか。トマの坊主がガントを押し出したぞ」
「たまたまだろ」
「いや、さっきのは違うぞ。あの大男が何か耳打ちしてた」
「低く当たれって言ってたな」
「低く当たるだけで、あんなに変わるもんか?」
ダグさんが腕を組んでじっとおっちゃんの背中を見ていた。
「……低く、か」
村一番の木こりのガントの父ちゃんは悔しそうに頭をかいている。水桶を抱えたリネ姉ちゃんまで足を止めてこっちを見ていた。
おれは自分の両手を見下ろした。震えていた。さっきのおっちゃんと同じように。
ガントがのろのろと立ち上がっておれの前に来た。
「……礼、まだだろ」
「あ」
二人で円の真ん中に戻って頭を下げた。ガントの顔は真っ赤だった。でも少しだけ笑っていた。
「次は負けねえからな」
「おれだって」
「おっちゃん! 勝った! 勝ったよ!」
振り返るとおっちゃんは笑っていた。
でもそれはおれの勝ちを喜ぶだけの顔じゃなかった。
空を見上げていた。夕焼けの空を。ずっと遠くを。
目尻が光っていた気がした。
「……相撲だ」
おっちゃんの唇から小さな声がこぼれた。
おれには意味が分からなかった。でもその声は嬉しくて泣きそうな時の声だった。
「この世界にも、相撲がある」
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