第7話 水桶ふたつ
◆ダグ
「いいか。泉までの道は細い。崖もある。足を滑らせたら下の沢まで真っ逆さまだ」
「はい」
「桶はひとり一つ。天秤棒で担ぐ。欲張って二つ持つと腰をやる。俺みたいにな」
「はい」
「……返事はいいな、お前」
*
夜明け前の村外れ。水汲みの男たちが集まっていた。
俺と甥のヨハン。猟師のフランツ。若い連中が五人。そして村長の家の居候だ。
近くで見るとあらためてでかい。背は俺とそう変わらない。だが横幅と厚みが倍はある。
「ダグさん、この人が例の……」
「川で拾われた人ですよね」
「朝日富士だ。よろしく頼む」
「あさひ……ふ、ふじ?」
「あさふじ?」
「あさひふじふじ?」
「……アサヒでいい」
居候が頭を下げると若い連中もつられて頭を下げた。妙に礼儀正しい男だ。
「それでアサヒ。お前はこれを使え」
俺は一番小さな桶を差し出した。初日だ。まずは道を覚えればいい。
「あの、ダグさん」
「なんだ」
「あれは、使っちゃいけないんですか」
アサヒが指さしたのは納屋の隅に転がっている大樽だった。
祭りの時に酒を仕込む樽だ。大人が両腕で抱えてやっと持てる大きさがある。水を満たせば人ひとりより重い。
「あれは祭り用の……いや、使っちゃいけねえことはないが」
「二つ、借りていいですか」
「二つ!?」
若い連中がどっと笑った。
俺は笑わなかった。冗談を言っている顔じゃなかったからだ。
泉までは山道を一刻。帰りは水を担いで一刻半。
行きは空の樽だから誰でも歩ける。問題は帰りだ。
空の樽を二つ背負って歩くアサヒに若い連中が代わる代わる話しかけた。
「なあ、アサヒさん。あんた、どこから来たんだ」
「海の向こうの……ずっと遠くだ」
「海? 海なんて見たことねえや」
「どのくらい遠いんだ。歩いて何日だ」
「……歩いては、帰れないくらいだな」
アサヒは少し寂しそうに笑った。それ以上は誰も聞かなかった。
「その国じゃ、みんなあんたみたいにでかいのか」
「いや。俺みたいなのは、力士だけだ」
「りきし?」
「毎日稽古して、毎日たらふく食う仕事の者だ」
「毎日たらふく!?」
「いい国だな、おい!」
若い連中が騒ぐ。俺は前を歩きながら聞くともなく聞いていた。毎日食うのが仕事。妙な国もあったものだ。
泉は岩の割れ目から湧いている。
苔むした岩の間から細い水がちょろちょろと流れ落ちている。その下に小さな水溜まりができている。去年はもっと勢いがあった。今年は桶一つ満たすのにもしばらく待たなければならない。
アサヒは膝をついて手で水をすくった。一口飲んで目を閉じる。
「……冷たいな。いい水だ」
「この辺りじゃいちばんの水だ。川があった頃はわざわざ汲みに来る奴もいなかったがな」
泉で樽に水を満たし終えるとアサヒは樽を一つずつ両肩に担ぎ上げた。
「おい……おいおいおい」
「嘘だろ」
「一個でも俺じゃ持ち上がらねえぞ」
若い連中の声が裏返る。
アサヒは平然としていた。息ひとつ乱れていない。
「行きましょうか」
そして歩き出した。
俺は自分の天秤棒を担いでその後ろについた。
最初は転ぶと思っていた。あの重さだ。崖の道で足を取られたら終わりだ。いつでも支えられるように後ろにいてやるつもりだった。
転ばなかった。
それどころか揺れなかった。
樽の水面がほとんど揺れていない。アサヒの歩き方がおかしいのだ。
膝を曲げて腰を落としている。足の裏を地面から離さずに滑るように進む。急な坂でも細い崖っぷちでも頭の高さが変わらない。まるで地面に吸いついているみたいだった。
「……アサヒ。その歩き方はなんだ」
「すり足です」
「すりあし」
「足の裏を地面から離さないで歩くんです。そうすると、重いものを持っても崩れない」
「そんな歩き方、聞いたことねえぞ」
「俺の国じゃ、入門したその日から叩き込まれます」
入門。いったいどんな国なんだ。
崖沿いのいちばん細い道に差しかかった時だった。
「うわっ!」
前を歩いていたペーターの足元で石が崩れた。
猟師フランツの倅だ。天秤棒の桶が大きく傾く。体ごと崖のほうへ持っていかれる。
「ペーター!」
俺が手を伸ばすより先に太い腕がペーターの襟首をつかんでいた。
アサヒだった。
右肩に樽を一つ担いだまま。左の樽を地面に下ろしてもいない。片手でペーターの体を崖の縁から引き戻した。
崩れた石が沢へ落ちていく。からからと乾いた音がしばらく続いた。やがて聞こえなくなった。
「……っ、は、はあ……」
ペーターが尻もちをついて震えている。桶の水が半分こぼれていた。
「大丈夫か」
「だ、大丈夫……です……」
「なら、よし。こぼれた分は俺の樽から足しておけ」
アサヒはそう言って何事もなかったようにまた歩き出した。樽の水面はやっぱりほとんど揺れていなかった。
若い連中はもう誰も軽口を叩かなかった。
村に着いたのは俺たちより半刻も早かった。
アサヒは村の水甕に樽の水を空けた。そして空の樽を担いでまた山道へ引き返していった。
「お、おい! どこ行くんだ!」
「もう一往復してきます!」
「もうって……」
その日アサヒは五往復した。
大樽二つで五往復。村の男が総出で一日に運ぶ水の三倍だ。
昼過ぎには村じゅうの人間が広場に集まっていた。樽を担いで坂を下りてくるアサヒを見てみんな口を開けて固まっていた。
「ば、化け物か……」
「いや、神さまだろ」
「やっぱり川の神さまだ!」
「川の神さまが水を運んでるぞ!」
子どもたちがはしゃいで後をついて回る。トマの坊主が一番前で胸を張っていた。なぜかあいつが得意げだった。
*
夕方。最後の樽を水甕に空けたアサヒに俺は水を一杯差し出した。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのはこっちだ。おかげで三日分の水が溜まった」
アサヒはうまそうに水を飲み干した。それから俺の腰に目をやった。
「ダグさん、腰、悪いんですか」
「……分かるか」
「歩き方で。右をかばってる」
「二年前に樽を持ち上げた時にやっちまってな。それからずっとだ」
アサヒは少し考えてから地面にしゃがんで見せた。
「重いものを持つ時は、腰を曲げないで、膝を曲げるんです。こう、股を割って。背中はまっすぐ。持ち上げるのは腰じゃなくて足です」
「足で、持ち上げる」
「ええ。そうすれば腰に来ない」
言われたとおりにしゃがんで空の桶を持ち上げてみた。
確かに。腰のあの嫌な引っかかりが来ない。
「……お前、本当に何者なんだ」
「相撲取りです」
「すもうとり?」
「裸で組み合って、勝ち負けを決める仕事です」
アサヒは照れたように笑った。
裸で組み合う。それは。
「それじゃまるで、裸戟じゃねえか」
「らげき?」
アサヒが首をかしげた。
知らないのだ。この国で裸戟がどんな意味を持つのかを。
説明してやろうと口を開きかけたその時。
「アサヒのおっちゃーん!」
広場の真ん中でトマの坊主がぶんぶんと手を振っていた。足元の地面には木の枝で大きな円が描いてある。
「見ててよ! 今日こそガントに勝つから!」




