第6話 一杯の粥
◆リネ
粟の袋に手を入れて、ひとつかみ。もうひとつかみ。
三つ目に手を入れかけてやめた。袋の底が見え始めている。次に市が立つまであと十日。今日は三つかみにして、明日からは二つにしよう。
母さんの粥はもっと濃かった。
粟をたっぷり入れる。刻んだ野草とひとつまみの塩で味をつける。仕上げに母さんは必ず鍋の縁を木べらで二度叩いた。おいしくなるおまじないだと言って。
母さんが死んでから台所は私の場所だ。
あの頃と同じように野草を刻む。同じように塩をひとつまみ。木べらで鍋の縁を二度叩く。
それでも同じ味にはならない。水が少ないからだ。粟が少ないからだ。たぶんそれだけじゃないけれど。
背中に視線を感じた。振り返ると囲炉裏端からアサヒさんがこちらを見ていた。鍋を見ているのか、私の手元を見ているのか。目が合うと慌てたように天井を向いた。
鍋の底が見えていた。
木べらでかき回しても粟の粒は数えられるほどしかない。水で量を増やした粥はほとんどお湯のようだった。
「リネ、手伝えることはあるか」
「座っててください。お客さまなんですから」
「居候だよ」
「じゃあ、居候さまは座っててください」
アサヒさんは困ったように笑って囲炉裏端に腰を下ろした。
座っただけで部屋が狭くなる。父さんと兄さんと私の三人きりの家に急に山がひとつ増えたみたいだった。
四つ目の椀を出すのは何年ぶりだろう。
「お待たせしました」
椀を配る。父さんに。兄さんに。アサヒさんに。最後に自分に。
アサヒさんの椀にはいちばん多くよそった。体の大きさが違うのだから当たり前だ。
自分の椀から少し減らしてそのぶんを足した。兄さんの椀にも少し多めに。腕を折ってから兄さんは食が細くなった。それでも食べてほしかった。
大きな手だった。椀が子どものおもちゃみたいに見えた。
「いただきます」
アサヒさんが手を合わせた。父さんと兄さんが不思議そうにそれを見る。
「それは?」
「俺の国の、食べる前の挨拶です。食べ物と、作ってくれた人に」
「ほう……」
父さんが感心したように髭をなでた。兄さんは黙って粥をすすっている。左腕を吊ったまま右手だけで器用に椀を持っていた。
アサヒさんの椀はあっという間に空になった。
すすったというより消えた。
「……早いな」
「すみません。商売柄、つい」
「商売?」
「食べるのも仕事のうちだったんです」
父さんが目を丸くした。
「食べるのが仕事? そりゃまた結構な国だな」
「体を大きくしないと勝てない仕事だったので。朝の稽古の後に、鍋をひとりで二つ三つ」
「鍋を二つ!?」
私は思わず鍋を見た。この鍋は家族三人の一日分だ。
「そんなに食べて、腹を壊さんのか」
「最初は壊しました。入門したての頃は、食べては吐いて、吐いては食べて」
「なんと……」
「兄弟子に、吐いたらまた食えって言われまして」
「恐ろしい国だな……」
父さんが本気で引いていた。兄さんの肩が小さく揺れた。笑いをこらえているのだ。
「おかわり、どうぞ」
「いや、悪いよ」
「いいんです。まだありますから」
二杯目をよそう。アサヒさんはまた手を合わせた。今度は少しゆっくり食べている。
食べ終わったアサヒさんがふと鍋の中を見た。
それから父さんの椀を。兄さんの椀を。私の椀を。
私の椀はまだ半分も減っていなかった。減らすほど入っていなかったからだ。
「リネ。三杯目……アサヒさんによそってやれ」
「はい! どうぞ」
鍋に木べらを入れかけた私の手をアサヒさんがそっと止めた。
「いや。もう腹いっぱいだ」
ぐうううう。
アサヒさんのお腹が鳴った。部屋じゅうに響くものすごく大きな音だった。
「……」
「……」
「……腹いっぱいだ」
父さんが咳払いをした。兄さんは天井を見ていた。囲炉裏の煙が梁のあいだをゆっくりと這っていく。
「今、鳴りましたよね」
「気のせいだ」
「鳴りました。すごく」
兄さんがぶふっと吹き出した。慌てて顔をそむけたけれど肩が震えている。父さんも髭の奥で笑っていた。
アサヒさんは耳まで赤くなっていた。それでも首を横に振った。
「本当に、いいんだ」
その声は笑っていなかった。
分かってしまった。
この人は気づいたのだ。鍋の底のことも。私たちの椀が薄いことも。この村がどれくらい痩せているのかも。
「……今年は、日照りがひどくて」
言い訳みたいに言葉がこぼれた。
「川の水が、少ないんです。だから畑も……」
「川がありゃあな」
兄さんがぼそりと言った。それきり椀を置いて立ち上がる。何も言わずに戸口から出ていった。
父さんが小さく溜め息をついた。囲炉裏の火がちろちろと揺れていた。
「……すまんな、アサヒさん。あいつも本当は、悪い奴じゃない」
「分かってます」
「この村は、もとは豊かだったんだ」
父さんは囲炉裏の火を見つめたまま話し始めた。
「川沿いに畑が広がっていてな。麦も粟も豆もよく実った。秋には市で売る作物が荷車に積みきれんほどだった。子どもの声が村じゅうにあふれとった」
「……」
「それが三年前から川が細くなった。そこへこの日照りだ。畑の半分が枯れた。井戸も浅くなった。去年は三軒、今年に入ってもう二軒、村を出ていった」
父さんの声は静かだった。静かすぎて胸が痛かった。
「わしは村長だ。村の者を食わせるのが務めだ。それなのに、娘に粥を薄めさせとる」
「出ていった人たちは、どこへ」
「街だ。日雇いの仕事を探しにな。……戻ってきた者はおらん」
「父さん……」
「すまんな、リネ」
私は首を横に振った。言葉が出なかった。
アサヒさんが静かに口を開いた。
「リネ」
「はい」
「この村の水は、どこから汲んでる」
「今は、山の上の泉からです。小川だけじゃ足りないので。往復でずいぶんかかります」
アサヒさんは自分の大きな手のひらをじっと見つめた。
「村長。俺にできることをさせてください」
「できること?」
「力仕事なら、たぶん誰にも負けません。食べた分は働いて返す。それが筋です」
父さんは少し驚いた顔をした。それからゆっくりうなずいた。
「なら明日は、ダグと一緒に水汲みに行ってくれ」
「はい」
アサヒさんは空の椀を両手で持って私に差し出した。
「ごちそうさまでした。……うまかったよ、リネ」
母さんの口癖を思い出した。おいしいって言ってもらえるのが、いちばんのごちそうなんだよ、リネ。
ほとんどお湯の粥だった。
それなのにその人は本当においしそうな顔をしていた。
胸の奥が少しだけ痛くなった。
どうしてだろう。悲しいわけじゃないのに。




