第5話 村いちばんの噂
◆トマ
「ぜったい川の神さまだって!」
「ちがうよ、魔物だよ。人に化けてるんだ」
「魔物があんなに寝相いいかよ」
「寝相は関係ないだろ!」
村長さんちの裏の茂みでおれたちはひそひそ声で言い合っていた。
おれとガントとミーナとちびのペペ。村の子どもは今これで全部だ。
去年まではもっといた。でも日照りで何軒かが村を出ていった。いちばん仲良しだったリタの家もそうだ。荷車に家財道具を積んでリタは泣きながら手を振っていた。街に行けば仕事があるって大人たちは言っていた。でもリタの父ちゃんの顔は少しも嬉しそうじゃなかった。
おれの家は父ちゃんと母ちゃんと妹のアンナの四人だ。父ちゃんは毎日遠くの泉から畑に水を運んでいる。それでも畑の半分は茶色く枯れてしまった。
「トマはどっちだと思う?」
「おれは……神さま派」
「なんで」
「だって、リネ姉ちゃんが拾ったんだぞ。リネ姉ちゃんが魔物なんか拾うわけない」
「理由になってねえ」
ガントが鼻で笑った。
ガントは十三でおれより二つ上だ。おれより頭ひとつでかい。裸戟ごっこでおれは一度もこいつに勝ったことがない。
「あたしは、空から落ちてきたんだと思う」
ミーナが真面目な顔で言った。
「空から?」
「だってあんなに大きな人、どこから来たか誰も知らないんだよ。川上の村の人でもないし。だったら空しかないでしょ」
「空から落ちたら死ぬだろ」
「神さまだから死なないの」
「じゃあ神さまってことじゃねえか」
「ぼく、きょじんぞくのこどもだとおもう」
ちびのペペが指をしゃぶりながら言った。
「巨人族の子ども? あれで子どもかよ」
「おとなのきょじんは、もっとおっきいんだよ。やまくらい」
ペペの話はいつもよく分からない。でもちょっとだけ怖くなった。
「じゃあ確かめようぜ」
「どうやって」
「窓から覗くんだよ。魔物なら角とか尻尾とかあるだろ」
それはいい考えだと思った。
おれたちは茂みから這い出して村長さんちの窓の下まで忍び寄った。窓は高い。おれの頭より上にある。
「トマ、乗れ」
「おれが?」
「いちばん軽いだろ」
「ペペのほうが軽いよ」
「ペペは落ちたら泣くだろ」
なんだその理屈は。
ガントの背中に乗って窓枠にしがみつく。そっと顔を出した。
いた。
部屋の真ん中にあの大男が立っていた。
上半身は裸で腰にはあの紺色の帯を巻いている。近くで見るとほんとにでかい。腕なんかおれの胴より太い。
大男は片足を上げていた。
横に。高く。高く。信じられないくらい高く。
そして。
どすん。
家が揺れた。窓枠が揺れた。
おれが揺れた。
「うわっ、わっ、わあああ!」
手が滑った。体が前に傾く。窓の内側へ。部屋の中へ。床がぐんぐん近づいてくる。
(食われる――)
ぽすん。
床にはぶつからなかった。
でっかい手のひらがおれの体を空中で受け止めていた。片手で。猫の子でも拾うみたいに。
「……危ないぞ、坊主」
大男がおれを見下ろしていた。
近い。顔がでかい。眉が太い。目が……
目が笑ってた。
「く、く、食わないで……」
「食わない食わない」
「ほんと? 魔物じゃない?」
「魔物じゃない。たぶん」
「たぶん!?」
大男が吹き出した。笑うと腹がゆさゆさ揺れた。
おれを床に下ろすと大男は窓の外に向かって声をかけた。
「そこのお前たちも、入ってくるか?」
外で三人分の悲鳴が上がった。ばたばたと逃げていく足音がする。
薄情なやつらだ。
あとでガントに文句を言ってやる。おれを踏み台にしたくせに。
「名前は」
「ト、トマ」
「トマか。俺は朝日富士だ」
「あさひふ……ふじ……あさ……」
舌がもつれた。何回言っても途中で絡まる。
「……アサヒでいい」
「アサヒのおっちゃん」
「……兄ちゃんにしてくれないか」
「だって父ちゃんより大きいもん」
「大きさで決めるな」
「おっちゃん、今の何? 片足ばーんってやつ」
「聞いてないな」
アサヒのおっちゃんは頭をかいた。
「四股っていうんだ」
「しこ」
「足で地面を踏んで、体を作る。俺の国の……稽古だな」
「けいこ?」
「強くなるための練習だよ」
強くなるための。
その言葉が胸のどこかに引っかかった。
「おっちゃん、強いの?」
「まあな」
「どのくらい?」
「……そうだな。この世界でどのくらいかは、まだ分からないな」
変な答えだった。
でもその時のおっちゃんの顔はさっき四股を踏んでいた時と同じだった。遠くの何かを見ているような顔。
「トマ」
背中に冷たい声が刺さった。
振り返るとリネ姉ちゃんが戸口に立っていた。腰に手を当てて。にっこり笑って。
あの笑い方は知ってる。いちばん怒ってる時の笑い方だ。
「人のおうちの窓から、何をしてたのかな?」
「ち、ちがうんだリネ姉ちゃん! これには深いわけが」
「聞かせてもらおうかな。外で」
「おっちゃん、助けて!」
「すまん、トマ。俺も居候の身なんだ」
「裏切り者ー!」
その日おれは日が暮れるまで水汲みの手伝いをさせられた。
泉までの坂を三往復。肩が痛くて腕が上がらない。リネ姉ちゃんは涼しい顔で同じだけ運んでいた。あの細い腕のどこにそんな力があるんだろう。
桶を運びながら何度も思い出した。床に落ちる寸前のおれを受け止めたあの大きな手のひらを。
強くなるための練習。
しこ。
*
次の日の朝。おれは誰よりも早く起きた。家の裏でこっそり片足を上げてみた。
ふらふらする。もっと高く。もっと。
三回目で尻もちをついた。
「いってえ……」
「上げる足ばかり見てるからだ」
頭の上から声が降ってきた。
見上げると垣根の向こうにおっちゃんが立っていた。水桶を二つぶら下げて。朝の水汲みの帰りらしい。
朝の空気が冷たい。おっちゃんの肩からうっすらと湯気が立っていた。おれが起きるよりずっと前から何かしていたらしい。
「み、見てたの!?」
「最初から見てた」
「最初から!?」
顔から火が出そうだった。おっちゃんは笑わなかった。垣根越しにしゃがんでおれと同じ目の高さになった。
「片足で立つ時は、上げる足じゃなくて、残る足に乗るんだ。地面を信じろ」
「地面を……信じる?」
「そうだ。もう一回やってみろ」
言われたとおりにやってみた。上げる足のことは忘れて残る足だけを考えた。
ふらふらしなかった。さっきよりずっと高く上がった。
どすん。
小さな音だった。でもおれの四股だった。
「……できた」
「ああ。いい四股だ」
おっちゃんは立ち上がって水桶を担ぎ直した。
「リネには内緒な。また怒られる」
「うん!」
家の戸口で妹のアンナがこっちを見てくすくす笑っていた。尻もちのところから見ていたらしい。
その朝おれは尻もちを七回ついた。でも八回目は転ばなかった。




