第4話 痛くない膝
◆朝日富士
天井が低かった。
煤けた梁が三本。その隙間から細い光が差し込んでいる。
吊り屋根じゃない。国技館の天井でもない。病院の白い天井でもない。
(どこだ、ここは)
最後に覚えているのは土俵の下から見上げた吊り屋根だ。四隅の房。物言いの声。翔の泣き声。
あの後どうなった。協議は。取り直しは。蒼嵐は。
体を起こそうとして気づいた。布団ではない。藁を詰めた袋の上に寝かされている。体にかけられているのは継ぎの当たった毛布だ。
頭は痛くない。首も動く。指も動く。
右膝を曲げてみた。
ゆっくりと。いつものように。痛みが来るのを待ちながら。
来なかった。
「……は?」
もう一度曲げる。伸ばす。曲げる。
何もない。軋む感じも引っかかる感じもない。七年間ずっと膝の奥に居座っていたあの鈍い痛みがどこにもない。
腹回りの肉の付き方も違う。三十を過ぎてからついた余計な重さが消えている。
毛布をはねのけて立ち上がった。
狭い部屋だった。土の壁。藁で編んだ敷物。壁には鍬と鎌が掛けてある。土間の竈には火の気がない。隅に置かれた水甕は半分も満たされていない。
部屋の奥に小さな棚があった。棚の上に円い石の板が立てかけてある。板の真ん中には輪の中で組み合う二人の人の形が彫られていた。板の前には干した花がひと束供えてある。
(なんだ、これは)
見ているうちに胸がざわついた。だがそれより先に確かめたいことがあった。
右足だけで立つ。体重を全部乗せる。平気だ。
そのまま右足を高く上げた。天井の梁に爪先が届きそうなほど高く。
下ろす。
どすんと床が鳴った。
足の下で床板が一枚わずかにへこんだ。
「ひゃあっ!」
戸口で悲鳴が上がった。
振り返ると桶を抱えた娘が立っていた。目をまん丸にしている。
「あ……すまない。驚かせた」
「い、いえ。こちらこそ。お、起きたんですね」
娘はおそるおそる部屋に入ってきた。
亜麻色の髪を後ろでひとつに束ねている。息をのむほど整った顔立ちだった。粗末な麻の服がかえってそれを際立たせている。
その声に聞き覚えがあった。
「君は……川で水をくれた」
「覚えてるんですか?」
「声だけは。ありがとう。……チャシ」
「ちゃし?」
「ああ、いや。ごっつぁんです、だ。ありがとうって意味の、俺の国の言葉でな。言い慣れすぎて縮んじまった」
「ずいぶん縮みましたね。……あの時も言ってました。ちゃし、って」
娘がくすりと笑った。笑うと目尻が少し下がる。
言葉が通じている。
ここがどこなのかも分からない。それなのに言葉だけは当たり前のように通じている。なぜなのかは分からない。だが今はそれを考えている余裕がなかった。
「リネです。ツチフミ村の村長の娘です」
「リネ」
「はい。年は十七です。……あ、聞かれてませんね」
リネは少し赤くなった。
「あなたは丸二日眠ってたんですよ。村の男の人が十人がかりで運んできたんです」
「十人……」
「戸板が一枚割れました」
「……すまない」
「薬師のお婆さんにも診てもらいました。脈を取って、お腹をさわって、腹が減ってるだけだろうって」
「……当たってるな」
リネはまた笑った。それから急に真顔になって頭を下げた。
「あの、それから……ごめんなさい」
「何が」
「川で見つけた時、柄杓でつついちゃいました。魔物かと思って」
「魔物」
「熊かとも思いました」
「熊……」
熊とはよく言われた。土俵の上では褒め言葉だった。
「リネ、誰と話してる」
戸口から低い声がした。
髭をたくわえた男が立っていた。日に焼けた顔に深い皺が刻まれている。その後ろには若い男がいた。リネと同じ亜麻色の髪。左腕を布で吊っている。
「父さん。兄さん。この人、目を覚ましたの」
「そうか」
髭の男が部屋に入ってきた。俺の頭から足の先までをじっと眺める。
「村長のゲルトだ。こっちは息子のカイ」
「お世話になっています。助けていただいて、ありがとうございました」
俺は膝をついて頭を下げた。ゲルトさんが少し目を丸くした。
「礼儀は知っとるようだな。……あんたが何者かは知らんが、しばらくうちで休んでいけ。娘が拾ってきたものを放り出すわけにはいかん」
「拾ってきたもの……」
「父さん!」
リネが顔を赤くした。カイは戸口に寄りかかったまま俺を睨んでいる。
「親父。こいつ、本当に人間か」
「カイ。口を慎め」
「……腹が減ったら言え。少ししかねえけどな」
カイはそれだけ言うと出ていった。ゲルトさんも小さく頭を下げて後に続いた。
「ごめんなさい。兄さん、去年から少し気が立ってて」
「いや。気にしてない」
気にしていないのは本当だった。あの目は知っている。負けた男の目だ。
膝を壊した後、鏡の中で何度も見た目だった。
「あなたのお名前は?」
名前。
一瞬迷った。本名を言うべきか。いや。俺にとっての名前はずっとこれだった。
「朝日富士」
「あさひ……ふ、ふじ……?」
リネが舌を噛みそうな顔をした。この国の人には言いにくい響きらしい。
「アサヒでいい」
「アサヒさん」
リネはその響きを確かめるように繰り返した。
四股名を縮めて呼ばれるのは入門して以来だ。妙にくすぐったかった。
「アサヒさんは、どこから来たんですか? こくぎかん、っていうところですか?」
「……ここは、どこなんだ」
「ツチフミ村です。ベッカ村の下流の」
「日本の、どの辺りだ」
「にほん?」
リネが首をかしげた。冗談を言っている顔ではなかった。
「ここはベッカ村の下流で……その先はグラウス伯爵さまのお城がある町で、もっと先に王都があるそうです。私は行ったことがありませんけど」
「伯爵……王都……」
知っている地名はひとつも出てこなかった。
窓の外を見た。
土壁の家。藁葺きの屋根。痩せた畑で腰を曲げる老人。井戸の前に並んだ空の桶。干上がった水路。電線が一本もない。遠くの山並みに見覚えがない。
空の色さえ少し違う気がする。東京の空はいつも白く霞んでいた。ここの空は深く青い。
部屋の隅に水を張った桶があった。
覗き込む。水面に映った顔はたしかに俺の顔だった。
だが少し若い。
頬の線が締まっている。目の下の皺が浅い。膝を壊すより前の顔。二十五の頃の顔だ。
崩れた大銀杏が額に垂れ下がっている。
(まさか)
しゃがみ込んで右膝を見た。
あるはずのものを探した。三度の手術で刻まれた三本の傷跡。七年間見続けてきた縫い目。
どこにもなかった。
「アサヒさん?」
リネの声が遠くに聞こえた。
俺は傷ひとつない膝に手を当てたまましばらく動けなかった。
喜ぶべきなのか。怖がるべきなのか。分からなかった。分かるのはただ一つ。この膝なら、もう一度思いきり踏み込める。
「……リネ」
「はい」
「ここは、俺の知ってる世界じゃないみたいだ」




