第3話 川辺の大男
◆リネ
夜明け前の小川は細い糸のようだった。
去年の今ごろは膝まで浸かって洗い物ができた。今は桶を沈めるのにも石をどけて窪みを作らなければならない。
「……今日も少ない」
ひとりごとが乾いた河原に落ちて消えた。
母さんが生きていた頃、水汲みは母さんと二人の仕事だった。母さんは桶を頭に乗せて歌いながら歩いた。私はその後ろを小さな桶を抱えてついていった。
今は私一人だ。父さんは村長の仕事で朝から家を空ける。兄さんは去年の郷戟で腕を折ってから右手しか使えない。だから水汲みは私の仕事になった。
夜明け前に起きて河原へ下りる。二往復して家の甕を満たす。それから竈に火を入れて粥を炊く。毎朝その繰り返しだ。
甕の水は日に日に減っていく。粥はそのぶん薄くなる。父さんも兄さんも何も言わない。言わないから余計に分かる。
上流にはベッカ村の堰がある。三年前の郷戟に負けてから川の水はほとんどあちらに取られてしまった。私たちの村に流れてくるのは堰からこぼれたわずかな残りだけだ。
桶を二つ抱えて河原へ下りる。
その時だった。
「……え?」
浅瀬に岩があった。
昨日まではなかった岩だ。大きくて丸くて肌色で。
肌色?
「いわ……じゃ、ない」
人だった。
人の形をしたとても大きな何かが浅瀬にうつ伏せで倒れていた。
背中は小山のように盛り上がっている。腕は私の腰より太い。
身につけているのは腰に巻いた紺色の帯だけ。幅の広い帯を幾重にも巻きつけてお尻の上で固く結んである。
頭のてっぺんでは黒い髪が扇のような形に結い上げられていた。半分ほどほどけて濡れた額に張りついている。
「熊……? ううん、熊は帯なんか締めないし」
手にしていた柄杓をそっと伸ばす。
つん。
背中をつつく。びくともしない。もう一度。つんつん。
「……生きてますか?」
返事はない。
でも背中がゆっくりと上下している。息をしている。
「ど、どうしよう。川の神さま? それとも魔物? 魔物だったら私、食べられちゃう?」
逃げようか。人を呼ぼうか。
迷っていると大きな体がもぞりと動いた。
「……とり……なおし」
「ひゃっ!」
桶を落とした。乾いた音が河原に響く。
大きな体がごろりと仰向けになった。
顔が見えた。
思っていたよりずっと穏やかな顔だった。眉が太くて鼻筋が通っていて目尻には笑い皺がある。若くはない。父さんより少し下くらいだろうか。
「……取り直し、だ。立たないと。もう一番……」
「とりなおし? なんのことですか?」
うっすらと目が開いた。
黒い瞳がぼんやりと私を映す。
「……行司さん? いや……違うな」
「ぎょうじ?」
「ここ……国技館じゃ、ないな」
「こくぎかん? ここはツチフミ村の小川ですけど」
大きな人はしばらく私を見つめていた。
生まれて初めて朝日を見る人のような目で。
「……水」
「え?」
「水を……もらえるか」
私は足元の桶を見下ろした。
底にほんの少しだけ水が残っている。今朝汲めた分の半分。家に持ち帰れば父さんと兄さんの今日の飲み水になるはずの水だ。
迷ったのはほんの一瞬だった。
母さんならきっとこうした。困っている人に水を惜しむような人じゃなかった。
「どうぞ」
柄杓で掬って口元へ運ぶ。
大きな喉がごくりと鳴った。もう一杯。もう一杯。
「……うまい」
大きな人は目を閉じて長い息を吐いた。それから私を見て笑った。
子どもみたいな笑い方だった。
「ありがとう。……チャシ」
「ちゃし……?」
聞き返す前にその人はまた眠ってしまった。
握りしめた右の拳が河原の砂に押し当てられている。何かを待つように。何かへ向かっていくように。
「リネー! どこだー、リネー!」
土手の上から声がした。男衆頭のダグさんだ。後ろにトマもいる。
「ダグさん、こっち! 人が倒れてるの!」
「人ぉ? こんな朝っぱらから、酔っ払いか?」
土手を駆け下りてきたダグさんが浅瀬を見てぴたりと止まった。
トマが私の背中に飛びついてくる。
「で……でっけええええ!」
「声が大きいよ、トマ」
「だってリネ姉ちゃん、これ人? 魔物じゃないの? 食われない?」
「魔物は帯なんか締めねえだろ」
ダグさんが顎をさすった。
「しかし見事な結び目だな。どこぞの貴族さまか、こりゃ」
「帯もすごいよ。ほら、つやつやしてる」
「絹か? こんな太い絹の帯、町の仕立て屋でも見たことねえぞ」
「貴族さまが裸で川に落ちてるわけないでしょう」
「そりゃそうだ」
ダグさんは大きな人の肩に手をかけて持ち上げようとした。
持ち上がらない。
両手でやっても持ち上がらない。顔を真っ赤にしても持ち上がらない。
「……リネ。こいつを運ぶのに男が何人いると思う」
「さあ……三人?」
「八人だ。いや十人だ。トマ、戸板も持ってこいって言え!」
トマが村へ駆けていく。大声で叫びながら。
「リネ姉ちゃんが川ででっかい男を拾ったぞー!」
「拾ってない!」
ダグさんが腹を抱えて笑った。
「こりゃ村じゅうの噂になるぞ。村一番の別嬪が、川で男を拾ってきたってな」
「ダグさん!」
村の男たちが戸板を担いでやってきたのはそれからしばらく後のことだった。
「せーのっ!」
「重っ! なんだこれ、岩か!」
「岩じゃねえ、人だ!」
「人の重さじゃねえだろ!」
十人がかりで持ち上げた戸板がみしみしと鳴った。土手を上る途中で一人が足を滑らせる。戸板が大きく傾いた。
「落とすな! 落としたら川の神さまの祟りがあるぞ!」
「魔物かもしれねえんだろ!?」
「魔物でも落とすな! 起きたら怒るだろうが!」
男たちが顔を真っ赤にして叫び合う。その真ん中で大きな人はぐうぐうと寝息を立てていた。
トマが戸板の横を歩きながら大きな人の腕をつついている。
「すげえ。腕が石みたいに硬い」
「トマ、触らないの」
「リネ姉ちゃんも触ってみなよ。ほら」
「触りません!」
言いながら少しだけ触ってしまった。本当に石みたいだった。それなのにほんのりと温かかった。
十人がかりでようやく持ち上がった大きな人は戸板の上でもまだ右の拳を握っていた。
最後に土手を下りてきたのはバルド爺さまだった。村でいちばんの年寄りで杖なしでは歩けない人だ。
騒ぎを聞きつけて河原には村じゅうの人が集まっていた。おかみさんたちがひそひそと噂し合い、子どもたちは大人の足の間から顔を出している。その人垣を爺さまは杖でかき分けるようにして前へ出てきた。
「どれ。川の神さまとやらを拝ませてもらおうかの」
口ぶりは冗談めかしていた。けれど目だけは少しも笑っていなかった。
爺さまは戸板の上の大きな人を見下ろした。その頭の扇のような髷に目を留めた。
そして杖を取り落とした。
からん、と乾いた音が河原に響いた。誰も拾おうとしなかった。
「爺さま?」
「……白き巨人の、髷じゃ」
しわがれた声が震えていた。
「言い伝えのとおりじゃ。白き巨人は、あの形に髪を結うておられた……」
朝日が山の端から顔を出す。
最初の光が大きな人の握りしめた拳を照らしていた。
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