第2話 同体
◆蒼嵐
土俵に上がると音が消える。
一万人の歓声が遠のいて自分の心臓と行司の装束の衣擦れだけが残る。子どもの頃からずっとそうだった。今日もそうなるはずだった。
なのに今日は向かいの男の呼吸が聞こえる。
塩を取る。高く撒く。土俵の真ん中に戻って蹲踞する。仕切り線の手前で拳を下ろす。立たずにまた塩へ戻る。
制限時間までの四分間。僕はいつもこの時間をゆっくり使う。相手の焦りを待つためだ。たいていの相手は二度目の塩で肩に力が入る。三度目には呼吸が浅くなる。
あの人は違った。最初の仕切りから同じ顔をしている。笑ってさえいるように見える。
「蒼嵐、二度目の塩です。朝日富士はもう仕切り線の前で待っています」
「朝日富士は仕切りが早いですね。いつでも行ける、という構えです。蒼嵐はじっくり時間を使う。対照的な二人です」
「北嶺さん、蒼嵐はやはり右を差したいところですか」
「右を差して廻しを取れば蒼嵐です。ただ、朝日富士の当たりを正面から受け止められる力士は、ほとんどいません。あの長い腕で受け止め切れるかどうかです」
朝日富士関。
もっと前から知っていた。
十一歳の冬。北の港町の小さな家でテレビを見ていた。漁から戻った父さんが風呂に入っている間だけ、相撲中継を見ていいことになっていた。
画面の中で十九歳の新大関が、自分よりずっと大きな相手を押し出していた。低く当たって下からはね上げて。一度も後ろに下がらずに。
「この人、ちっちゃいのに強いね」
「ちっちゃいから強いんだ。下から行けるからな」
風呂上がりの父さんがそう言った。僕はその夜、布団の中で何度もあの立ち合いを思い出した。
高校では柔道部にいた。卒業の春に相撲部屋に入りたいと言った時、父さんは何も聞かなかった。ただ一言だけ言った。
「下から行ける相手に、負けるなよ」
僕が入門した六年前。あの人は番付を転げ落ちていく途中だった。
出稽古で一度だけ胸を借りたことがある。十五番取って一番も勝てなかった。膝のサポーターを二重に巻いた元大関に。
「坊主。お前、いい腰してるな」
「……ありがとうございます」
「次は勝ちに来い。待ってるから」
あの夜僕は悔しくて眠れなかった。
あれから六年。僕は大関になった。あの人は序二段から這い上がってまた大関になった。
そして今日。同じ綱を懸けて向かい合っている。
朝日富士に負けたら横綱はない。新聞にもテレビにもそう書かれた。
分かっている。だから受け止める。この長い腕で受け止めて右を差して廻しを取る。
廻しさえ取れば終わる。そこで終わるのはいつも相手の相撲だった。
「時間です!」
「さあ時間いっぱい! 両大関、最後の仕切り。館内は総立ちです!」
最後の塩をつかむ。手のひらの塩が汗で固まっている。向正面の溜まり席で審判の親方衆が腕を組んでいる。正面の升席には綱取りを見届けに来た横綱審議委員たちの顔も並んでいる。
朝日富士関が拳を下ろす。
低い。
大関でいちばん小さな体がさらに沈んでいく。土俵に根を張るように。獲物を前にした獣のように。
(来い)
僕も拳を下ろした。
「待ったなし! 手をついて!」
吸う。吐く。
あの人の呼吸と僕の呼吸が重なった。
立った。
その瞬間に世界が揺れた。
胸に何かが突き刺さる。肩でも頭でもない。下からだ。地面の底から突き上げてくる。
受け止めるはずだった。長い腕で抱え込むはずだった。その腕の下をくぐって来た。
顎が上がる。踵が浮く。一歩。二歩。三歩。足の裏が勝手に後ろへ滑っていく。
「のこった! のこったのこった!」
「朝日富士の当たり! 蒼嵐下がる! 一気に俵まで!」
「速い! これが朝日富士の立ち合いです!」
(右だ。右を差せば止まる)
父さんの声が聞こえた気がした。下から行ける相手に、負けるなよ。
分かってる。だから六年かけてこの腕を作った。下から来る相手を、上から抱え込むための腕を。
腕をねじ込もうとした。入らない。
朝日富士関の両手が僕の脇を下からはね上げ続けている。おっつけだ。肘を締め上げられて右腕が殺される。息ができない。
「蒼嵐、俵に足がかかった! 残せるか!」
「左です、左の上手! 届いた!」
届いた。
指先がまわしを掴む。左上手。廻しを取った。取ってしまえば終わる。これが僕の相撲だ。
投げる。この体勢からなら投げられる。
「上手投げ! 蒼嵐が俵の上で投げを打った!」
腰をひねる。朝日富士関の体が傾く。
傾いたはずだった。
なのに押してくる。投げられながらまだ前へ出てくる。
(この人は)
どうして倒れながら前へ来るんだ。
どうして。
「朝日富士まだ押す! 二人もつれて、土俵の外へ!」
「どっちだ! どっちが先だ!」
足が俵を越える。体が宙に浮く。
視界の端にあの人の頭が見えた。僕より先に。真っ逆さまに。土俵の下へ。
(危ない)
あの人の頭が先に落ちる。受け身を取れない角度で。誰か。誰か止めてくれ。
手を伸ばした。
届かなかった。
そして僕も落ちた。
◆朝日富士
背中が冷たい。
いや頭か。どこが痛いのか分からない。分からないくらいに静かだ。
俺は土俵の下で仰向けになっているらしい。吊り屋根が見える。四隅の房がやけに鮮やかだ。青。赤。白。黒。
落ちる瞬間のことは覚えている。
俺の頭が土俵の外へ落ちていく。それと同じ速さで蒼嵐の背中も落ちていった。どちらが先でもない。肌がそう言っていた。
(同体だ)
十七年土俵に上がってきた。勝ちも負けも体のほうが先に知る。今のは勝ちでも負けでもなかった。
「物言いだ!」
「審判が手ぇ挙げてるぞ! 五人とも上がってく!」
升席からの声が遠くに聞こえる。ほらな。
場内のざわめきが寄せては返す波のようだ。一万人が息をのんで協議の行方を待っている。
(取り直しだ)
蒼嵐の顔が浮かぶ。
六年前の出稽古。十五番取って一番も勝てなかった坊主。それでも十五番とも前に出てきた。負けるたびに顔を真っ赤にして仕切り線に戻ってきた。
あの時から分かっていた。いつかこいつが俺の前に立つ日が来る。
来たな、坊主。
取り直し。もう一番か。
いいね。最高だ。最高の千秋楽じゃないか。
(立て)
立たないと。協議が終わったら塩を撒いて蒼嵐の前にもう一度拳を下ろすんだ。
「朝日富士関! 動かないで! 動かないでください!」
「担架! 早く担架を!」
「大関! 大関っ!」
翔の声がする。
泣くなよ。鼻水が出てるぞ。
膝は痛くない。不思議なくらい痛くない。ただ体がどこにもない。
七年前のあの日も土俵の下でこうして吊り屋根を見ていた。膝の中で何かが切れる音を聞いた。あの時は痛みしかなかった。今は痛みさえない。それが少しだけ怖かった。
朝の国技館を思い出す。
序二段の取組はまだ客もまばらな時間に組まれる。がらんとした升席を見上げながら俺は取った。誰も見ていない稽古場で毎朝五百回の四股を踏んだ。
あの頃の俺に言ってやりたい。
稽古は裏切らなかったぞ。ここまで来たぞ。綱まであと一番だ。
(のこった、のこった)
翔。お前が言ったんだったな。
ああ。残ってやるよ。
まだ取り直しが残ってる。
そこで俺の世界は暗転した。




