第1話 結びの一番
◆翔
「さあ、両国国技館。九月場所千秋楽、残すは結びの一番のみとなりました」
「館内の空気がまるで違いますね。長年相撲を見てきましたが、こんな千秋楽は初めてです」
「十三勝一敗どうしの相星決戦。しかも東西の両大関が、ともに綱取りの場所です。勝った方が幕内優勝、そして横綱昇進をほぼ手中に収めます」
支度部屋の隅のモニターから実況と解説の声が流れてくる。
鬢付け油の甘い匂いと男たちの汗の匂い。千秋楽の支度部屋はいつも息苦しいほどに熱い。今日は格別だ。
俺はその熱の真ん中で大関の右膝にテーピングを巻いていた。
「翔。きつい」
「すみません、巻き直します」
「いや、いい。今日はきついくらいがちょうどいい」
大関が笑った。
三十二歳の笑い方じゃない。入門したての子どもみたいな顔だった。
「緊張してないんですか」
「してるさ。ほら」
差し出された分厚い手のひらはほんのわずかに震えていた。
「怖いんですか」
「楽しいんだよ。十三年待った一番だ」
十三年。
大関が初めて大関に上がったのは十九歳の時だった。史上でも指折りの早さだ。誰もが綱はすぐそこだと言った。
けれど綱に届かないまま六年が過ぎた。
二十五歳の春。大関は土俵で右膝を壊した。
靭帯が切れて骨が欠けた。手術は三度。休場のたびに番付は坂を転げ落ちていった。
関脇。平幕。十両。幕下。三段目。
そして序二段。
「序二段にいた頃のこと、覚えてるか」
「忘れませんよ。俺が入門した場所ですから」
四年前の春。中学を出たばかりの俺が初めて稽古場に降りた朝。
一番に土俵へ上がってきたのが大関だった。
かつての大関が序二段の番付で十五歳の新弟子と並んで四股を踏んでいた。誰も笑わなかった。笑えなかったのだと思う。あの人の四股は朝の稽古場のどんな音よりも重かったから。
あの朝のことは今でもはっきり覚えている。
まだ暗いうちに起こされて稽古場に降りた。土俵の土は冷たかった。兄弟子たちの四股の音が腹に響いた。何をすればいいのか分からなくて俺は隅で突っ立っていた。
「おい、新弟子」
声をかけてきたのが大関だった。右膝に分厚いサポーターを二重に巻いていた。
「突っ立ってても強くならねえぞ。胸、出してやる。当たってこい」
言われるままにぶつかった。弾き返された。もう一回。また弾き返された。二十回ぶつかって二十回とも尻もちをついた。
あの二十回は今でも体が覚えている。胸に当たった瞬間の、岩に頭から突っ込んだような感触を。
「いい当たりだ。もう一丁」
大関は一度も嫌な顔をしなかった。俺が半べそをかいてもただ胸を叩いて待っていた。
後で親方に聞いた。新弟子に胸を出すのは本来なら上の者の役目だと。膝の悪い元大関が朝いちばんに土俵に下りて新弟子の相手をするなんて前代未聞だと。
「あいつは、自分がいちばん下にいる時でも上を向いてる。翔、お前もよく見ておけ」
親方はそう言って少しだけ笑った。
あの日から俺は大関の付け人になった。
「あの頃の大関、毎朝四股を五百回踏んでましたよね」
「お前は三十回で泣いてた」
「泣いてません。汗です」
「鼻水も出てたぞ」
「出てた出てた」
「床山さんに拭いてもらってたよな、翔」
「ちょっと、やめてくださいよ! 千秋楽ですよ今日!」
着替えていた兄弟子たちが次々に茶々を入れる。張りつめた支度部屋の空気がほんの少しだけゆるんだ。
うちの部屋で関取は大関ただ一人だ。幕下の朝日丸さんも三段目の若朝日さんも、大関の背中を追いかけて毎朝土俵に降りている。今日は全員が支度部屋に詰めかけていた。誰も口には出さないが、みんな同じことを考えている。
もし今日勝てば。部屋の全員で綱を打つことになる。麻をより合わせて太い綱を作る綱打ちだ。兄弟子たちは昨日の夜からそわそわしている。俺も夢に見た。
大関も肩を揺らして笑っていた。それから右膝をぽんと叩いて立ち上がった。
百七十八センチ。百四十八キロ。
幕内の力士の中でも軽いほうだ。その体で大関に二度上がった人だ。
大関としては小さい。上位陣ではいちばん小さい。それでもこの人が立つと支度部屋の天井が低くなった気がする。
「対する蒼嵐は二十四歳。百九十二センチの長身に長い手足、入門からわずか六年での大関昇進です。大関として三場所、ここまで合計三十二勝。今日勝てば三十三勝に届きます」
「数字は十分です。ただ、同じく綱を狙う朝日富士に負けるようなら、横綱はないだろうというのが大方の見方でしょう。蒼嵐は長い手足で相手を受け止めての右四つ。廻しを取ればその時点で相撲が終わる、と言われるほどの怪力です。対する朝日富士は、低く鋭い立ち合いからの押し。組み止めれば蒼嵐、押し切れば朝日富士。分かりやすい一番です」
「朝日富士は大関から序二段まで落ち、そこから這い上がっての大関復帰。年齢を考えると、これが最後の綱取りになるかもしれません」
最後。
その一言で支度部屋の空気が止まった。兄弟子たちが気まずそうに目を逸らす。誰かがモニターの音を絞ろうとリモコンに手を伸ばした。
「いい。そのままにしとけ」
大関だけが動じていなかった。
「翔」
「はい」
「最後かどうかは土俵が決める。実況席じゃない」
俺は唇を噛んだ。最後なんて言わせない。この人の相撲はまだ終わらない。そう思うのに声にならなかった。
大関は締め込みを両手で叩いた。
乾いた音が支度部屋に響く。紺色の絹の締め込み。序二段にいた頃は黒い木綿のまわしだった。それがもう一度絹に戻った日の大関の顔を俺はたぶん一生忘れない。
十両に戻った場所の初日。真新しい絹の締め込みを受け取った大関は、しばらく黙ってそれを撫でていた。それから俺のほうを向いて言った。
「翔。お前が締めてくれ」
付け人になって一年目だった。手が震えてうまく締められなかった。大関は何度でも両腕を上げて待ってくれた。
「焦るな。締め込みは逃げねえよ」
あの時の大関の声も、俺はたぶん一生忘れない。
「行ってくる」
「大関」
「ん」
言いたいことは山ほどあった。
ありがとうございます。勝ってください。綱を締めた大関の土俵入りが見たいです。
喉まで来た言葉はどれも重すぎた。結局出てきたのはひとつだけだった。
「……のこった、のこった」
「なんだそりゃ」
「行司さんより先に俺が言っときます。大関は、残る人ですから」
大関は一瞬きょとんとした。
それから天井を仰いで声を上げて笑った。
「おう。残ってやるよ」
通路の奥へ大関の背中が遠ざかっていく。
花道の向こうから歓声がうねりのように押し寄せてくる。兄弟子たちはモニターの前に集まった。俺は一人だけ通路の入り口に立って、遠ざかる背中を見送った。
大きな人だと思っていた。大関の中では小さい方なのだと知ったのは入門してからだ。
それでも俺はあの背中より大きなものをほかに知らない。
「朝日富士が花道に姿を見せました! この大歓声! 国技館が揺れています!」
あの時の俺はまだ知らなかった。
それが大関の背中を見る最後になることを。




