第25話 清めの巫女
◆エステル
わたくしは今日も神さまの沈黙を清めに行く。
聖堂の馬車はよく揺れる。向かいの席では老審司のホルストさまが居眠りをしている。白い髭が寝息に合わせて揺れていた。
膝の上には神土の袋が三つ。聖堂の裏山から掘り出した白い土だ。袋の口からこぼれた土が、白い衣の裾についている。
清めの巫女になって七年。戟環を清めた数はもう覚えていない。三百か。四百か。
わたくしは王都の下町の生まれだ。父の顔は知らない。母は洗濯女で、わたくしが幼い冬に流行り病で死んだ。身寄りのない子どもは聖堂が引き取る。それがこの国の決まりだ。
聖堂に来て最初に覚えたのは祈りの言葉だった。次に覚えたのは聖語の発音だった。わたくしは聖語を覚えるのが誰よりも早かった。舌のよく回る子だと、老巫女さまに褒められた。
聖堂の書庫には、始祖の時代の絵が一枚だけ残っている。扇の形の髷を結った巨人が、円の中で片足を高く上げている絵。幼いわたくしは、その絵の前で何時間も過ごした。
清めの巫女に選ばれた日、わたくしは神さまに会えると思っていた。
やることはいつも同じだ。
聖堂から運んだ神土を戟環に敷く。塩を撒く。祝詞を唱える。土俵律の一節を読み上げて結界を張る。すると戟環の縁に淡い光の線が浮かぶ。結界が張られた証だ。
それだけ。
結界は張られる。けれどそこにいるはずの神さまは一度も応えたことがない。
清めのたびに、わたくしは心の中で問いかけた。神さま、いらっしゃいますか。わたくしの声が聞こえますか。
答えは一度もなかった。光の線は張られる。けれどそれは土俵律の言葉が持つ力なのだと、聖堂の学者たちは言う。神さまの声ではないと。
三年目の冬、わたくしは問いかけるのをやめた。それからはただ手順をなぞった。
わたくしが清めた戟環で、何百人もの戟士が取ってきた。勝った者は神さまに感謝し、負けた者は神さまを恨んだ。どちらも、神さまが見ていると信じていた。わたくしだけが、信じていなかった。
先輩の巫女たちは言う。神さまは応えないものだと。応えないからこそわたくしたちは祈り続けるのだと。
わたくしはそれを信じられない。
応えない神さまに捧げる祈りはただの作業だ。
それでもわたくしは巫女をやめなかった。ほかに行く場所がなかったからだ。わたくしは聖堂の誰よりも丁寧に戟環を清める。そう言われてきた。丁寧にするのは、ほかにすることがないからだ。
「……ん。着いたかね、エステル」
「まだです、ホルストさま。あと半刻ほど」
「そうか。……郷戟だったな。ツチフミとベッカの」
「はい。水利の争いです。四年続けて同じ争点で」
「ああ、あそこか。毎年ベッカの大男が勝つ」
ホルストさまは欠伸をした。
ホルストさまは三十年審司を務めてきた方だ。数えきれない一番を裁いてきた。その目に驚きが浮かぶのを、わたくしは見たことがない。
「去年も裁いたがね。立ち合いからあっという間だった。今年も同じだろう」
去年、わたくしは別の村の戟環を清めていた。この河原に来るのは初めてだ。
「今年は、ツチフミが代表を替えたそうですよ」
「ほう」
「出張所で揉めていました。余所者だとかで。籍帳に名を載せて片がついたそうです」
「余所者ねえ。どこぞの流れ者か」
「川から拾われた大男だそうです」
「川から?」
「ええ。最初の日は、頭に扇の形の髷を結っていたとか」
ホルストさまが眉を上げた。それからまた目を閉じた。
扇の形の髷。書庫の絵が頭をよぎった。けれど、まさか。そんなことがあるはずがない。
「まあいい。誰が出ても同じことだ。わしは神配を上げ、あんたは土を清める。それだけさ」
「……はい」
「お前さんは真面目すぎるな、エステル。神さまに会いたいなんぞ、巫女の言うことじゃない」
目を閉じたまま、ホルストさまが言った。この方には一度だけ、その話をしたことがある。
「……心得ております」
それだけ。
そう。それだけだ。
窓の外に乾いた畑が広がっていた。
この辺りは日照りがひどいと聞いた。畑の半分が茶色く枯れている。それでも遠くには青々とした畑も見える。川の上流のベッカ村だ。
同じ空の下なのに水があるかないかでこんなにも違う。
道端で痩せた子どもたちが馬車に手を振っていた。ツチフミの子どもたちだろう。
その水を裸戟の一番が決める。神さまの名において。
わたくしが清めた戟環の上で。
(神さまは、この景色を見ているのかしら)
見ていないのだろう。見ているならとっくに何か言っているはずだ。
馬車が止まった。
両村の境の河原。郷戟の戟環はここに築かれる。
降りるとすでに人が集まっていた。ベッカの村人とツチフミの村人。互いに距離を取って睨み合っている。
ツチフミの人々の中に、亜麻色の髪の美しい娘がいた。籠を抱えて、心配そうに河原の向こうを見ている。
その真ん中に盛り土が築かれていた。まだ清められていないただの土の円だ。
「巫女さま! お待ちしておりました!」
小太りの男が揉み手をしながら駆け寄ってきた。ベッカの村長だろう。わたくしは聖堂で教わったとおりの笑みを浮かべた。
「清めは明日の朝に行います。今日は土の検めを」
「は、はい! どうぞどうぞ!」
「巫女さま、長旅でお疲れでしょう。宿にはベッカでいちばんの部屋を……。巫女さまのお美しさは、ベッカでも評判でございまして」
「お気遣いなく。聖堂の天幕で休みます」
ベッカの村長は、少しだけつまらなそうな顔をした。
盛り土に近づいてしゃがみ込んだ。土を一つまみ指に取る。
乾いた土。神土ではない。神土は明日わたくしが敷く。
土は痩せていた。乾いて、白っぽく粉を吹いている。この土地がどれほど水に飢えているか、指先だけで分かった。
その時だった。
どすん。
足の裏に震えが来た。
地鳴りではない。地震でもない。誰かが、土を踏んだのだ。
土が微かに跳ねた。
顔を上げた。
河原の向こう。ツチフミの人々の後ろで一人の大男が片足を高く上げていた。
遠目にも分かる大きな体。頭の上には小さく束ねた髷が乗っている。
どすん。
また来た。
足の裏から胸の奥へ。指先の土くれがわたくしの指の上でかすかに転がった。
指先がしびれた。耳の奥で、鈴のような音が鳴った気がした。
(……今のは)
片足を上げるあの姿。書庫の絵が、また頭をよぎった。
清める前の土が震えた。
神さまのいないただの土が。




