第26話 結界が震えた
◆エステル
翌朝。夜明けとともに清めを始めた。
聖堂から運んだ神土を盛り土に敷き詰めていく。白い麻袋から一握りずつ。円の縁から中心へ。
神土は聖堂の裏山から掘り出した白い土だ。始祖が最初に地を踏んだ山の土だと伝えられている。敷き詰めたら木の板で平らにならす。俵の位置を確かめる。東西の仕切り線を白い粉で引く。
両村の人々が遠巻きに見守っている。この儀式は見せるためのものでもあるのだ。郷戟が神の名において行われることを皆の目に刻むために。
ツチフミの人々の前列に、昨日の大男の姿があった。腕を組んで、じっと神土を見ている。
塩を撒く。
清めの塩は、前の年に郷戟で勝った村が奉納する習わしだ。この三年はベッカの塩だという。ベッカの裏山には塩の湧く泉があって、この辺りでは塩はありふれたものらしい。塩の乏しい土地なら、聖堂が海辺の塩田でつくる神塩を分け与えるところだ。円の四方に、東から順に撒いていく。
人々は、塩を撒かなければ負けると信じている。清めの本当の意味を覚えている者は、もう聖堂にもいない。
祝詞を唱える。
聖語の混じった古い祝詞だ。意味の分からない言葉がいくつもある。カシコミ、カシコミ。わたくしはそれを意味も知らずに七年唱えてきた。
最後に土俵律の一節を読み上げる。
「円の内は神の庭。刃は眠り、術は鎮まり、ただ裸の身ひとつが戟となる」
読み上げる声が、朝の河原に吸い込まれていく。
戟環の縁に淡い光の線が走った。白い俵に沿ってぐるりと一周。
結界が張られた。いつもどおりに。
七年間、何百回と見てきた光だ。きれいだとは思う。けれど、それだけだ。
「お見事です、巫女さま」
「ありがとうございます」
ホルストさまの言葉に会釈を返す。いつもどおりに。
あとは郷戟の日を待つだけ。わたくしの務めは終わりだ。
「審司さま」
低い声がした。
「戟環を、一度踏ませていただけませんか」
振り返ると昨日の大男が立っていた。ツチフミの代表。川から拾われたという余所者。
近くで見ると思っていたより背は高くない。けれど体の厚みが違う。腹が出ているのに締まっている。肩から腕にかけての肉はまるで岩を彫ったようだった。
「戟環を踏む? 取組の前にかね」
「はい。土の具合を確かめたいんです。俺の国では、土俵に上がる前に必ず足で確かめます」
「どひょう?」
「……戟環のことです」
どひょう。
聖典の題にだけ残る古い聖語だ。この人はそれを、ごく当たり前の言葉のように口にした。
ホルストさまは少し考えてからうなずいた。
「代表が戟環を検めるのは、土俵律で許されとる。ベッカの代表にも同じ機会をやる。いいだろう」
「ありがとうございます」
大男は草履を脱いだ。裸足で俵をまたぐ。
大きな足だった。指が一本一本、土をつかむように開いている。
円の中に入った瞬間に何かが変わった気がした。
大男は円の中心に立った。ゆっくりと腰を落とす。両手を膝に置く。
右足が上がる。
高い。
信じられないほど高く。足の裏が天を向く。片足で立つ巨体が少しも揺れない。
そして。
どおん。
地が鳴った。
次の瞬間にわたくしは息を忘れた。
結界が震えていた。
俵に沿って走る光の線が波打っている。足が踏み下ろされた場所から光の輪がいくつも広がる。円の縁にぶつかって揺れ返す。水面に石を投げ込んだように。
光の波は円の縁にぶつかるたびに、鈴を鳴らすような音を立てた。足の下で神土がかすかに震えている。わたくしが敷いたばかりの、白い土が。
「なっ……なんだ、これは」
ホルストさまは神配を取り落としそうになっていた。三十年審司を務めてきた方が、口を開けたまま固まっている。
「……結界が、揺れた。こんなことは聞いたこともない」
ホルストさまの声がかすれていた。
両村の人々がどよめいている。でもその声は遠かった。
ベッカの人々の間から悲鳴のような声が上がった。ベッカの村長が真っ青な顔で後ずさっている。
「ま、待て! 今のはなんだ! 何かの術か!」
「術は結界の内では使えん。……あんたも知っとるだろう」
ホルストさまがかすれた声で答えた。
ベッカの村長は口をぱくぱくさせて、それきり黙り込んだ。
ツチフミの人々は、ひざまずいていた。年寄りの何人かが両手を合わせて祈っている。杖をついた老人が、震える声で何かをつぶやいていた。白き巨人さま、と聞こえた気がした。
左足が上がる。
どおん。
光が跳ねた。
今度ははっきりと分かった。
応えている。
何百回清めても沈黙していた戟環が。
この人の足に応えている。
わたくしの清めに神さまが応えたのではない。あの人の足に応えたのだ。それが少しだけ悔しくて、それ以上に嬉しかった。
胸の奥が熱くなった。指先が震えた。視界がにじんだ。わたくしは自分が泣いていることにしばらく気づかなかった。
(神さまが、いる)
ここに。
この円の中に。この人の足の下に。
大男は三度目の四股を踏まなかった。足を下ろして軽く頭を下げる。そのまま円の外へ出ていく。
光の波がゆっくりと静まっていった。
「……いい土です。ありがとうございました」
俵をまたいで出ていく足の裏に、白い神土がついていた。
それだけ言って大男は人垣の中へ戻っていった。
ツチフミの人垣から亜麻色の髪の娘が駆け出して、大男の袖をつかんでいた。何か言っている。大男が困ったように頭をかいた。
わたくしはその背中から目を離せなかった。
灰色だった世界が色を取り戻していく。
わたくしの世界には、ずっと色がなかったのだ。その時初めて、それに気づいた。
胸の奥で鳴っているのが、神さまの声なのか、自分の鼓動なのか、わたくしには分からなかった。
乾いた河原の土の色。俵の藁の色。空の青。人々の顔。全部が急に鮮やかに見えた。
「……ホルストさま」
「な、なんだね」
「あの方の、お名前は」
「アサヒ……とか言ったかな。ツチフミの代表だ」
ホルストさまは大男の背中を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「エステル。今のは、聖堂に報せねばならん」
「……何と、報せるのですか」
「分からん。分からんが、わしの目は確かに見た」
ホルストさまは河原の石に腰を下ろし、長いあいだ戟環を見つめていた。
「ホルストさま。聖語で、どひょう、と口にする人を見たことがありますか」
「……ない。聖典の題でしか、聞いたことがない」
アサヒさま。
唇の中でそっと転がしてみる。甘い響きだった。
知りたい。
あの足を。あの四股を。あの人がどこから来て何を食べて何を見て、どうしてあんなふうに地を踏めるのか。
全部。
大男の去った戟環に、足の跡が二つ残っていた。わたくしは誰にも気づかれないように身をかがめ、その縁の土を指先ですくって、袖の内の小袋に落とした。清めた土を持ち出すなど、聞いたこともない。それでも、指は止まらなかった。
わたくしは胸の前で両手を組んだ。
祈りの形だった。巫女になって初めての、本当の祈りだった。
神さま。ありがとうございます。あの方に、会わせてくださって。
*
その夕方、わたくしは聖堂の天幕で新しい手帳を一冊おろした。表紙に小さく名を書いた。
アサヒさま。




