第23話 余所者に資格なし
◆ダリオ
聖堂の出張所の長椅子で私はかれこれ一刻も待たされていた。
街の外れの石造りの建物。壁には神配を掲げた審司の絵。奥の部屋からは書き物をする筆の音だけが聞こえる。
壁の絵の審司は神配を高く掲げている。その目がこちらを見ているようで、どうにも落ち着かない。
長椅子にはほかにも訴えを抱えた者たちが並んでいた。家畜の放牧地で揉めた農夫。借金の返済を巡る商人。皆、裸戟で決着をつけるための戟申しや訴えを持ってきているのだ。
「……まだですかな」
「お静かに。担当の者がまいります」
受付の若い神官は顔も上げずに言った。
まったく。こっちは村を背負って来ているのだ。
一刻。尻が痛くなってきた。
ツチフミの奴らが戟申しを出した。それ自体は驚くことではない。毎年のことだ。
いや、今年は違った。ツチフミが戟申しを出さないと聞いた時、私は祝杯をあげたのだ。それが一転して戟申し。しかも代表は余所者。
驚いたのは代表の名前だった。
アサヒ。
聞いたこともない名だ。調べさせたら案の定だった。川から拾われた余所者。どこの国の者とも知れない大男。
市でボルグを一歩下がらせた男。
(冗談ではない)
あの男が郷戟に出れば何かが変わる。理屈ではない。村長の家で育った者の勘が、そう告げていた。
川の水は三年かけてようやくうちのものにした。堰を高くしたおかげでベッカの畑は豊作続きだ。今さら手放してなるものか。
ベッカも昔は貧しかった。私が子どもの頃、ベッカの畑は川から遠く、雨が降らねば麦は枯れた。ツチフミの子どもたちは私たちの村を水なし村と呼んで笑った。
親父は村長だった。毎年夏になると、ツチフミの村長に頭を下げて水を分けてもらいに行くのが仕事だった。どうか、水を分けてくだされ。あの頃のツチフミの村長は、ゲルトの親父だった。いつも気前よく分けてくれた。
それがまた、悔しかったのだ。帰ってくる親父の背中は、いつも小さく見えた。
三年前、ボルグという大男が村にいることに気づいた時、私は思った。今度はあちらが頭を下げる番だ、と。
私には娘が二人いる。上の娘は来年嫁に出す。水のある村の娘でなければ、いい縁談は来ない。
「ベッカ村の村長、ダリオ殿」
ようやく呼ばれた。
奥の部屋に通されると白い衣の中年の神官が帳面を広げて待っていた。
机の上には分厚い土俵律の写本が置かれていた。表紙の題だけが、見たこともない字で書かれている。
「訴えの趣旨を伺いましょう」
「はい。ツチフミ村が今年の郷戟に立てた代表についてでございます」
私は揉み手をしながら身を乗り出した。
「その男、村の者ではございません。ひと月ほど前に川で拾われた、素性の知れぬ余所者です。郷戟とは村と村の争いを決める神聖な一番。余所者に村の命運を預けるなど、神への冒涜ではございませんか」
「ふむ」
私は袖の下から銀貨の袋を少しだけのぞかせた。神官はちらりとも見なかった。
「しまいなさい、ダリオ殿。ここは聖堂です」
「こ、これは失礼を」
「ダリオ殿。あなたはなぜ、その男を郷戟に出させたくないのですか」
「そ、それは……神聖な郷戟を守るためで」
「左様ですか。ベッカ村は三年続けて勝っておられる。今年も勝てばよいだけのことでは」
「も、もちろん勝ちますとも。ただ、筋は筋でございます」
「その男、市でボルグ殿を一歩下がらせたとか」
「下がらせたなど! ボルグが自分から引いただけで」
「ほう。それほど恐ろしい男なら、なおさら戟環の上で決着をつければよろしい」
背中を冷たい汗が伝った。この神官、どこまで知っているのか。
神官は帳面をめくった。
「土俵律には、代表は当事者が立てる、とだけあります。籍については何も」
「で、ですが。古い裁定があるはずです。郷戟の代表は、その村に籍を置く者に限ると」
「……よくご存じですな」
神官が初めて顔を上げた。
よく知っているとも。三年前からこの日のために調べさせておいたのだ。ツチフミが町の傭兵でも雇ってきたら困るからな。
古い記録を漁らせるのに、銀貨を二十枚も使った。
「確かに、二百年ほど前のこの地方の裁定にそうあります。郷戟の代表は、その村の籍帳に名のある者に限る」
「でしょう!」
「ただし」
神官は帳面の別の頁を指でたどった。
「籍帳に名を載せる手続きは、村長の裁量です。家に迎え入れる者があれば、その日のうちに村の者になれる」
「……は?」
「つまり、ツチフミ村がその男を籍帳に載せれば、何の問題もありません」
私は口を開けたまま固まった。
神官は淡々と続けた。
「訴えは受理しましょう。ツチフミ村には、郷戟の十日前までに代表の籍を示すよう通達を出します。示せなければ、代表の資格はなしとします」
「十日前……」
「ご不満ですか」
「い、いえ。とんでもない」
「それと、ダリオ殿。今年の郷戟は、審司をホルスト殿が、清めを聖堂の巫女が務めます。くれぐれも、神前を汚すような真似はなさらぬよう」
「……心得ております」
神前を汚すような真似。あの神官は、私が何かすると思っているのか。……思われても仕方のないことを、私はこれまで何度かしてきた。
*
出張所を出ると空はもう夕焼けだった。
通りでは市の片付けが始まっていた。荷車に空の籠を積む商人たちの間を抜けて、私は待たせていた馬車へ向かった。
私は馬車に乗り込んでほくそ笑んだ。
(籍帳に載せる、か)
簡単に言ってくれる。
どこの馬の骨とも知れない大男を自分の家に迎え入れる物好きがあの村にいるものか。家に迎えるとは家族になるということだ。飯を食わせる。名を貸す。何かあれば家ごと責めを負う。
あのしみったれた村に、そんな余裕はない。
去年は三軒、今年はもう二軒が村を捨てたと聞いている。人を一人養う余裕など、どこにもあるまい。
「出せ」
御者が鞭を鳴らした。
馬車が動き出す。
ボルグにはまだ言うまい。あの男は近ごろ妙にそわそわしている。余計なことを吹き込むと何をするか分からない。
ボルグは扱いやすい男だ。力が強いだけで欲がない。肉と酒を届けてやれば文句も言わない。三年間、それでうまくいってきた。
窓の外を流れる川を眺めた。
川面が夕日を跳ね返して赤く光っていた。三年前までは、この景色を見るたびに腹が立った。今は違う。
水は堰に堰かれて私の村のほうへ流れていく。
来年も。再来年も。ずっとだ。




