第22話 白き巨人の伝説
◆朝日富士
バルドさんの足取りはゆっくりだった。
杖を突いて一歩ずつ確かめるように村外れの坂を上っていく。俺はその後ろを黙ってついていった。
坂は思ったより急だった。乾いた土の中に、古い石段が半分埋もれている。誰かが昔、ここに道を作ったのだ。
バルドさんは何度か立ち止まって息を整えた。それでも俺が手を貸そうとすると、杖で軽く払いのけた。
「年寄り扱いするでない」
坂を上るにつれ、村の音が遠くなっていった。
「白き巨人さまの話は、知っておるかね」
「少しだけ。昔、天から降りてきて剣を折って、裸戟を人に授けたと」
「それだけか。なら、道すがら話してやろう」
バルドさんは足を止めずに語り始めた。
「昔、この大陸では百年も戦が続いておった。王さまたちが土地を奪い合い、村は焼かれ、川は血で濁った。百年戦乱と呼ばれておる。その戦の真っただ中に、白き巨人さまは天から降りてこられた」
「天から降りてこられた時、巨人さまは大きな音とともに、雷のように地に落ちてこられたそうじゃ」
「……」
「巨人さまは剣を持たなんだ。戦場の真ん中に立って、向かってくる兵の剣を素手でつかんでへし折ったそうじゃ。一本、また一本。千本の剣を折ったとも言われておる」
「千本……」
「それから巨人さまは王さまたちに言うた。殺し合うのはやめよ。争うなら円の中で、裸で、一人ずつ取れ。負けた者は勝った者の言い分を呑め。神がそれを見ておる、とな」
「王たちは、従ったんですか」
「最初は誰も従わなんだ。じゃから巨人さまは、王さまたちを一人ずつ円の中に呼んで、裸戟で負かしていかれた。どの王も、巨人さまを一歩も動かせなんだ。最後の王が円の外に転がった時、百年の戦が終わった。土俵律を書き残されたのも、その時じゃ」
剣を素手で折る。それが本当かどうかは分からない。だが円の中で王たちを一人ずつ負かしていく姿は、なぜかはっきりと目に浮かんだ。四股を踏み、塩を撒き、低く立ち合う大男の姿が。
「巨人さまは、その後どうなったんです」
「国の言い伝えでは、天へ帰られたことになっとる」
「それは国じゅうの誰もが知っとる話じゃ。だがな、この村にはもうひとつ続きがある」
坂の途中で振り返ると、ツチフミの村が見下ろせた。痩せた畑。細い川。点々と並ぶ屋根。この村の水を、俺は取り戻せるだろうか。
坂の上に小さな森があった。
森の中は涼しかった。外の日照りが嘘のように、木の根元の苔が青々としている。どこかで水の滴る音がした。
古い木々に囲まれてひっそりと祠が建っている。石を積んだ土台。苔むした木の屋根。扉には太い閂がかけられていた。
祠は小さかった。俺が両腕を広げれば端から端まで届きそうなほどだ。それでも屋根の苔の厚みが、この祠の過ごしてきた年月を物語っていた。
祠の前の地面だけが、なぜか平らに固く踏み固められている。
「この前の地面はな、巨人さまが毎朝踏んでおられた場所じゃと言われとる。何百年経っても、草が生えん」
森の奥で鳥が一声鳴いた。
「白き巨人さまはな、諸王を裸戟で打ち負かして戦を終わらせた後、旅に出られたそうじゃ。そして長い旅の果てに、この村に立ち寄られた」
「この村に」
「何年おられたのかは分からん。ただ、毎朝夜明け前にこの森で地を踏んでおられたという。村の者はそれを真似た。それが地踏みの舞の始まりじゃ」
毎朝。夜明け前に。地を踏む。
喉の奥が乾いた。
俺もそうだった。誰もいない稽古場で、毎朝。
「巨人さまは、どんなお姿だったんですか」
「大きかったそうじゃ。腹が出て、腕が太くて、裸に帯一本。それから、頭の上に髪を扇の形に結うておられた」
バルドさんが俺を見上げた。皺の奥の目がまっすぐに俺の頭を見ていた。
川で拾われた日の大銀杏はもうない。床山のいないこの世界では結い直しようがない。今は自分で束ねただけの髷だ。それでもバルドさんの目はあの日の扇の形を覚えているらしかった。
「お名前は、伝わっていますか」
「国じゅうでは始祖シラネさまと呼ばれておる。この村では昔から、ただシラネさまとお呼びしておる」
シラネ。
しらね。
白根。白嶺。
どちらも日本の山の名前だ。力士は四股名に山の名をよく使う。もし、それが四股名だったとしたら。
白嶺。しろみね。……いい四股名だ。そう思ってから、背筋が冷たくなった。
(まさか)
頭の中で何かがかちりと鳴った。
ハッケヨイ。ノコッタ。円から出たら負け。足の裏のほかがついたら負け。地を踏む舞。扇の形の髷。そしてシラネという名前。
ばらばらだった欠片が一つの形を作りかけている。
(俺より前に、誰かが)
俺より前に。
土俵に上がった誰かがこの世界に来たのか。
胸の奥が熱くなった。会ったこともない誰かに、なぜか懐かしさを感じていた。
もしその人がここで毎朝四股を踏んでいたのなら、何を思って踏んでいたのだろう。帰りたいと思っていたのか。それとも、ここに残ると決めていたのか。
「アサヒさんや。顔が真っ青じゃぞ」
「……いえ。大丈夫です。祠の中には、何が」
「石がひとつ祀ってある。誰にも読めん字が刻まれた古い石じゃ。わしの爺さまは、白き巨人さまの置き土産だと言うておった」
「見せてもらえませんか」
「すまんな。扉を開けるのは年に一度、収穫祭が終わった晩だけと決まっておる。掟じゃ」
俺は閂のかかった扉を見つめた。
閂は太い鉄でできていた。錆びてはいるが、まだ頑丈だ。
この向こうに答えがあるのかもしれない。
答え。俺がなぜここにいるのか。どうすれば帰れるのか。……帰りたいのかどうかさえ、今の俺には分からなかった。
「……収穫祭の晩」
「そうじゃ。郷戟の晩でもある」
バルドさんがにやりと笑った。皺だらけの顔に子どものような光が宿った。
「勝ちなされ、アサヒさん。勝った晩に、わしがこの扉を開けてやろう」
「わしの爺さまは言うておった。いつか地を鳴らす者が来たら、この祠へ連れてこいと。……まさか、わしの代で本当になるとはのう」
「……勝ちます」
バルドさんは満足そうにうなずいた。
風が森を抜けていった。
古い木々がざわめいた。祠の屋根から苔の欠片がひとつ落ちた。
俺は祠の前で深く頭を下げた。
なぜそうしたのか自分でも分からない。ただそうせずにはいられなかった。
土俵に上がる前に神棚に手を合わせる時のように。
顔を上げるとバルドさんが不思議そうに俺を見ていた。
「今の礼は、何じゃ」
「……土俵に上がる前の礼です」
「そうか」
バルドさんは少し考えてから杖を置いた。そして俺と同じように、祠に向かって深く頭を下げた。
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