第20話 ちゃんこ番
◆マルタ
「鍋ぇ?」
あたしは思わず聞き返した。
「ええ。お礼に、俺の国の鍋を作らせてもらえませんか」
広場の大鍋の前で大男が頭を下げていた。
山の主を仕留めた翌日。村じゅう総出の宴の支度の真っ最中だ。
「お礼って、あんたが仕留めた猪じゃないの」
「村の山の猪です。それに、拾ってもらった恩がまだ返せてない」
律儀な男だ。あたしは腕を組んだ。
この村で鍋といえばあたしの仕事だ。祭りの煮込みも婚礼の汁物も三十年あたしがこさえてきた。
十五で隣村から嫁に来た時、姑に味を叩き込まれた。亭主は五年前に死んだ。子どもたちは街へ出ていった。今はこの鍋だけが、あたしの自慢だ。
「いいよ。ただし鍋は一つだけ。材料はみんなと同じ。猪の肉と骨、芋、蕪、干し茸、野草、それと塩。それ以上は出せないよ」
「十分です。骨ももらっていいんですか」
「骨? 骨なんかどうすんのさ。捨てるとこだよ」
「それが一番大事なんです」
変な男だ。
昼過ぎから大男は鍋の前に陣取った。
まず猪の骨を割って大鍋に放り込んだ。水を張って火にかける。
それからひたすら鍋を見ていた。
湯が煮立つと灰色の泡が浮いてくる。大男はそれを玉杓子で丁寧にすくって捨てる。すくっては捨てる。またすくう。
トマとガントとミーナが鍋のまわりにしゃがみ込んで、泡すくいをじっと眺めていた。飽きないのかね、あの子らは。
「……何やってんの、あれ」
「泡すくい?」
「一刻もずっとだよ」
おかみさん連中がひそひそ笑っている。あたしも笑った。
「何をぐずぐずしてんだ、あの男は」
薪を運んできたダグが首をかしげた。
「猟も待つのが仕事だ。あいつは分かってる」
フランツがぼそりと言った。
二刻たった。
骨の鍋はいつの間にか澄んだ黄金色になっていた。
あたしは笑うのをやめた。
「……あんた、骨から何を取ってるんだい」
「旨みです。肉より骨のほうが、ずっと深い味が出る」
「骨から味が?」
「ええ。俺の国の鍋は、骨から始まるんです」
大男は骨を引き上げると野菜を切り始めた。芋は大きめに。蕪は薄く。干し茸は前の晩から水に浸けてあったらしい。その戻し汁まで鍋に注いでいる。
入れる順番が決まっているようだった。煮えにくいものから。肉は最後に。
塩はひとつまみずつ。入れては味を見る。首をかしげる。またひとつまみ。
味見のたびに大男は目を閉じて首をかしげる。何がそんなに気に入らないのか、あたしには分からなかった。
「あんた、それ何度目の味見よ」
「十二度目です」
「数えてんの!?」
「ちゃんこ番の時に、兄弟子に叩き込まれたので」
「ちゃんこばん?」
「鍋の当番です。入門してから一人前になるまで、四年やりました」
*
日が暮れる頃に宴が始まった。
広場にかがり火が焚かれた。猪の肉の焼ける匂いが村じゅうに広がる。家々から人が出てきた。この半年、宴なんて一度もなかった。子どもたちが肉の串を持って走り回る。年寄りたちは久しぶりに酒の壺を開けた。
あたしの煮込みは今年も上出来だった。猪の肉を香草と一緒に、とろとろになるまで煮込んである。みんな旨い旨いと言って食べている。
香草は山で摘んだ。肉は一晩塩に漬けた。姑から受け継いだ、この村の宴の味だ。
大男の鍋は広場の隅にぽつんと置かれていた。泡すくいの鍋。物珍しげに覗く者はいても椀を伸ばす者はいない。
最初に手を伸ばしたのはトマだった。
「おっちゃんの鍋、食べていい?」
「ああ。熱いから気をつけろ」
トマが椀に口をつけた。ずずっ。
そのまま止まった。
「……トマ?」
返事がない。椀を持ったままトマは動かない。それから急に泣き出した。
「う、うまいい……っ」
トマのおっかさんが慌てて駆け寄った。泣いている息子を見て、それから鍋を見た。
「はあ?」
広場がざわついた。
トマの後ろからガントが椀を伸ばした。ミーナが。ダグが。カイが。
そして全員が止まった。
「……なんだこれ」
「同じ猪だろ? 同じ芋だろ?」
「なんでこんなに……」
鍋の前に列ができた。割り込もうとしたダグが女房に耳を引っ張られていた。
ダグが三杯目をよそっている。カイが左腕を吊ったまま右手だけで椀を抱え込んでいる。バルド爺さままで杖を放り出してすすっていた。
カイが笑っていた。あの子が笑うのを見たのは、いつ以来だろう。
「腹の底が、あったかいのう……」
「……アサヒさん。これは、なんという料理だ」
村長が椀を持ったまま聞いた。
「ちゃんこです」
あたしは信じなかった。
信じないまま椀を一つ取って鍋の汁をすくった。
口に含んだ。
骨の旨みが舌の奥まで染みてくる。茸の香りが鼻に抜ける。芋がほろりと崩れる。汁を吸った蕪が甘い。猪の脂がくどくない。塩はちょうど一歩手前で止まっている。だからいくらでも飲める。
同じ材料だ。あたしが使ったのとまったく同じ。
三十年。三十年鍋をこさえてきて、こんな汁を飲んだのは初めてだった。悔しいのに椀を置けなかった。気がつけば二杯目をよそっていた。
「……あんた」
「はい」
「何をしたのさ」
「何も。アクを取って、順番を守って、味を見ただけです」
「それだけでこうなるかい!」
「なります。鍋は嘘をつきません。稽古と同じで、手を抜いたところは全部味に出る」
大男は照れたように笑った。
ふと隣を見るとリネが椀を両手で持って固まっていた。
それから。
「……ふふっ」
リネが笑った。声を上げて。お腹を抱えて。
「あはははっ! なにこれ、おいしい! おいしすぎて、ずるい!」
あたしは驚いた。
母親を亡くしてからこの子があんなふうに笑うのを見たのは初めてだった。村の誰もがそうだったのだろう。広場が一瞬しんとした。それから釣られたように笑い声が広がった。
あの子の母親とは、二十年並んで井戸端に立った仲だった。よく笑う人だった。その娘が、やっと笑った。
鍋はあっという間に空になった。
あたしの煮込みは半分残った。
悔しかった。悔しかったけれど久しぶりに村じゅうの腹がふくれている。子どもたちが満足そうに眠たげな顔をしている。
それならまあいいか。
亭主にも食わせてやりたかった。そう思ったら、少しだけ目の奥が熱くなった。
その夜、村じゅうの家で遅くまで笑い声が絶えなかった。
「ちょいと、あんた」
「はい」
「明日から、あたしにもその泡すくいを教えな」
大男が目を丸くした。それから深々と頭を下げた。
「……チャシ」
「なにそれ」
「ありがとうございます、です」
その日からアサヒの鍋は「ちゃんこ」と呼ばれるようになった。
村長の家では毎日あの鍋が煮える。リネがせっせと手伝っているらしい。
まったく。若いってのはいいねえ。




