第19話 山の主
◆フランツ
「また出やがった」
夜明けの畑で俺はしゃがみ込んだ。
踏み荒らされた芋畑。掘り返された土。その真ん中にくっきりと残った蹄の跡。俺の手のひらより大きい。
「親父。これ……」
「ああ。山の主だ」
倅のペーターが青い顔で唾を飲んだ。
ペーターは山で育ったくせに臆病なところがある。猟の腕は悪くないが、獲物と目が合うと手が止まる。
山の主。この辺りの山に何十年も棲みついている大猪だ。
日照りで山の木の実が減ったせいだろう。この夏から村の畑に下りてくるようになった。もう三度目だ。ただでさえ少ない芋をごっそり持っていかれる。去年の秋には隣村の猟師が牙にかけられて死んだ。
「村長に言って、今日のうちに山狩りだ。これ以上畑をやられたら冬が越せねえ」
「でも親父、あいつは槍が通らねえって」
「通らねえなら、通るまで突くだけだ」
強がりだった。
俺はもう五十を過ぎている。若い頃ならいざ知らず今の足であの化け物を追い切れるとは思えない。
それでも策はある。大猪は朝と夕方に水場へ下りる。日照りで沢の水が減った今、残っている水場は限られている。そこを押さえれば、必ず出てくる。
「俺も行きます」
振り返るとあの大男が立っていた。
アサヒ。この間ペーターを円の外へ運んだ男だ。
「……猪狩りだぞ。遊びじゃねえ」
「分かってます。仕留めた獲物を運ぶ手がいるでしょう。力仕事なら役に立てます」
確かに。あの大きさの猪なら仕留めても男五人がかりだ。
「勝手に前に出るなよ。後ろで荷を担いでろ」
「はい」
出かける前に槍の穂先を研いだ。縄を三重に撚った。若い衆には、風下から近づけと何度も言い聞かせた。猪は鼻がいい。人の匂いを嗅ぎつけたら、二度と姿を見せない。
アサヒは荷を担ぐと言って、縄と予備の槍と水袋を全部背負った。重さを感じていない顔だった。
山に入ったのは昼前だった。
俺とペーターとダグ。若い衆が四人。槍と縄と弓。それから大男が一人。
山の主の跡を追うのは難しくなかった。あれだけの図体だ。藪がなぎ倒されている。木の幹には牙で削った跡がある。
糞はまだ湿っていた。足跡の縁が崩れていない。半日も経っていない。俺は若い衆に指で合図を送った。音を立てるな。風を背にするな。
驚いたことに、あの大男はほとんど足音を立てなかった。すり足とかいうあの歩き方だ。枯れ葉の上でも枝の上でも、静かに地面に吸いついて歩く。熊より重そうな体で、狐より静かだった。
「……でけえ」
「この削り跡、俺の背丈より高いぞ」
「しっ。近いぞ」
沢筋の窪地で風が変わった。獣の臭いが濃い。俺は手を上げて皆を止めた。
乾いた泥に大きな足跡が並んでいた。水溜まりの縁が泥で濁っている。ついさっきまで、ここで水を飲んでいたのだ。
藪の向こうに黒い山が寝そべっていた。
猪だ。いや猪と呼んでいいのか分からない。牛より大きい。背中の剛毛が針のように逆立っている。口の両端から黄ばんだ牙が三日月の形に突き出していた。
片方の牙は先が欠けていた。昔、誰かの槍とやり合った跡だろう。そいつは、たぶんもう生きていない。
(弓じゃ無理だ。囲んで、槍で)
手振りで合図する。若い衆が左右に散る。
その時ペーターの足元で枯れ枝が折れた。
ぱきり。
山の主が目を開けた。
次の瞬間に黒い山が起き上がった。まっすぐにペーターのほうへ突っ込んでくる。
「ペーター! 逃げろ!」
間に合わない。ペーターは腰を抜かしている。槍を構える暇もない。
あの牙にかけられたら。
去年の隣村の猟師は、腹を裂かれて三日苦しんで死んだ。ペーターの顔が、あの男の顔に重なった。
黒い影がペーターの前に割り込んだ。
あの大男だった。荷を放り出していた。腰を落として拳を地面についている。
裸戟の構えだった。
「アサヒ!?」
山の主が突っ込む。大男が立った。
どおん。
山が山にぶつかったような音がした。
大男の頭が猪の鼻面の下に潜り込んでいた。両手が二本の牙の根元を掴んでいる。
止まった。
牛より大きな獣の突進が。大男の足が地面に二本の溝を刻む。それでも三歩で止まった。
「……嘘だろ」
誰かがつぶやいた。俺だったかもしれない。
山の主がもがく。首を振る。牙で大男の体をえぐろうとする。
大男は離さない。腰をさらに落とす。ぐっと前へ押し込む。猪の前足が浮いた。
そして大男は体をひねった。牙を掴んだまま猪の首を抱え込むように。右へ。大きく。
「ふんっ!」
黒い山がひっくり返った。
巨体が宙で半回転した。背中から地面に叩きつけられる。土と枯れ葉が噴き上がった。
「今です、フランツさん!」
その声で我に返った。
俺は槍を握り直して駆けた。腹を見せてもがく山の主の喉元へ。全体重を乗せて突き込んだ。
山の主が動かなくなるまで誰も口をきかなかった。
槍を握る手がまだ震えていた。五十を過ぎて、こんなに震えたのは初めてだった。
「……親父」
「ああ」
「今の、何?」
「知らねえよ」
俺は息を切らしながら大男を見た。
大男は膝に手をついて肩で息をしていた。腕に牙のかすり傷がいくつか。それだけだ。
かすり傷から血がにじんでいた。アサヒは気にもせず、沢の水で洗っただけだった。
「あの人、本当に人間か?」
「川の神さまだって言ったろ」
若い衆がひそひそ言い合っている。
「首投げ、っていうんです。……猪に使ったのは、初めてですけど」
照れたように笑う。
「猪を投げる奴があるか」
ダグが呆れた声を出した。
「投げちゃいけないって決まりは、なかったので」
それから大男は倒れた山の主の前に正座した。両手を合わせる。
「……チャシ」
「ちゃし?」
「ありがとう、って意味です。こいつの命で、村の腹が膨れる」
「……ありがとう、ございます」
ペーターがかすれた声で言った。
「礼はいい。今度、足を滑らせない稽古を一緒にやろう」
ペーターがぽかんと口を開けた。若い衆も。ダグも。
俺も気づけば頭の手拭いを外していた。
獲物に礼を言う猟師は、この辺りじゃ俺の親父の代までだった。山の恵みに頭を下げろ。親父はよくそう言っていた。いつの間にか、俺はそれを忘れていた。
山の主は男八人がかりでも担ぎきれなかった。その場で捌いて何往復もすることになった。
捌き方は俺が教えた。アサヒは見よう見まねで、驚くほど手際よく肉を切り分けた。国では毎日、鍋の支度をしていたらしい。
肉は村じゅうの家に分けてもまだ余る。塩に漬けて燻せば冬まで持つだろう。日照りが始まって以来の、まともな冬支度だった。
日が傾いて、山が赤く染まっていた。欠けた牙を一本、記念に持って帰った。今でもうちの壁に掛けてある。
*
帰り道。肉の塊を山ほど担いだ大男の背中を見ながらペーターがぼそりと言った。
「親父。俺、あの人に裸戟で負けた時、悔しかったんだ」
「ああ」
「今は、悔しくねえや」
「……ああ。俺もだ」
その晩。大男は村長に頭を下げて頼んだそうだ。
お礼に、俺の国の鍋を作らせてください、と。




