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異世界の決闘がまんま相撲だったので、元大関の俺が全戦全勝で成り上がる 〜ヤンデレ巫女が次々と強敵を連れてくるけど、全部押し出します〜  作者: 大家阿半
第1巻「空から落ちた大関」 第三章「地踏みの舞」

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第18話 古傷の話

◆リネ


 夜中にふと目が覚めた。


 月明かりが板戸の隙間から差し込んでいる。土間の方で何かが動く気配がした。


 そっと起き出して覗いてみた。


 村は静まり返っていた。虫の声だけが乾いた畑の向こうから聞こえてくる。大きな月が西の山の上にかかっていて、干上がりかけた水路を白く照らしていた。


 戸口の外。月の光の下にアサヒさんが座っていた。縁台に腰かけて右の膝をゆっくりとさすっている。


「……眠れないんですか?」


「リネ。起こしたか」


「いいえ。たまたまです」


 嘘だった。本当はずっと気になっていたのだ。


 この人は毎晩寝る前に膝をさすっている。昼間どんなに元気に四股を踏んでいても夜になると必ず。


 私は縁台の隣に腰を下ろした。


 隣に座るとアサヒさんの体から土の匂いがした。父さんとも兄さんとも違う匂いだった。


「この国の月は、大きいな」


「アサヒさんの国の月は、小さいんですか」


「同じくらいかな。……でも、こんなにゆっくり見たことはなかった」


「痛むんですか? 昼間、三人も相手にしたから」


「いや。痛くないんだ」


「じゃあ、どうして」


「痛くないのに、さする癖が抜けない」


 アサヒさんは苦笑して自分の膝を見下ろした。


 月明かりに照らされた膝はつるりとしていた。傷ひとつない。


「寄り合いで言ったろう。怪我でどん底まで落ちたことがあるって」


「はい」


「この膝だったんだ。取組の最中に、ばきっと音がしてな。膝の中の筋が切れて、骨が欠けた」


「……痛かったですか」


「痛いなんてもんじゃない。目の前が真っ白になった。それでも、残ろうとして足を踏ん張ったんだ。それがいけなかった」


「……」


「三回切って、縫った。ここと、ここと、ここ」


 アサヒさんの太い指が膝の上に三本の線を引いた。


 そこには何もない。でもこの人の目には見えているのだと思った。


「治ったんですか?」


「治った、ってことになってた。歩けるし、取れる。でも、ずっと痛かった。七年間、一日も痛くない日はなかった」


「七年……」


「どうして、やめなかったんですか」


「……土俵の上にしか、俺の居場所がなかったからかな」


「それが、こっちに来たら消えてた。傷も、痛みも、全部」


 アサヒさんは笑った。でもそれは嬉しそうな笑い方ではなかった。


「不思議なもんでな。痛くないと、逆に怖いんだ」


「怖い?」


「痛みがあれば、そこを庇える。でも痛くないと、どこまで踏み込んでいいのか分からない。またばきっといくんじゃないかって。……傷は消えても、怖さは残ってるんだ」


 見えない傷。


 この人の膝には目に見えない傷がまだ三本ある。


 兄さんの腕を思い出した。


 骨はくっついた。でも兄さんは今でも左腕を人前に出したがらない。裸戟の話になると黙り込む。あれも見えない傷なのかもしれない。


 兄さんは去年まで、毎晩寝る前に腕立て伏せをしていた。百回、二百回。村一番の力持ちになるんだって。腕を折ってから、一度もしていない。


「……リネ?」


「あ、ごめんなさい。兄さんのことを考えてました。兄さんも、同じなのかなって。腕は治ってきてるのに、ずっと何かを怖がってるみたいで」


 アサヒさんは少し黙った。それからうなずいた。


「たぶん、同じだ。体の傷より、そっちのほうが治りが遅い」


「兄さんも、いつか治るでしょうか」


「治る。カイは、もう一度前に出られる男だ。この間、俺の胸を押した手は、まだ死んでなかった」


「どうしたら治るんですか?」


「俺の場合は……稽古だったな。怖くても踏む。毎朝踏む。そのうち、怖さより体のほうが先に動くようになる」


「じゃあ、アサヒさんの今の怖さも?」


「ああ。そのうち消えるさ」


 嘘だと思った。


 だってこの人は毎晩膝をさすっている。


「郷戟の日も、怖いですか」


「怖いさ。土俵に上がる前は、いつも怖い。……でも、怖いからって上がらない理由にはならない」


 風が少し出てきた。乾いた畑の土が、月明かりの中で白く舞った。


「リネ。お母さんのことを、聞いてもいいか」


 不意に聞かれて、少しだけ息が止まった。


「……三年前の冬でした。熱を出して、三日で。薬師のお婆さんの薬は効かなくて、街のお医者さまを呼ぶお金もなくて」


「……」


「あの年は川が細くなった年で。母さん、最後まで水汲みの心配をしてたんです。リネ一人じゃ大変だろうって。熱で真っ赤な顔をして」


 月を見上げた。声が震えないように。


「母さんが死んだ日、私、泣かなかったんです。泣いたら父さんと兄さんがもっと困ると思って。ずっと泣けなくて……兄さんが腕を折った夜に、やっと泣けました。母さんの分まで、全部」


 アサヒさんは黙って聞いていた。それから小さく言った。


「よく、我慢したな」


 それだけだった。それだけなのに、鼻の奥がつんと痛くなった。


「アサヒさんのお母さんは?」


「北の田舎に一人でいる。……心配してるだろうな」


 二人で同じ月を見上げた。アサヒさんのお母さんも、どこかでこの月を見ているのだろうか。


 私は手を伸ばした。


 自分でも驚くくらい自然に。アサヒさんの膝の上にそっと手のひらを乗せた。


「……リネ」


「ここに、傷があったんですね」


 温かい膝だった。分厚くて硬い。でもちゃんと生きている人の膝だった。


 触れた手のひらの下で、アサヒさんの膝がかすかに震えた気がした。痛みではない、何か別のもので。


「アサヒさん。約束してください」


「約束?」


「もし、いつか痛くなったら。ちゃんと言ってください。隠さないで」


 アサヒさんが目を見開いた。


 それから長いあいだ黙っていた。月が雲に隠れてまた出てくるまでの間。


「……ああ。約束する」


 低い声だった。


 約束。その言葉が、胸の中で何度も響いた。


 手を引っ込めてから急に顔が熱くなった。


 私、何をしてるんだろう。男の人の膝に勝手に触って。


「お、おやすみなさい!」


「お、おう。おやすみ」


 慌てて家の中に駆け戻った。


 戸を閉める前に一度だけ振り返った。アサヒさんはまだ縁台に座って月を見上げていた。もう膝をさすってはいなかった。


 寝床にもぐり込んでも胸がどきどきしてなかなか眠れなかった。


 手のひらにまだあの人の膝の温かさが残っていた。


 窓の外で月が少しずつ西へ傾いていく。今夜はなかなか眠れそうになかった。

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