第18話 古傷の話
◆リネ
夜中にふと目が覚めた。
月明かりが板戸の隙間から差し込んでいる。土間の方で何かが動く気配がした。
そっと起き出して覗いてみた。
村は静まり返っていた。虫の声だけが乾いた畑の向こうから聞こえてくる。大きな月が西の山の上にかかっていて、干上がりかけた水路を白く照らしていた。
戸口の外。月の光の下にアサヒさんが座っていた。縁台に腰かけて右の膝をゆっくりとさすっている。
「……眠れないんですか?」
「リネ。起こしたか」
「いいえ。たまたまです」
嘘だった。本当はずっと気になっていたのだ。
この人は毎晩寝る前に膝をさすっている。昼間どんなに元気に四股を踏んでいても夜になると必ず。
私は縁台の隣に腰を下ろした。
隣に座るとアサヒさんの体から土の匂いがした。父さんとも兄さんとも違う匂いだった。
「この国の月は、大きいな」
「アサヒさんの国の月は、小さいんですか」
「同じくらいかな。……でも、こんなにゆっくり見たことはなかった」
「痛むんですか? 昼間、三人も相手にしたから」
「いや。痛くないんだ」
「じゃあ、どうして」
「痛くないのに、さする癖が抜けない」
アサヒさんは苦笑して自分の膝を見下ろした。
月明かりに照らされた膝はつるりとしていた。傷ひとつない。
「寄り合いで言ったろう。怪我でどん底まで落ちたことがあるって」
「はい」
「この膝だったんだ。取組の最中に、ばきっと音がしてな。膝の中の筋が切れて、骨が欠けた」
「……痛かったですか」
「痛いなんてもんじゃない。目の前が真っ白になった。それでも、残ろうとして足を踏ん張ったんだ。それがいけなかった」
「……」
「三回切って、縫った。ここと、ここと、ここ」
アサヒさんの太い指が膝の上に三本の線を引いた。
そこには何もない。でもこの人の目には見えているのだと思った。
「治ったんですか?」
「治った、ってことになってた。歩けるし、取れる。でも、ずっと痛かった。七年間、一日も痛くない日はなかった」
「七年……」
「どうして、やめなかったんですか」
「……土俵の上にしか、俺の居場所がなかったからかな」
「それが、こっちに来たら消えてた。傷も、痛みも、全部」
アサヒさんは笑った。でもそれは嬉しそうな笑い方ではなかった。
「不思議なもんでな。痛くないと、逆に怖いんだ」
「怖い?」
「痛みがあれば、そこを庇える。でも痛くないと、どこまで踏み込んでいいのか分からない。またばきっといくんじゃないかって。……傷は消えても、怖さは残ってるんだ」
見えない傷。
この人の膝には目に見えない傷がまだ三本ある。
兄さんの腕を思い出した。
骨はくっついた。でも兄さんは今でも左腕を人前に出したがらない。裸戟の話になると黙り込む。あれも見えない傷なのかもしれない。
兄さんは去年まで、毎晩寝る前に腕立て伏せをしていた。百回、二百回。村一番の力持ちになるんだって。腕を折ってから、一度もしていない。
「……リネ?」
「あ、ごめんなさい。兄さんのことを考えてました。兄さんも、同じなのかなって。腕は治ってきてるのに、ずっと何かを怖がってるみたいで」
アサヒさんは少し黙った。それからうなずいた。
「たぶん、同じだ。体の傷より、そっちのほうが治りが遅い」
「兄さんも、いつか治るでしょうか」
「治る。カイは、もう一度前に出られる男だ。この間、俺の胸を押した手は、まだ死んでなかった」
「どうしたら治るんですか?」
「俺の場合は……稽古だったな。怖くても踏む。毎朝踏む。そのうち、怖さより体のほうが先に動くようになる」
「じゃあ、アサヒさんの今の怖さも?」
「ああ。そのうち消えるさ」
嘘だと思った。
だってこの人は毎晩膝をさすっている。
「郷戟の日も、怖いですか」
「怖いさ。土俵に上がる前は、いつも怖い。……でも、怖いからって上がらない理由にはならない」
風が少し出てきた。乾いた畑の土が、月明かりの中で白く舞った。
「リネ。お母さんのことを、聞いてもいいか」
不意に聞かれて、少しだけ息が止まった。
「……三年前の冬でした。熱を出して、三日で。薬師のお婆さんの薬は効かなくて、街のお医者さまを呼ぶお金もなくて」
「……」
「あの年は川が細くなった年で。母さん、最後まで水汲みの心配をしてたんです。リネ一人じゃ大変だろうって。熱で真っ赤な顔をして」
月を見上げた。声が震えないように。
「母さんが死んだ日、私、泣かなかったんです。泣いたら父さんと兄さんがもっと困ると思って。ずっと泣けなくて……兄さんが腕を折った夜に、やっと泣けました。母さんの分まで、全部」
アサヒさんは黙って聞いていた。それから小さく言った。
「よく、我慢したな」
それだけだった。それだけなのに、鼻の奥がつんと痛くなった。
「アサヒさんのお母さんは?」
「北の田舎に一人でいる。……心配してるだろうな」
二人で同じ月を見上げた。アサヒさんのお母さんも、どこかでこの月を見ているのだろうか。
私は手を伸ばした。
自分でも驚くくらい自然に。アサヒさんの膝の上にそっと手のひらを乗せた。
「……リネ」
「ここに、傷があったんですね」
温かい膝だった。分厚くて硬い。でもちゃんと生きている人の膝だった。
触れた手のひらの下で、アサヒさんの膝がかすかに震えた気がした。痛みではない、何か別のもので。
「アサヒさん。約束してください」
「約束?」
「もし、いつか痛くなったら。ちゃんと言ってください。隠さないで」
アサヒさんが目を見開いた。
それから長いあいだ黙っていた。月が雲に隠れてまた出てくるまでの間。
「……ああ。約束する」
低い声だった。
約束。その言葉が、胸の中で何度も響いた。
手を引っ込めてから急に顔が熱くなった。
私、何をしてるんだろう。男の人の膝に勝手に触って。
「お、おやすみなさい!」
「お、おう。おやすみ」
慌てて家の中に駆け戻った。
戸を閉める前に一度だけ振り返った。アサヒさんはまだ縁台に座って月を見上げていた。もう膝をさすってはいなかった。
寝床にもぐり込んでも胸がどきどきしてなかなか眠れなかった。
手のひらにまだあの人の膝の温かさが残っていた。
窓の外で月が少しずつ西へ傾いていく。今夜はなかなか眠れそうになかった。




