第17話 稽古は裏切らない
◆朝日富士
体が熱かった。
夕暮れの小川のほとりに座って俺は自分の手のひらを眺めていた。
肩には三人分の手の跡が赤く残っている。湯に浸かりたいところだが、この村に風呂はない。小川の水で汗を流して、そのまま土手に腰を下ろした。
三人まとめて受けた時の重み。ハンスの帯をつかんだ指の感触。寄り切った瞬間に足の裏から腰へ抜けていった力。全部まだ体に残っている。
(取れた)
取れたのだ。
思いきり受けた。思いきり寄った。膝はどこも痛まなかった。
本当は、立ち合いから当たっていきたかった。だがそれはできなかった。力士の当たりは、何年もぶつかり稽古で首と肩を鍛えた者同士だからぶつけ合えるものだ。素人にまともにぶつければ首を痛める。肩を外す。下手をすれば一生ものの怪我になる。
だから全部受けた。相手の当たりを胸で受けて、廻しを取って、寄り切る。寄り切りなら、相手は自分の足で円の外へ出るだけで済む。
最後にこんなふうに取れたのはいつだったろう。
膝を壊してからの七年は痛みと一緒の七年だった。
朝起きるとまず膝の機嫌をうかがう。稽古の前に一時間かけて温める。取組の後は氷で冷やす。それでも腫れが引かない夜は眠れなかった。
序二段に落ちた場所のことは今でも覚えている。
「元大関が序二段だってよ」
「見世物だな」
「もう無理だろ。引退すりゃいいのに」
通路ですれ違った誰かがそう話していた。俺の顔を知らない若い連中だった。悪気はなかったのだと思う。事実だったから。
その場所の初日。俺は十八の若い衆に負けた。
当たり負けしたのではない。膝が怖くて踏み込めなかったのだ。
*
その夜。部屋の稽古場に一人で降りて四股を踏んだ。
十回で膝が悲鳴を上げた。二十回で脂汗が出た。それでも踏んだ。百回。二百回。
「まだやるのか」
背中で声がした。親方だった。寝間着のまま上がり座敷の端に立っていた。
「やります」
「誰も見ちゃいないぞ」
「土俵が見てます」
親方は何も言わなかった。黙って上がり座敷に腰を下ろし、俺が五百回を踏み終わるまでそこにいた。最後に一言だけ言った。
「稽古は裏切らん。裏切るのは、稽古から逃げた自分自身だ」
あの夜から、親方は毎朝いちばんに稽古場へ降りてくるようになった。俺の四股を、黙って見てくれていた。
次の朝も踏んだ。その次の朝も。五百回踏めるようになった頃にようやく幕下に戻った。
(稽古は裏切らない)
親方の口癖だった。
若い頃は聞き流していた。落ちてからはすがるように唱えていた。
序二段に落ちて二年目の春。部屋に新弟子が入ってきた。中学を出たばかりの、ひょろりとした少年だった。翔といった。
稽古場の隅で突っ立っている翔を見て、入門した日の自分を思い出した。気づけば声をかけていた。胸、出してやる。当たってこい。
翔は二十回ぶつかって二十回とも尻もちをついた。それでも一度も逃げなかった。鼻水を垂らしながら、何度でも立ち上がってきた。
あの朝、俺は少しだけ救われた。下にいるのは俺一人じゃない。這い上がろうとしている奴が、ここにもう一人いる。
翔は今も、あの稽古場で四股を踏んでいるだろうか。俺がいなくなった部屋で。
そして今。
痛みのない膝で踏む四股はあの七年分の五百回を全部覚えていた。体は新しくなったのかもしれない。だが稽古で刻み込んだものは消えていない。
ただ、一つだけ抜けないものがある。踏み込む前に、ほんの一瞬だけ膝のことを考えてしまう癖だ。痛くないと分かっていても、体のどこかが怖がっている。今日、三人まとめて寄った時も、その一瞬が確かにあった。
土手の上を村人が通っていく。俺を見て頭を下げていく。昨日までは遠巻きに見ていた人たちだった。
「アサヒさん」
振り返ると村長のゲルトさんが立っていた。
「ここにいたか。戟申しを書いたぞ。明日の朝いちばんに、ヨハンが聖堂の出張所まで届けに行く」
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこっちだ」
ゲルトさんは俺の隣に腰を下ろした。
しばらく二人で黙って小川を見ていた。細い流れがちろちろと音を立てている。
「あんたの国にも、家族がいるのか」
「母が一人。北の田舎で暮らしています。父は俺が入門する前に死にました」
「そうか。……心配しとるだろうな」
「……たぶん。もう、会えないかもしれません」
口に出すと、胸の奥が少しだけ痛んだ。ゲルトさんはそれ以上何も聞かなかった。
母は相撲が嫌いだった。痛そうで見ていられないと言って、俺の取組は一度もテレビで見なかったらしい。それでも大関に上がった日だけは電話をくれた。おめでとう、とだけ言って切れた。
「郷戟は一月後。収穫祭の日だ」
「一月」
「短いか」
「十分です」
「ボルグは三年、一度も負けとらんぞ」
「三年負けていない相手は、三年、負けを知らない相手です。そこに隙がある」
ゲルトさんが目を瞬いた。
「……面白いことを言う」
それから、少しだけ笑った。
ゲルトさんがこちらを見た。
「あんたは不思議な男だな。勝てると言う時の顔が、ちっとも偉そうじゃない」
「勝てると思ってるわけじゃないんです」
「なに?」
「稽古してきたことを、出すだけです。それで勝てなかったら、稽古が足りなかったってことだ。そして稽古の量なら、俺は誰にも負けはしない」
ゲルトさんはしばらく俺の顔を見ていた。それから小さく笑った。
「カイに聞かせてやりたいな」
「カイには、もう言いました」
「おっちゃーん!」
土手の上からトマが転がるように駆け下りてきた。
「おっちゃん、おれにも教えて! 四股と、鉄砲と、あと三人まとめてやっつけるやつ!」
「最後のは無理だ」
「なんで!」
「十年早い」
トマが頬をふくらませた。俺は笑ってその頭をなでた。
「四股なら教えてやる。明日の朝から一緒に踏め」
「ほんと!? 何回?」
「五百回」
「ごひゃっ……」
トマが白目をむいた。ゲルトさんが腹を抱えて笑った。
「じゅ、十回じゃだめ?」
「四百九十回まけてやる。……嘘だ。五百だ」
「ずるい!」
トマの後ろから、ガントとミーナも土手を駆け下りてきた。
「おれたちも!」
「あたしも!」
「……全員、五百回だ」
「五百回って、何日かかるの」
「一日だ」
子どもたちの悲鳴が夕暮れの小川に響いた。
「あ、そうだ。おっちゃん」
「ん?」
「おっちゃんの四股さ、バルド爺さまが教えてる舞に似てるんだよ。収穫祭で踊るやつ」
「舞?」
「地踏みの舞っていうんだ。こうやって、足を上げて、どーんって」
トマがよろよろと片足を上げて地面を踏んだ。
形はめちゃくちゃだった。
だが俺は笑えなかった。
足を上げて地面を踏む舞。
この世界にはそんな舞が残っているのか。
「トマ。その舞は、誰が教えてるんだ」
「バルド爺さま。村でいちばんの年寄りだよ」
夕日が小川の水面に赤く映っていた。踏み固められた土の匂いが、ふと国技館の土俵の匂いと重なった。




