第15話 四股と鉄砲
◆トマ
朝、外からどすんどすんと音がして目が覚めた。母ちゃんが「地震かい!」って飛び起きた。窓の外を見たら、広場のほうへ大人たちが集まっていくのが見えた。おれは寝間着のまま家を飛び出した。
「おい、見ろよあれ」
「なんだありゃ。踊りか?」
「片足であんなに……うわ、また上げた」
朝いちばんの広場に人だかりができていた。
まだ朝霧が残っている。畑へ向かう途中の大人たちが足を止めて、一人また一人と輪を作っていた。
真ん中にいるのはアサヒのおっちゃんだ。上半身裸で紺色の帯を締めている。片足を高く上げては地面に叩きつける。
どすん。
どすん。
おっちゃんの足元の土は、踏まれたところだけ黒く固くなっていた。背中から白い湯気がゆらゆらと立ちのぼっている。
「おっちゃーん! おはよー!」
「おう、トマ。おはよう」
返事をしながらも足は止まらない。右。どすん。左。どすん。
「あれ、何回目だ?」
「さあ。おれが来た時にはもう踏んでたぞ」
「百は超えてるよな」
「腹が揺れてるぞ、腹が」
「踊りなら祭りでやれよ。祭りはまだ一月先だぞ」
「あれで強くなれるなら、うちの婆さんでも郷戟に出られらあ」
大人たちがひそひそ言い合っている。おれは胸を張った。
「四股っていうんだよ。強くなるための練習なんだ」
昨日の夜、おっちゃんから聞いたばかりの言葉だ。おれはそれを、自分のことみたいに言った。
おれは横でおっちゃんの四股を数えた。二百一。二百二。数えているうちに分からなくなった。
「しこぉ?」
「足で地面を踏んで、体を作るんだって」
言った途端にどっと笑いが起きた。
「地面を踏んで強くなれりゃ苦労しねえよ」
「牛だって毎日踏んでるぞ」
「じゃあうちの牛は村一番の力持ちだな」
「ちげえねえ!」
「あんた、朝から地面をいじめてないで畑でも耕しな!」
マルタおばさんまで笑っている。
大人たちが腹を抱えて笑う。おれは顔が熱くなった。
「笑うなよ! おっちゃんはすごいんだぞ! 水樽二つ担いで山を五往復したんだぞ!」
「そりゃすげえけどよ。踊りは関係ねえだろ」
「ああ、関係ねえな」
悔しくて言い返そうとした。その時大きな手がおれの頭にぽんと乗った。
「いいんだ、トマ」
「でも!」
「笑われるのは慣れてる。俺の国でも、最初はみんな笑うんだ」
「じゃあ、おれも踏む!」
おれはおっちゃんの隣で片足を上げた。高く。もっと高く。
ぐらっ。
尻もちをついた。広場が今日いちばんの大笑いになった。ガントまで腹を抱えている。
「上げる足ばかり見るなって言っただろう。残る足に乗れ」
「わ、分かってるよ!」
もう一回。今度は転ばなかった。どすん、とは鳴らなかったけど、とん、くらいは鳴った。
それを見ていたガントまで隣で片足を上げて、見事にひっくり返った。今度はおれが腹を抱える番だった。
「アサヒ。それは何のためにやってんだ」
ダグさんが腕を組んで聞いた。
「足の裏で地面をつかむためです。円の中じゃ、足の裏が離れたら負けですから。足の裏がいちばん大事なんです」
ダグさんは「ふうん」と言っただけだった。でも、もう笑ってはいなかった。
おっちゃんは汗を拭いて広場の端の大きな樫の木の前に立った。
村でいちばん古い木だ。大人が三人で手をつないでもまだ幹を囲めない。
昔から村の守り木と呼ばれている。お祭りの時には枝に布を結ぶ。
「今度は何やるんだ?」
「木と裸戟でも取るのか?」
「勝てっこねえぞ。そいつは百年動いてねえ」
また笑いが起きる。
おっちゃんは笑わなかった。両手を幹に向けて構える。腰を落とした。
「少し離れててくれ。葉っぱが落ちる」
「葉っぱぁ?」
どん。
おっちゃんの右手が幹を打った。
ざあっ。
樫の木の葉っぱが雨みたいに降ってきた。枝という枝が揺れている。てっぺんで寝ていたカラスがぎゃあぎゃあ鳴きながら飛んでいった。
最初に笑うのをやめたのは、いちばん前にいた鍛冶屋の親方だった。
どん。左。ざあっ。
どん。右。ざあっ。
次にマルタおばさんが笑うのをやめた。それから粉挽きの親方。猟師のフランツさん。一人、また一人。笑い声が葉っぱと一緒に地面に落ちていくみたいだった。
どん、という音が腹の底に響く。地面じゃなくて、自分の体が叩かれているみたいだった。
打つたびにおっちゃんの足が地面を噛んで前へ出る。木は動かないはずだ。なのにまるで押されて後ずさりしているみたいに見えた。
広場が静かになっていた。
さっきまで笑っていた大人たちが口を開けたまま固まっている。誰かの頭の上に葉っぱが一枚乗っている。誰も払おうとしなかった。
樫の木の根元には、おっちゃんの足の跡が二つ、深くめり込んでいた。
おれは胸を張った。ほら見ろ、と言いたかった。でも声が出なかった。おれも、ちょっとだけ怖かったからだ。
「……鉄砲っていうんだ」
おっちゃんが手を下ろして言った。
「突き押しの稽古だ。腕で押すんじゃない。足で押す。足の裏から腰、腰から肩、肩から手のひら。全部ひとつにして、前へ」
「……」
「これを、毎朝やる」
「毎朝……あれを……」
誰かがかすれた声でつぶやいた。
誰も何も言わなかった。
しばらくしてダグさんがぼそりとつぶやいた。
「……牛は、木を揺らさねえな」
誰も笑わなかった。
樫の木だけがまだ枝を揺らしていた。笑っているみたいに見えた。でもたぶん違う。あれは震えてたんだと思う。
「アサヒ」
人垣の後ろから声がした。
カイ兄ちゃんだった。左腕を吊ったまま大人たちをかき分けて前に出てくる。
兄ちゃんの顔は、いつもより少しだけ明るく見えた。
「若衆を集めておいた。昼から広場で取ってもらう」
「分かった」
「三人だ。村でいちばん腕っぷしの強い奴らを選んだ。手加減はするなよ」
「怪我はさせない。だが、負けもしない」
「親父にも話は通してある。若衆が勝ったら、この話はなしだ」
「分かった」
「三人だってよ」
「ハンスとペーターとウドか」
「ウドは泣くぞ、あいつ」
大人たちがひそひそ言い合う。もう誰も、笑ってはいなかった。
おっちゃんはにっと笑った。
その顔を見ておれは思った。
ああ。この人、楽しみで仕方ないんだ。
その日の昼までに噂は村じゅうに広まった。川の神さまが若衆三人と取るらしい、と。おれは昼飯も食べずに広場へ走った。




