第14話 折れた腕
◆カイ
夜明け前の空はまだ群青だった。
寝床でずっと天井を見ていた。夜が明ける前に家を出た。親父もリネもまだ寝ていた。
村の外れの空き地に着くとあいつはもう来ていた。
何をしているのか最初は分からなかった。
大きな体が片足を高く上げる。高く。信じられないほど高く。天に向かって足の裏を見せるように。
そして下ろす。
どすんと地面が鳴った。
腹の底に響く音だった。足の裏から震えが這い上がってくる。
足の裏から脛へ。膝へ。腹へ。地面の震えがゆっくりと這い上がってくる。
反対の足を上げる。下ろす。どすん。
また反対。どすん。
「……なんだ、それ」
「四股だ。おはよう、カイ」
あいつは足を止めずに答えた。額にはもう汗が光っている。いったいいつから踏んでいたんだ。
「踊りか?」
「稽古だよ。足腰を作る。地面を踏んで、地面から力をもらう」
「地面から力なんかもらえるかよ」
「もらえるさ。相撲……こっちでは裸戟だったか、その力は全部、足の裏から来る」
足の裏。
負けの決まりでいちばん大事なところだ。足の裏以外がついたら負け。だから足の裏だけは地面から離すな。それくらいは誰でも知っている。
知っている。だがそこから力をもらうなんて考えたこともなかった。
あいつは四股をやめて今度は腰を落とした。
膝を曲げる。背筋は伸ばしたまま。すうっと滑るように前へ出る。
足の裏が地面から一度も離れない。それなのに速い。
最後に空き地の端の楢の木の前に立った。両手を幹に向けて構える。
「離れてろ。木の皮が飛ぶ」
どん。
あいつの右手が幹を打った。
楢の木の枝という枝が震えた。眠っていた鳥が一斉に飛び立った。
あの楢の木は俺がガキの頃から村外れに立っている。大人が三人がかりで押しても葉一枚揺れなかった木だ。
左。どん。右。どん。
打つたびにあいつの足が地面を噛んで前へ出る。腕で打っているんじゃない。足で打っているんだ。
俺は口を開けたまま突っ立っていた。
「……鉄砲っていうんだ」
「てっぽう」
「俺の国の稽古だよ。毎朝これをやる。何年も、何十年も」
あいつは手のひらについた木屑を払った。
俺は吊った左腕を見下ろした。
「……去年。俺はボルグに真正面からぶつかった」
「ああ」
「村でいちばん力が強かったのは俺だった。だから代表になった。円の真ん中で思いっきり当たった。そしたら、あいつは一歩も下がらなかった」
声が勝手に震えた。
「帯をつかまれて、振り回されて、地面に叩きつけられた。あいつの体が上から落ちてきて……骨が折れる音がした」
「……」
「村の水を取り返すって、親父に言ったんだ。リネにも言った。それで、このざまだ」
言うつもりはなかった。口が勝手に動いていた。
悔しかった。
ボルグにじゃない。何もできずに転がった自分にだ。
あの日のことは、今でも夢に見る。
河原には両村の人間が集まっていた。親父がいた。リネがいた。村の連中が俺の名前を叫んでいた。審司のじいさんが神配を掲げて、俺とボルグが円の真ん中で向かい合った。
ボルグは構えもしなかった。突っ立ったまま、にやにや笑っていた。馬鹿にされていると思った。だから全力でぶつかった。
壁だった。
生きた壁にぶつかったみたいだった。跳ね返されて、よろけたところで帯をつかまれた。足が地面から離れた。空が回った。背中から叩きつけられて、息が止まった。
その上に、ボルグが落ちてきた。
ベッカの連中の歓声が遠くに聞こえた。勝ち名乗りの声も。
左腕の中で何かが鳴った。木の枝が折れるような音だった。痛みは後から来た。リネの悲鳴が聞こえた。親父の顔が見えた。見たことのない顔をしていた。
俺は泣かなかった。泣いたら、全部が終わってしまう気がしたからだ。
代わりに次の日から腕を吊ったまま畑に出た。何かしていないと、あの音が頭の中で鳴り続けるからだ。
あいつは黙って俺の話を聞いていた。
それから俺の前に立って腰を落とした。
「カイ。右手だけでいい。俺の胸を押してみろ」
「……は?」
「ボルグになったつもりで。ゆっくりでいい」
言われるまま右手であいつの胸を押した。
押した瞬間に何かが下から来た。
あいつの頭が俺の胸の下に潜り込んでいる。いつの間に。
ゆっくりだった。本当にゆっくりだった。なのに踵が浮く。体が持ち上がる。押そうとした右手から力が抜けていく。
「っ……!」
「ボルグの腰は高い。お前もだ。だから下から来られると浮く」
「……」
「浮いたら、もう踏ん張れない。どんな力持ちでも」
「……ボルグも、浮くのか」
「浮く。あいつの腰は、お前より高い」
あいつが離れた。
俺はよろめいた。尻もちをつきかけて慌てて足を踏ん張った。
「お前が負けたのは、弱かったからじゃない。知らなかっただけだ」
「……知らなかった、だけ」
「俺も怪我で、どん底まで落ちたことがある。膝を壊してな。相撲が取れないあいだ、毎日思ってた。弱かったから壊れたんだって」
あいつは自分の右膝をぽんと叩いた。
「違った。知らないことが多すぎたんだ。だから、一から全部覚え直した」
「……覚え直すって、どうやって」
「稽古だ。毎朝四股を踏む。鉄砲を打つ。すり足で土俵を回る。それを何年も続ける。俺は十七年、一日も休まなかった。膝を壊した日だけは別だがな」
「十七年……」
「なんで、そこまでして続けたんだ」
「土俵が好きだからだ。それだけだ。……怪我した後の最初の一年がいちばんきつい。体より先に心が負ける。そこを越えれば、あとは稽古が連れていってくれる」
「力は誰にでもある。でも、力を地面に伝える体は、稽古でしか作れない。ボルグには力がある。でもあいつは、自分の力の使い方を知らない」
「……俺にも、その稽古ってのは、できるのか」
「腕が治ったらな。四股なら今日からでもできる」
あいつは笑った。俺は笑えなかった。けれど胸の奥で、ずっと固まっていた何かが少しだけ緩んだ気がした。
朝日が空き地の端から差し込んできた。あいつの汗が光っていた。
俺はしばらく何も言えなかった。
この一年、俺は誰にも腕の話をしなかった。親父にも、リネにも。話したら、負けたことが本当になってしまう気がした。
それを、昨日今日会ったばかりの余所者に話している。おかしな話だった。
やがて喉の奥から絞り出すように言った。
「……親父には、俺から言う」
「カイ」
「ただし、条件がある」
俺は右手であいつの胸をもう一度押した。今度はただ叩くように。
「村の連中は、まだお前を信じちゃいない。若衆どもと取って、全員に勝ってみせろ。それができたら、お前が代表だ」
あいつは嬉しそうに笑った。腹の底から子どもみたいに。
「望むところだ」
朝日がすっかり昇っていた。村のほうから鶏の声が聞こえる。
俺は吊った左腕を見下ろした。一年ぶりに、この腕を恥ずかしいと思わなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
「続きが気になる」「面白かった」と思っていただけたら、ブックマークや、下の☆☆☆☆☆からの評価で応援していただけるとうれしいです。




